言霊(ことだま)と古代人

初期の大和朝廷になかなか文字が生まれてこなかった要因を考えようとするなら、言霊(ことだま)の問題も避けることはできない。ただこれは、やっかいすぎて、素人では扱いかねる面がある。とはいえ、もしかしたら、これがいちばん大きな問題であるのかもしれない、と思わないでもない。
奈良盆地の人々は、人の心を揺り動かす「言霊」の力を信じていた。
あくまで、話し言葉や声に宿る言霊、ですね。そのために文字を生み出そうとする社会的な動きがなかなか現れてこなかった。
現代の研究者は、それを「言霊信仰」というのだが、ともあれ信仰と呼ばれるくらい深く身についた生活感情であるのなら、一朝一夕に生まれてきたものではないでしょう。
おそらく、縄文時代以来の伝統であるはずです。
ツマドイをする男と女の関係、けっきょくまたそこに戻るしかない。
女が家の中にいて、男は外から呼びかける。呼びかける男から、女の顔は見えない。夜なら、家の中に隠れている女のほうからだって、ほとんど見えないも同じでしょう。言葉と声だけが行き交う関係。しかも、おたがいはじめてそこで出会ったのです。であれば、もしもそこで相手の心を動かせたとしたら、それはもう、言葉と声の力だ、と認識するしかない。
縄文時代の男と女は、顔かたちでもなく生活力でもなく、ひたすら声と言葉によってときめき愛し合っていた。
西洋のように、見つめあい抱きしめあう行為から始まる関係ではなかった。
縄文の男と女は、言葉と声に全存在(魂)を込めた。言葉と声しか愛し合う手段も機会もなかった。そして、はじめて出会って顔も見えないのだから、説得するとか合意するといった関係を持つことは、ほとんど望むべくもない。だから、言葉の意味は、たいした問題ではない。もう、世界の果てにいる相手に呼びかけているようなもので、声が届くかどうか、その声の抑揚が相手の心を揺り動かせるかどうか、それこそがもっとも大きな問題だった。
天の川の牽牛織女伝説も、こういう関係から生まれてきたのだろうと思えます。
彼らは、こんな経験を8千年も繰り返していた。そりゃあ、言葉や声に霊妙な力が宿っていると思えてくるのは自然なことです。
言い換えれば、縄文時代のこの体験がなければ、古代の「言霊信仰」は生まれてこなかったにちがいない。ただそれは、信仰というようなものではなく、もっと現実的な生活感情であったのだろう、と思えます。
まあ、信仰というより、セクシュアリティの問題でしょうか。言伝するよりも、行ってじかに話さずにいられない。言葉の意味を伝えるよりも、声を届けてはじめて関係が成り立つのだという、そういう生活の作法(習慣)として定着していった。またそれは、歌詠みや宣命(みことのり)として、声の抑揚を洗練させてゆく感性にもなっていった。
言霊信仰とは、たんなる声の抑揚にたいするこだわりのことだ、ともいえる。しかしそのこだわりが生まれてくる源泉は、「世界の果て」に立たされているという縄文時代以来の漂泊の心性というか、その死生観にある。あえて言いたいのだけれど、それは、古代人の「信仰」ではなく「思想」なのだ、と。
日本列島にも、漢字伝来以前に、独自の古代文字というのはあったわけで、しかし彼らは、それよりも声の抑揚という「言霊」にこだわっていった。それは、話し言葉の純粋で根源的な機能のことであり、古代人はそれをよく心得ていた、というだけのことでしょう。
つまり、かんたんに文字と権力で支配してしまえるほど、人と人の関係が近くなかった。彼らが言葉の意味よりも言霊にこだわったということは、合意し合う関係が断念されていた、ということを意味する。
そういうことを考えてゆくと、文字を持たなかったころの古代の大和朝廷奈良盆地の人々を権力によってがんじがらめに支配していたとは、とうてい思えない。
文字を持つことは、いいことばかりではないのですよね。それがどんなにおそろしいことか、どんなに人間の社会を歪ませることか。研究者は、弥生時代から古墳時代あたりまでの歴史を、権力による支配や貧富の差が生まれてきた歴史のように説明してくれるが、むしろそういう矛盾があらわれてくることをぎりぎりまで踏みとどまった歴史として問い直すべきではないかと思えます。