縄文時代の女たち

縄文時代の男たちは、狩のために、つねに山野をさすらっていた。そういう行動性から、「つまどい婚」の風習が生まれてきた。
男たちがなぜ、糸の切れた凧のようにさすらい続けることができたかといえば、まわりの山の眺めを「これが世界のすべてだ」と認識していたからでしょう。すでに世界の果てを見てしまっている、という安心があるからだ。
もしも目の前に果てしない地平線が広がっていたら、その向こうにいったいどんな恐ろしいものが待ち構えているのかと怖くなってきて、かえってどこへもいけなくなってしまう。
だから中国には、さすらいの文化はない。彼らにとってさすらいは、ただ悲惨なだけの行為にすぎない。そのかわり「仙人」の文化がある。どこにも行かないこと何も見ないことが、この世界と和解する境地にたどり着くのだ、という文化、あるいは思想。
縄文人の男たちだって、「どこにも行かない」というかたちでさすらっていただけなのですよね。この見える景色のほかにはどこにも行けない、と深く認識していたから、さすらうことができた。
さすらうとは、世界の果てにたどり着こうとする行為であると同時に、けっして世界の果てには行かない行為でもある。
世界の果てとは、「死」のことです。
そしてさすらうとは、死と和解することです。
男たちは、さすらっているときだけは、死と和解していた。だから、命知らずの狩に挑むことができたし、その途中で出会った女にたいしては、この世ならぬものと出会ったようなときめきを覚えた。
言い換えれば、縄文人の男たちは、さすらうことによってしか、死と和解することができなかったし、ときめきを体験する機会もなかった。
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男たちはさすらい、女たちは家を守って、ひたすら男を待ち続ける。それが、縄文社会だった。
であれば女たちは、時間の移ろいや自然の気配にとても敏感になっていった。
日本の古代ではもう、呪術的な能力に関しては、卑弥呼に代表されるように、女の専売特許だった。おそらくそれも、つまどい婚の伝統と歴史によるのだろうと思えます。
たとえば、あの山のりんごの木に実がなったかどうかということを、男たちはそこまで行って確かめるが、女たちは、季節の移ろいや天候の気配で察知する。男がたずねてくるかどうかも、気配でわかる。というか、わかろうとする。そのように女のいわば呪術力は、歴史とともにどんどん研ぎ澄まされてゆき、やがてそれにしたがって男が行動を決めてゆく、ということも多くなっていったにちがいない。
そして、じっと待つ身であるからこそ、出会いにたいする女たちの感慨も、いっそう深いものになる。
女たちが、相手が目の前に現れてはじめて出会いの感慨を持つとすれば、そこを目指す男たちは、遠くに集落から煙が立ち昇るのを見たときから、すでにその感慨を薄く体験し、集落にたどり着いたときには、その感慨のいくぶんかを使い果たしてしまっている。
旅行の計画を立てているうちに、半分行ったような気になってしまうようなものです。
だから、すぐには会ってもらえない。一日待たされ、もう一度「期待」とともに「ときめき」の感慨が生まれてくる状態をつくりなおす。男もまた、そこで「待つ」のだ。
出会いのときめきは、出会いをみずからつくることを断念し、つねに待っているがわにより多くもたらされる。
出会いを求め出会いをもたらす旅人のほうが出会いのときめきが薄い、というパラドックス。すなわち、漂泊の心性は、漂泊しないほうに、より濃密に宿っている。
じっとしていることが漂泊であり、この生の一瞬一瞬が新しい時間との「出会い」なのだ、という日本的な心性は、縄文時代のつまどい婚からはじまり、洗練し深化してきた。
日本の古代は、文学において、女が、男と対等あるいはそれ以上の才能を発揮した時代です。日本的な心性の表現という意味において、源氏物語を超える文学はいまだにあらわれていない。少なくともあの時代に、あんなにも完成された物語を書ける男は、ひとりもいなかった。文学の歴史が女にリードされてスタートした、という国なんて、もしかしたら日本くらいのものかもしれない。
つまり、縄文時代以来のつまどい婚の伝統によって、女のほうがずっと深く「もののあはれ」を知っていた。
べつに女のほうが本質において文学的だとも思わないが、つまどい婚の歴史は女にそういう才能を与えた、ということは言えそうな気がします。