生首少年と人類の定住

なんでも「脳」の問題にしてしまう。
脳の問題にしてしまえば、社会や家族の責任がぜんぶちゃらになる。人間の心のはたらきを社会や家族との関係でとらえようとするととてもやっかいで収拾がつかなくなるから、ぜんぶ生理的な「脳」の問題にしてしまう。それで、心の問題が解決したつもりでいる、解決するつもりでいる。
まったく、あつかましい話です。そうやってみずからの思考停止や社会や家族を、正当化してゆく。
心の問題が、脳の研究によって何もかも明らかになる、と思っている。なるものか。脳の研究なんて、ものすごく共同体的制度的な行為です。脳の研究なんて、人間の心を1プラス1=2というレベルでしか考えられないやつらが、みずからの短絡的な思考回路を正当化するために、夢中になってやっているのです。
それは、「科学」に支えられているのではなく、人々の思考停止をそのままにしておこうとする共同体の「制度」の上に成り立っているのだ。
言い過ぎなのは、わかっています。しかし、とりあえずそう言っておきます。
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縄文時代は、8千年続いた。ひとつの文化=時代がそんなにも長く続くことは、氷河期明けの世界における、この1万3千年の歴史で、ほかに例を見ないことらしい。
定住して、共同体の歴史が定着してくれば、いろいろストレスがたまってきて、戦争が起こる。そして戦争が終われば、とにもかくにも時代が変わる。
縄文時代が8千年も続いたということは、完全な定住もそれにともなう共同体も戦争も存在しなかった、ということを意味する。
共同体のストレスを解消するためには、文化によって時代を変えるか、戦争するしかない。戦争によって、時代が変わる。
人が定住して共同体をいとなんでゆくためには、ものすごいストレスがともなう。だから人々は、時代を変えるというかたちで遊動(あるいは漂泊)してゆこうとする。
縄文社会は、もともと遊動(あるいは漂泊)という要素をしっかり持っていたから、戦争することもなく時代を変えることもなく、あんなにも長く続いたのでしょう。
人間関係が流動的であるために、つねにシンプルで新鮮である・・・・・・これが、安定した縄文社会にあって、めまぐるしく時代が移り変わるわれわれの現代社会にないものです。
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流動的ではない「家族」という関係、それは、その関係の下位に置かれている子供にとっては、けっして小さくはないストレスなのです。
生首少年は、おそらく統合失調症精神分裂病)だったのだろう、と言われ始めています。いいんですけどね、それでも。ただ、だからそれは、生物学的な脳内分泌の問題であって、時代(社会)や家族とは関係ないのだ、ということにはならないはずです。
そういうことにしておけば、社会も家族も安泰だ、というわけです。大人たちの、このあつかましい居直りというのは、なんとかならないのでしょうか。
もしも彼が5万年前のアフリカの遊動民の一員だったら、ごくまっとうな遊動民でいられたかもしれない。
もしも脳内分泌に変化をきたしたとすれば、どういう契機があったのか。食い物のせいか。空気中のウイルスのせいか。
冗談じゃない、彼だって、みんなと同じものを食っておなじ空気を吸って生きてきたのです。もしかしたら5万年前の遊動民は、彼と同じような脳内分泌をしていたのかもしれない。
人が、家族や社会のなかに置かれるストレスというのは、脳科学者が考えるほどかんたんなことじゃないのだ。そのストレスのせいで脳内分泌が変わったのではないと、どうやって証明してくれるのか。万一、脳内分泌のせいだとしても、です。しかしそんな短絡的な認識で統合失調症の問題が一気に解決されるなんて、僕はぜんぜん思わない
統合失調症が、世界中のどの社会でも、判で押したように1パーセントはあらわれるということは、脳内分泌なんか関係ない、ということです。それが単純に生理的生物学的な問題であるのなら、それぞれの社会の気候風土でばらつきができてくる、ということですよ。
単純に、社会だけのせいでも、家族だけのせいでもない。しかし、この世に社会や家族が存在するということ、すなわち人間が定住して共同体をいとなんでいるという「歴史」とまったく無縁だとはいえないだろう、ということです。どの社会も、人類の定住して共同体を営んでゆくという歴史の上に成り立っている。それだけは、世界共通でしょう。
共同体がいとなまれてゆくためには、家族という単位はどうしても必要になる。共同体と家族は、共犯関係にある。まあこの問題は、話せば長くなるのだけれど、とにかく共同体のいとなみは、人々のストレスの上に成り立っているということです。
そのストレスを、どうやりくりしてゆくか。住めば都といっても、そりゃあどの社会でも、やりくりに失敗する人の1パーセントは生まれてくるでしょう。
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では、いったいどんなストレスか。
研究者ではないから、具体的にはよくわかりませんが、根源的には、人間存在としての「実存」の問題と関わっているように思えます。
生きものの生きるいとなみは、みずからの身体をこの世界(環境)にはめ込んでゆく、といういとなみです。
ぴったりはめこまれてあればらくちんだし、多少なりともずれてしまえば、精神的にか身体的にか苦痛が発生します。息を吸い込んで、ちゃんとものを食って、ぶつかってくる相手もいなければ、この身体が世界にぴったりはめ込まれてあるという安らかさが得られる。
身体が世界からずれてしまうことの苦痛や不安、それは、共同体と和解できていない精神でもあります。
たとえば生首少年をはじめとする世の17歳は、共同体と和解できていないために、みずからの身体がどんどん社会=世界からずれていって、自分の身体をはめこむスペースがなくなってしまったような不安を覚える。
そうなればもう、誰かを殺してしまうしかそれを確保するすべはない、と考える。あるいは、社会から完全に離脱してしまおうと考える17歳もいることでしょう。どっちだって同じです。みんな、この世界にみずからの身体(および精神)を安定してはめこむことのできるスペースを探している。
そういう生きものとしての実存を求める精神の運動として、17歳の不安や統合失調症があるのだと思えます。
ひとつの例ですが、統合失調症の患者は、たとえば目の前の机が自分の身体の延長であるように感じてしまうことがあるのだとか。心理学者のこのことの解釈は、自分の身体が膨張してゆく意識、となっています。
そうじゃない。それは、みずからの身体が収縮してしまって、身体すらも机の一部のように感じられている状態です。みずからの身体にたいする実感がなくて、ただ「私の身体」という概念だけがある。だから、しまいには、他人の身体も自分の身体も区別がつかなくなってしまう。
心理学者の言うような、身体意識の拡張ではないのです。収縮、もしくは消失の意識です。
みずからの身体を、この世界にはめこむことができなくなってしまった結果の意識です。
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生首少年が、無表情だとか、妙に恬淡としているとか、学校でもクラスメートの会話に入ってこなかったとか、こういうことを、世の心理学者をはじめとする知識人たちは、まるで心が空っぽになってしまった状態のようにいうが、彼は、けんめいに殺人の研究に没頭していたのですよ。空っぽのはずがないじゃないですか。けんめいに、みずからの身体がこの世界にはめこまれてゆくスペースを探していたのです。
無表情だろうと、恬淡としていようと、記憶喪失に見えようと、空っぽの心なんかであるものか。
17歳の統合失調症における、この世界の理不尽さにたいする恐怖や、自分の居場所が見つからない不安、少しはそんなことも考えていただきたいものです。というか、考えろよ、おめえら、という気分です。
生首少年がたとえ統合失調症であったとしても、それは、共同体というものをいとなんできた人間の歴史の問題であって、ただの生物学的な脳内分泌だけの問題などであるものか。