縄文人の心Ⅱ

縄文人の「つま問い婚」について語るとき、よく「集落の結束を固めるためのインセスト・タブーである」などという言い方がなされます。小さな集落内でむやみにセックスしていると人間関係が壊れるし、近親相姦の弊害も生まれてくる、というわけです。
しかし、社会の構造は人間がつくるのではなく、自然発生的に(あくまで「結果」として)生まれてきて、その社会の構造が「人間」をつくってゆくのではないでしょうか。
社会の構造は、生まれてくるのであって、つくられるのではない。
法律や憲法が社会の構造をつくっているのではない、社会の構造が、法律や憲法をつくっているのだ。専門家じゃないからうまく説明できないけど、まあ、そういうことです。
「つま問い婚」は、自然に生まれてきたのであって、社会の構造をつくる(強化する)ために人間の知恵があんばいしたのではないはずです。
縄文人は、べつに集落の結束を固めるためにそうした婚姻形式をとっていたのではない。そうせずにいられない心性を持っていたからでしょう。男がふらふら外を出歩いてばかりいて、いつ帰ってくるかわからない、よその集落の女のところにいってしまって、永久に帰らないかもしれない。これほど集落の結束の薄い社会もないでしょう。
男が、朝、狩のために集落を出てゆく。それはもう、永遠の別れかもしれないのです。縄文の女たちは、そういう感慨とともに暮らしていた。しかし、男が帰らないということは、別の男たちがまたどこかからやってくる、ということでもある。そうやって彼らの社会は動いていた。
まわりの山を眺めて、これが世界のすべてだ、と深く認識する。深く認識してしまえば、もう、別れてしまってもいいのです。すべてのことを、「これが世界のすべてだ」と受容する。縄文人は、そういう心性と世界観を持っていた。そしてそこでは、別れのせつなさとセットになって「出会いのときめき」がもたらされていた。
「これが世界のすべてだ」と深く認識する社会だったからこそ、別れと出会いが豊かに交錯する社会でもあったのです。
日本列島は山だらけだけど、越えられない山もない。そういう地理的条件もあったのでしょう。
だいたい2、30人単位で集落をつくって住もうとすることじたい、集団の結束にたいする意識が薄い証拠です。丘陵地じゃなく、川沿いの平地に住めば、もっと大きな集落がつくれるし、水の便もいいのです。それでも縄文人は、わざわざ小高いところにちんまりとかたまって暮らすことを選んだ。
集団の結束を固める(社会の構造をつくる)ことが優先される社会なんて、ろくなもんじゃない。人間なら、どうしようもなくせずにいられないこと、してしまうことはあるし、それを抑えて生きてゆくことなんかできない。というか、抑えて生きてゆこうとするから、さまざまな現代病なるものが生まれてくるのでしょう。
すくなくとも縄文人は、まずそうせずにいられないことが優先され、それに合わせて社会の形態があんなふうになっていっただけではないでしょうか。
集落の結束を固めるためだけなら、それを破るものはいくらでも出てくるだろうし、そんなことだけのためにわざわざややこしい「つま問い婚」なんて、いつまでもやってられるものではない。
ただそれだけのためなら、いずれは集落同志で取り決めをつくってセッティングする、というかたちになってゆくでしょう。そっちのほうが、ずっと効率的で確実だ。
しかし、もしかしたらそうした出会いのさいの「歌垣」という風習はそのころからあって、それが延々と何千年も続いたのです。まず「歌」を交わして、たがいの心や人格を確かめ合う。こんなややこしいことを、日本人は、何千年も続けていたのです。
研究者が、弥生人は大陸からやってきた、などといっても、弥生人もまた、縄文時代からずっと続いてきた生活文化で暮らしていたのです。
ともかく、社会の構造をつくるためなんかではない、そうせずにいられない心性があったからでしょう。
縄文人は、みずからの集落内のわかりきったつもりになってしまう相手の心よりも、他の集落のわからない心と向き合うことのほうに引き寄せられていった。そういう「ときめき」とともに生きることしかできなかった。
たぶん、群れの結束を固めるためだけだったら、ほかにいくらでも方法はあったのです。