法隆寺は奈良盆地の人々がつくった

法隆寺飛鳥寺の建立は、帰化人が設計し指導したのでしょうが、それでも奈良盆地の人たちが数百年にわたって培ってきた建築技術があってこそのものであるはずです。伊勢神宮のような高床式住居から始まった弥生時代以来の歴史です。
たとえば、どこの木を切ってどこを通ってどうやって運んでくるかということの決定は、そこに何百年も住み着いて、それなりのものを建築してきた歴史がなければできることではないでしょう。
また、彼らはときに、その木が千年後にはどういう縮み方やたわみ方をしてくるかということまであんばいしていた、という話もあります。そんなことは、そこにやってきて百年二百年の人たちにうまれてくるようなアイデアではない。大陸と日本列島の木はちがうし、建築されたものがおかれている気候環境だって、けっして同じではない。もちろん、九州と奈良盆地だって、条件はずいぶん異なるはずです。
奈良盆地に長く住み着いてきた人たちの生きた知恵が結集されて、はじめて法隆寺飛鳥寺を造営することができたのだ、と思えます。
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中国や朝鮮の寺院は、後世になるとレンガや石で造られるようになって来る。
それにたいして日本列島では、あくまで木造建築にこだわった。もともと山の民で、木にたいする親しみがあったということに加え、木が持っている時間とともに変化してゆく性質を受け入れることができた、ということもあります。
この国の木工技術は、枡ひとつつくるにしても、木の変化があんばいされている。そういうことをあんばいしなければ、千年以上立っていられる五重塔を建てることはできない。
木にたいする親しみだけなら、世界共通の心性です。美しい木の家具なら、世界中にあり、世界中の人々に愛されている。しかし、船のように水に浸かって構造が変化しやすいものや、寺院建築のように大きいものになると、この国でつくられたものがいちばん長持ちする。
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頭の構造が緻密だとか繊細だとか、そういうことではない。変化してゆくことを受け入れることができるかどうか、という問題なのだ。大陸では、それは、否定される。彼らは、変わらない未来を求める。しかしこの国では、その不可能性が受け入れられる。
去年の自分とことしの自分は、同じだといえば同じでしょう。自分以外の何者になったわけでもない。あいも変わらず、自分でしかない。しかし、同じでないといえば、同じのことなど何もない。確実にひとつとしをとったし、去年の自分は、この一年に自分が体験したことの何ひとつ知らなかったのだ。たくさんの人やものと出会って、そして別れてきた。
日本列島で暮らしている者は、どうしてもその気分を避けることができない。
変化してゆくとは、さすらう、ということです。
山野をさすらう縄文人の暮らしには、文字という明日の約束がなかった。その代わり、つねに新しい人やものとの出会いがあった。そういう今ここの会話だけを繰り返して彼らは生きていた。たとえば、ツマドイ婚における会話や歌における音声の抑揚などのタッチばかりをひたすら洗練させてゆくという、そうしたいわば刹那主義的な生き方や言葉のはたらきが、変化を受け入れるという感性をつくっていった。瞬間瞬間を生きているから、変化に敏感になるし、変化を受け入れることができるのだ。
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神社や寺院の建築の専門家を「宮大工」といいます。彼らの高度な木工技術は、法隆寺薬師寺を建てた時代にすでに完成されていた、ともいわれています。であれば、その技術は、それ以前の弥生時代以来の神社、すなわち高床式住居の建築によって培われてきたものであるはずです。法隆寺飛鳥寺が建てられる以前から伊勢神宮をはじめとする神社はたくさん建てられていたわけで、だから、宮大工、というのでしょう。法隆寺飛鳥寺は、「寺大工」ではなく、「宮大工」が建てたのです。
仏教寺院のデザインは大陸から学んだが、木工技術そのものは、大陸よりもむしろ進んでいたのです。だから法隆寺薬師寺が21世紀の今なお残っているのであって、大陸にはそれだけの技術はなかった。とくに三重の塔や五重塔をあんなにもすらりとしたかたちで立たせて、しかも千年以上たってもがたぴししてこないように建てる技術はもう、この国の宮大工の独壇場です。
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時間とともにこの生やこの世界が変化してゆくこと。人も、人の心も、移ろい変わってゆく。そして、一神教の大陸にたいして、この国は八百よろずの神とともにある。大陸の人々は、ただひとつの神とともに世界の中心で生きているが、この国の古代の人々は、世界の「果て」に坐す神々からいざなわれながらさすらって生きていた。
何しろ縄文時代の男と女は、気質も生活形態も住む場所もまったく違っていて、「ひとつのものを共有する」ということを知らなかった。おそらく、そこから始まっている。彼らは、世界や人の心の、すべての差異や変化を肯定し受け入れていった。
たとえば古事記のあの荒唐無稽な話は、誰もが発想し得たものではないでしょう。しかし、誰もがそれを信じた。つまりその特異性を、誰もが受け入れたのです。
さすらっていれば、新しい場所に移ってきたことの変化や差異は受け入れるしかないのだし、そういうことと出会うときめきこそ、さすらうことの醍醐味であるともいえる。
この国の高度な木工技術は、そのような縄文時代以来のさすらう心性によって磨かれていったのであろうと思えます。