縄文人の心

縄文人の心」
人間に、旅(移動)をしようとする衝動などはない。しかし、それでも人間は旅をする。旅なんかしたくないから、旅をしてしまう。つらいのなんかいやだから、つらい土地に住み着いてしまう。生きること(命のはたらき)は、ひとつの逆説(=パラドキシカル・ジャンプ)である。われわれが、お金なんか汚らわしいものだと思いながら、お金のために働いているのと同じです。汚らわしいと思わなければ、お金は世の中を流通しない。人間が生きることや人間の歴史は、A=Bとか1+1=2というようにはなっていない。都市に棲む山姥さんの言を借りれば、それを問うことは「可能性と不可能性のあわいを分け入ってゆく」ことです。
縄文人は、日本列島の「この風景」の中に閉じ込められていた。閉じ込められて「これが世界のすべてだ」と深く認識していたからこそ、彼らの実際の行動も心性も「漂泊」していたのだ。そういう論理で、ここから、そのあわいに分け入ってみたいと思います。
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縄文人は、主に内陸部の丘陵地にすんでいたらしい。
つまり、彼らの多くは、山にさえぎられて地平線も水平線も見えないところに住んでいた、ということです。
移動しようとする衝動があったら、けっしてこんなところには住まない。
縄文人は、地平線や水平線が見えると、その先の黄泉の国を想像して不安になってしまうのかもしれない。そこでは、目の前の見える景色にたいして、これが世界のすべてだ、と了解することができない。
彼らは、海が見えるところに住むことを嫌った。そしておそらくその習性は、初期の大和朝廷奈良盆地や京都につくられた、というところまで引き継がれていったはずです。
彼らは、視界が山にさえぎられてある場所を好んで住み着いていった。日本列島に閉じ込められてあった彼らは、みずからすすんで閉じこもってもいった。
閉じこもってこの生に立ち尽くすこと、そういう流儀で生きていた。
では、彼らに、日本の伝統である漂泊の文化(心性)はなかったのか。
そうともいえない。
おそらく、ただもう、生きてあることそれじたいが漂泊だったのでしょう。
山に囲まれてこの景色が世界のすべてだと深く認識していたのであれば、今日生きてあることこともまた、これがこの生のすべてだ、と認識していたはずです。
そうして、朝目覚めて山の端に日が昇るのを眺めたとき、何か明日にさまよい出たような感慨があったことでしょう。
彼らにとって「明日」とは、新しい世界だった。
だから「朝」のことを、「あした」という。
「あした」と「あたらし」は、つながりがあるのでしょうか。あるのかもしれない、という気がします。
「あかつき」と「あけぼの」の違いを分けているのは、日本人くらいのものではないかと思えます。あかつきは、まだ明るくなってきていない状態です。夜と、明るくなり始めるあけぼのとのあいだの、微妙なひととき。それを、あかつき、という。そのひとときの暗い空や山の端を眺めているときの、ひそかにうずいている期待。まさしく期(とき)を待ちながら、なんだか体の奥がしいんとしてくるようなときめき・・・まあ、そんなような感慨が日本人にはある。そしてそれは、おそらく縄文人が最初に抱き、育てていった感慨であろうと思えます。
縄文人は移動しない民族だったからこそ、漂泊の心性を持っていた。
彼らにとって漂泊は、地理の移動よりも、まず時間の移ろいのなかにあった。
また日本列島は、四季がはっきりしていて、時間の移ろいを如実に感じさせる環境でもあった。
日本人がこんなにも桜が好きなのは、まいねんのその開花とともに、何か新しく生まれ変わったような感慨があるのかもしれない。旅人が、峠にたどり着き、目の下に新しい村が広がっている眺めと出会う。そういう感慨を、寿命が短くつねにみずからの死の予感とともにあった縄文人は、朝がくるたびに抱いていたのではないだろうか。
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縄文人に、まったく移動がなかったわけではない。
彼らは、だいたい2、30人でひとつの集落をつくっていた。したがって、住民のほとんどは近親関係であり、集落内での婚姻関係はなかったらしい。
これは、禁止していたというより、住民どうしの関係が近すぎて、そうした性衝動があまり起きてこなかったのだろうと思えます。2、30人の近親どうしで、しかも山間部の丘陵地帯でそれぞれの住居はくっつきあっていただろうから、子供たちはみんなきょうだいのようにして育って、性衝動につながる男女間の緊張関係が生まれにくい空気だったのでしょう。
また縄文人の男は狩が大好きで、食用の家畜を飼育するということに興味がなかったらしく、そういうメンタリティとも関係があるのかもしれない。彼らは、食料の安定確保よりも、狩のときめきを優先していた。そういう人たちが、婚姻の相手を手近なところですませるということをするだろうか。
男たちはいつも狩で出歩いており、たとえばそういうときにどこかでたまたま見かけた他の集落の女についときめいたりしてしまうとか、おそらくもう、そんな噂話をいつもしていたにちがいない。そうして、自然に、男が他の集落の女を訪ねていって婚姻関係を結ぶという「つま問い婚」の習俗ができていったのではないでしょうか。
彼らは、生来的に「ときめく」という心性を持っていた。だから、どうしても、他の集落の女に興味を持ってしまう。「つま問い婚」もまた、ある意味で漂泊の心性から生まれてきた習俗だ、といえるのかもしれない。いや、「つま問い婚」を生むような社会の構造が漂泊の心性をつくっていった、というべきでしょうか。そういう「あわい」に、縄文人の生があった。
日本列島で、山や海に囲まれて「この景色が世界のすべてだ」と深く認識して暮らしていれば、身体的皮膚感覚的な「ときめき」が豊かに生まれてくる。彼らは、生きにくい環境条件を引き受けながら、「ときめき」にうながされて生きていた。そういう意味で、「津軽は、まほろば」だったのかもしれない。ただ住みやすかったからそこに住み着いた、というようなことではないのだ。