縄文人の定住化Ⅱ

「人類史のなかの定住革命」(講談社学術文庫)という本をなくしてしまいました。また買いなおして著者の印税収入に奉仕するのも悔しいので、この本についてのレポートは、これで終わりにします。
どなたか、僕の代りに買ってやってください。
とりあえず、縄文人の定住化は、いつどこで始まったか、という問題を、もう少し考えてみます。この本の著者のように、水産資源を確保できるようになったからだ、というような安直な分析ではなく。
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鹿児島県のカコイノ原遺跡は、1万1千年以上前の縄文草創期のもので、すでに定住していたらしい痕跡があるのだとか。鹿児島は、行き止まりの地ですからね。当然移動するのをやめてしまう人も出てくる。とくに、もとの群れを飛び出してきた人にとっては、そこで、戻ることことも進むこともできないことを悟って立ち尽くしてしまうほかない場所です。
縄文前夜の旧石器時代におけるナウマンゾウやオオツノジカなどの寒冷気候性草食動物は、南の地方から順にいなくなっていったのだろうから、そこは遊動狩猟生活が最初に成り立たなくなった土地である、ともいえます。
そうして気候が温暖化して採集した木の実や野草などを食料とする割合が増えてくれば、なおも狩猟にこだわろうとする男たちと、採集した木の実や野草中心の食生活に転換して生きてゆこうとする女たちとのあいだに、意識のずれが生まれてくる。
もともと女は、男ほどの脚力もないし、子供も産まなければならないし、あまり動きたがらない人種です。というわけで、最初は遊動狩猟生活の一時的なベースキャンプだった場所の滞在期間がだんだん長くなってゆき、しまいには、女はベースキャンプに居座り、男たちだけで遊動狩猟活動に出かけていってはときどき戻ってくる、という生活になっていったのかもしれない。
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荒海に漕ぎ出す船を持たない原初の日本列島で暮らす人間にとって、水平線を眺めることは、なにか茫漠とした不安を強いるものであったらしい。多くの縄文人が窮屈な山の中に里をつくって暮らしていたことは、そういうことを意味する。縄文時代に最も人口が多かったのは、中部地方から東北にかけての山地だった。海岸に住むといっても、ほとんどが入り江に囲まれた場所で、そこでの海はまあ、水平線のない湖のような対象だったはずです。そして、海にやってくるということは、それじたいがすでに行き止まりにたどり着くことだった。
多くの縄文人は、山の民だった。
山歩きは、女にとっては、なお過酷です。山の中に入ってゆくことだって、山という壁を前にして、さらに行き止まりの気分にさせられる事態であったはずです。しかしナウマンゾウやオオツノジカが絶滅した氷河期明けの縄文時代はもう、イノシシやカモシカやクマなど、山の中にしか狩猟の対象となるけものはいなかった。
そこで、北の地方の女たちも、山の中にベースキャンプを設営する時代になれば、そこから動こうとしなくなっていったにちがいない。
北と南とどちらが先に定住していったかと問うことは、あまり意味がないように思えます。どちらでもいい。とにかく、日本列島全体が、定住化を生むような状況になっていたのであり、日本列島の人間、とくに女たちの誰もが、行き止まりに立ち尽くす感慨を持ってしまっていたのだ。
女たちがベースキャンプを動かなくなっていったこと、これが縄文時代における定住化の前段階だったのでしょう。
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そして、そのあと男たちも定住していったか・・・・・・たぶんしなかったはずです。さらに糸の切れた凧のように漂泊し続けた。女たちだけの集落があちこちにできれば、もう元のところに戻る必要はない。あちこちの女だけの集落をベースキャンプ代わりにして渡り歩いていったほうが、ずっとおもしろい。
女たちの集落にしても、男たちが戻ってこなくなった代わりに、別の男たちの群れがやってくるから、それで帳尻は合う。
古代のツマドイ婚の習性は、ここからはじまっている。
男たちも定住してゆくのは、おそらく弥生時代に入って農耕生活が定着していってからのことでしょう。
縄文時代の集落は、女たちだけでいとなまれていた。
縄文人は、とにかくなんでも食べた。研究者たちはこれを、縄文人は美食家だった、というような言い方をするのだが、おそらくそうじゃない。そりゃあときどき男たちがおいしい山の幸、海の幸を届けてくれるが、ふだんは、女たちの狭い行動範囲で日々の食糧をまかなわねばならなかったから、何でも食べたのでしょう。
野草を食べることなどは、うまかろうとまずかろうと、現代人の何倍もの種類を試している。また、彼らは集落のまわりに落とし穴を仕掛けたりなどして狩をしていたのだが、とびきりまずいタヌキだろうと、食べるにはちょいと気味悪いサルだろうと、平気で食べていた。
