縄文人の歌垣
旅人を「まれびと」としてもてなす日本的な心性は、縄文時代のツマドイ婚からすでにはじまっている。
日本人は、旅をする民族なのではない。旅人をあつくもてなす民族なのだ。
旅人をあつくもてなす民族だから、人は、旅人になる。
旅をすることは、村に入ってゆくことであり、さらには家に入って人と出会うことだ。
日本には、「出てゆく」文化がない。「発つ」ことは、「絶つ」ことだ。
つねに「入る」というコンセプトによって生きるいとなみがデザインされている。
しかしそれは、普遍的なこの生の本質でもあろうと思えます。
出てゆく、ということは、死ぬ、ということです。
死のことは、誰にもわからない。われわれはもう、この生に閉じ込められてある。
出てゆくことなんか、けっしてできない。
閉じ込められたこの島国ではもう、そういうこの生の本質と向き合って生きるしかなかった。
「もののあはれを知る」とは、そういうこの生の本質と向き合うことであり、そういう伝統は、すでに縄文時代から始まっている。
山間地に入っていって、この景色が世界のすべてだ、と深く認識して生きてゆく。それが、縄文人の暮らしのコンセプトだった。
日本的な漂泊とは、広い世界にさまよい出ることではない。世界の中に入ってゆくことだ。
日本人にとっての漂泊の象徴は「深山幽谷」に入ってゆくことであって、大平原にさまよい出ることではないし、大平原や砂漠にさまよい出るのが旅の醍醐味になることは、世界中のどの民族にとってもないでしょう。
漂泊とは、入っていって人と出会うことだ。この生と出会うことだ。
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「歌垣」という習俗は、おそらくそういう感慨の表現として生まれてきたのでしょう。
ツマドイの歌、ですね。女の家の前に立って男が、家に入れてもらえないことの心細さを、切々と訴える。「歌ふ」とは、「訴ふ」なのだ。空の月も、雲にかくれて見えない、せめてあなただけでも、姿をあらわしてくれ・・・とか、まあそんな感じのことを歌ったのでしょう。
女は、家の隙間からそっとのぞいている。
男はそれを意識して、身振り手振りを交えて、踊りながら訴える。そのためには、声がよくて踊りがうまければ有利なのはもちろん、女の気持を揺さぶるもうひとつの要素として、現在の外のようすをアドリブで描写してみせることがある。それによって、中の者が、外に出てみたくなる気持をかきたてられる。われわれは今、この世界の中に置かれて向き合っている、という臨場感。そういう、生きてある、という実感。万葉集以後の和歌の表現も、けっきょくこのコンセプトで成り立っているのではないか、と思えます。
おたがい見ず知らずで、口もきいたことのない関係ですからね。あんまり好きだの愛しているだのという表現は空々しいし、見えていないのだから、あなたは美しいともいえない。
日本人は、あなたは美しい、というような口説き方をする歴史を持っていない。見ないで口説くのが日本人の流儀であり、中世になってもまだそうやって口説いていたはずだし、だから、歌の文化が発達した。
縄文人にとっての歌垣は、あくまで、自分の心細さとまわりのようすを表現することだった。女が家の中にいて外が見えないという状況は、そういう表現の有効性を生んだはずです。
「もののあはれ」ですね。古代人の表現は、心細さと、心細さが見る景観を描写することにあった。
女は心を表現し、男は景色を表現した。男は、その心細さを、顔の表情や踊りで表現できたが、歌を返すがわの女は、言葉しかなかった。中世の物語文学で男が女に負けていたのは、つまるところ心理描写においてかなわなかったからではないでしょうか。源氏物語の偉大さは、「もののあはれ」を表現する心理描写にある。
そして中世の人たちは、和歌のことを、「詩」や「句」ではなく、なぜあたりまえのように「歌」と言っていたのか。なぜ、わかりやすいように朗読するのではなく、わざわざもったいをつけて歌うように詠み上げていたのか。
「歌ふ」とは「訴ふ」であり、それは、まず嘆きを表現することであって、「教える」とか「伝える」ということが第一義的にあるのではない。
コミュニケーションなんか、言葉がなくてもできる。しかし、訴えるためには、何かを表現しなければならない。それが、言葉の起源だ。人は、訴えるものを喪失したときに、失語症になるのかもしれない。
言葉は、ひとつの歌としてはじまった。
歴史のあけぼのの縄文時代だからこそ、「歌」があったはずなのです。