文字を持たないころの大和朝廷

日本語ほど発音がシンプルな言葉もそうはない。一音を一文字(かな)で表すことができる。
中国語は複雑すぎて、音声をそのまま文字にすることができない。だから、象形文字になっていった。
西洋の言葉は、「あいうえお」と「ん」以外は、二つか三つの文字を組み合わせてはじめて一音になる。
日本語は、もっとも文字にしやすい言葉であるはずなのに、人々は、文字を持とうとしなかった。それは、文字を必要としない共同体だったからでしょう。
あるいは、あまりに身体的で、あいまいで、文字にするのに適さない言葉であったのでしょうか。雨と天(=あめ)、橋と箸と端と嘴(=はし)、やまとことばは、あくまで語られるその場の音声の抑揚が命で、それを文字にしても無意味だったのかもしれない。人々は、意味を伝え合っていたのではなく、音声の抑揚を伝え合っていた。音声の抑揚を伝え合うことの醍醐味、それが人と人の関係を成り立たせていた。このへんはややこしいところで、僕の手におえない問題がたくさんあるのだが、とにかく、古代の奈良盆地において、外部からの征服者などという邪魔者が入ることなく、民衆じしんによる文字を必要としない共同体がつくられ維持されていったのは確かであろうと思えます。
たとえば、人に何かを伝えてもらうと、とても紛れが多くて、自分が行って話すしかない。もともと山野をさすらっていた人々だから、行くことをいとわなかった。行って話す、迎え入れて聞く、そういう伝統をもった社会であれば、文字が生まれてくる契機が希薄だったのかもしれない。
また、神との対話としての「宣命(みことのり)」のように、話し方歌い方の工夫ばかりして、文字をつくり出そうとする意欲がなかった。彼らにとって神との関係は、未来にたいする「祈り」ではなく、あくまで現在の「対話」として成り立っていた。神は、この世界の「向こうがわ」ではなく、この世界の「果て」に存在していた。
文字は、それが読まれるという「未来」を先取りして書かれる。大陸では、世界の果てとしての地平線の向こうから人がやってくる。だから、世界の果ての向こうがわとしての「未来」という概念をもつことができた。
しかし、海に囲まれ閉じ込められた日本列島の住民には、それをもつことは叶わず、あくまで現在における世界の果てに届く「声」を大切にしていた。
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そりゃあ、役人どうしの合意を確認するための漢字というのは、古墳時代から使われていたかもしれないが、それが民衆を支配する道具になったのは、ずっとあとの律令制度がしかれてからのことだったはずです。
この国では、まず役人どうしが、文字によって支配し、支配されていた。民衆は、関係なかった。意識が未開だったからではない。すでにこちらから、支配されてやっていたからだ。
つまり、権力者などいない歴史の段階で、民衆じしんが「われわれは支配される必要がある」と気づいたからでしょう。なぜなら、8千年の縄文時代を山で生きてきた人々は、平地で暮らすことも、たくさんの人間が寄り集まって暮らすことも知らなかったからです。そしてそれは、リーダー(権力者)になれる人間が現れてくる歴史的な基盤を持たないということでもあり、彼らはもうそれを、自分たちで選び育ててゆくしかなかった。
天皇が権力者であるということは、民衆がまつり上げた権力者である、ということです。だから、天皇家の歴史が民間伝承として語り継がれ、古事記という物語になった。この国における歴代の実質的な権力者が、ついに天皇家を排除することができなかったのは、天皇を排除することが、そのまま権力を危うくすることでもあったからでしょう。今なおこの国の権力のいくぶんかは、民衆がまつり上げるというかたちの上に成り立っている。
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「山」と書いて「やま」と読む。それは、人々が「やま」と読むことに合意する、ということであり、それじたいすでに権力に合意していることを意味する。文字をつくり出そうとする衝動とは、人を「合意」させようとする権力欲にほかならない。住民の「合意」を獲得するために、文字がつくり出されていったのだ。
命令に従う、という行動性は、文字を読む(=合意する)という習慣から生まれてくる。だから、現代人=文明人であればあるほど、命令に従順なのです。べつに、知能指数が高いから、命令に従うことができるのではない。文字に飼い馴らされているからだ。
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やまとことばは、合意するための言葉ではない。合意できないことの「嘆き」を分かち合うための言葉なのではないだろうか。このことを考えてゆくと、縄文時代の、ツマドイしていった男と女の関係に行き着く。
山野をさすらう男は、さすらうことを嘆き、定住してじっと待つ女は、待つことを嘆く。それは、おたがい相手にはわかるべくもない気持ちです。しかし、それを交感(歓)することによって、さすらうことの嘆きが癒され、待つことの嘆きが癒される。それによって男は、さすらうほかないことを悟り、女は、待つほかないことを悟る。それは、合意することではない。合意できないことによって、みずからの生がそこで完結していることに気づかされることです。
西洋では、抱きしめあって合意を得るのが挨拶だが、日本列島では、深々と頭を下げて合意できない関係=嘆きを確かめ合う。合意できない関係を、合意するための文字によって確かめ合うことは論理矛盾であり、できるはずがない。それは、話し言葉による音声の抑揚にしかない。やまとことばにおいては、言葉の意味よりも、発語する気分(感慨)のほうが大事なのです。だから、あま(天)とあま(亜麻)とあま(海人)が同じであっても、いっこうにかまわない。やまとことばは、あくまで「現場のタッチ(感触)」が生命だった。
おそらく、そのような縄文時代以来の男と女の関係=生態がやまとことばを育てていったのだろう、と思えます。
やまとことばは、合意する「未来」を目指していない。合意できない現在を受け入れる言葉です。合意を目指していっしょに生きてゆくための言葉ではなく、合意できないことを嘆き合いながら、今ここでこの生を完結させてしまう言葉です。話すことで完結してしまう、文字を必要としない言葉なのです。
古代の日本列島では、合意しないことの上に人と人の関係が成り立っていた。そのために、なかなか文字によって支配する共同体ができてこなかった。そして、合意がなくても共同体は生まれてくるのだということ、人間は懸命に住み着こうとする生きものであり、一ヶ所に人が寄り集まってしまえばもう、共同体としてやってゆくほかないのです。
天皇は、民衆を支配していたのではない、民衆から支配させられていたのだ。民衆は、権力の支配に合意させられていたのではない、権力をつくり育てていたのだ。それが、文字のない社会だった、ということの意味するところだろうと思えます。