それにたいして男たちは、味のよいシカやクマやイノシシを、しかも脂の乗った秋から冬の季節だけ狩をしていたらしい。つまり男たちは、タヌキやサルの狩をする趣味も食う趣味もなかったのです。
そして、縄文式土器の、その華麗で情念的なデザインは、女の手やセンスで作られたことが一目瞭然です。
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縄文人の集落は、女だけでいとなまれていた。女たちは、地道に集落のまわりにクリやクルミの林を育てたりしながら、長い時間かけて環境との共生関係をつくりあげていった。言い換えれば、その集落は、時間がたてばたつほど暮らしぶりはよくなってゆくような仕組みになっていた。
ところが、せっかくつくりあげたそんな暮らしをさっさと捨てて、集落ごと別の場所に移ってしまうことがよくあったらしい。このことを、研究者は、食糧生産がままならなくなったからだ、というが、長く住み着いた土地がそんな状況になることはありえない。新しい土地に移るほうが、はるかにそうした事態に直面させられるのだ。集落のまわりに安定した収穫のできるクリ林を育てるのに、いったい何年かかることか。住めば都で、むかしも今も、集落がまとめて放棄されるなど、まず考えられないことです。それでも縄文人は、よく集落を放棄して移動していった。
それはたとえば、秋になったらサケが遡上してくる川のそばに行こうとか、そんなふうに男たちにそそのかされたからでしょう。それほどに男たちは、広い行動半径を持ち、いろんな場所のことを知っていた。毎日、日が暮れたら帰ってくるとか、そのていどの行動範囲ではない。一度狩に出たら、もう二度と戻ってこないかもしれないようなさすらい方をしていたのだと思います。
女は、毎日顔を合わせている男の言うことなんか聞かない。しかし、聞かないと二度と会えないかもしれないという状況に置かれたときは、あんがい他愛なく従ってしまう。結婚詐欺というのは、おそらく、女のそうした傾向を熟知している男がするのでしょう。
とくに、冬になったら雪に閉じ込められる地域では、男のいない冬を過ごすことは、けっして小さくない苦痛であったことでしょう。冬を越すために確保しなければならないのは、食料や暖房のための薪だけではなかった。
男たちと新しい家で冬を越す、それは、それなりに心浮き立つことであったろうし、縄文時代の集落は、ほとんどがそうした移動が可能な程度の2、30人の規模だった。
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縄文人は、かならずしも定住していたとはいえない。男と女のメンタリティの違いとともに、定住と遊動がいいあんばいに組み合わさった社会だった。
もしも男も一緒になった完全な定住であったのなら、そのときすでに都市や共同体が生まれていたはずです。
西アジアのトルコでは、人類が本格的に農耕生活をはじめるおよそ3千年前の9千年前に、すでに8千人規模の都市集落が生まれている。定住するということは、人が寄り集まって暮らす技術(制度)が進歩するということだから、とうぜん集落の規模は大きくなってゆく。農耕生活とは関係ない。定住して集落の規模が大きくなってきたから、その「結果」として農耕生活が本格化してきたのだ。
縄文時代にも、男も定住する比較的大きな集落もまれにはあったでしょう。しかしそんなときも、集落を東と西に分けて、東どうし西どうしの男女が結びつくということはなく、あくまで東から西へ、西から東へと、男がツマドイしてゆくかたちをとっていたらしい。それが、近親婚から免れる有効な方法であり、このかたちは、二つの集落が合流したところからはじまっているのでしょう。
男はツマドイしてゆくさすらう性で、女は生まれた土地を動かない。縄文人は、あくまでこの本質というか原則を守った。
女にあぶれてしまった男たちは、集落の外に出てゆく。いや、男が狩のために山野をさすらいツマドイの習性を持っているかぎり、集落の外の目新しい女にいざなわれてゆくケースのほうがむしろ多かったはずです。男とは、そんな生きものでしょう。だから、集落が大きくなってゆくことは、ほとんどなかった。
縄文時代が8千年も続いたのは、集落が大きくならなかったからであり、大きくならなかったのは、定住という生活スタイルが完全には定着していなかったからでしょう。言い換えれば、完全な定住にはしない、という生活スタイルが定着していた。
たぶん人間の社会は、完全な定住にしてしまうと安定しないのでしょうね。だから現代の定住社会では、栄枯盛衰、時代はめまぐるしく変わってゆく。縄文時代のように、男がさすらい安定しない社会が、いちばん安定しているのかもしれない。
文化・文明とは、社会を安定させる装置であると同時に、安定させないための装置でもある。