やまとことばの源流

極端にいえば、文化だろうと遺伝子だろうと、ひとりでも伝えられる。
洗面器の水にかまぼこ板を浮かべているわけではないのだから、縄文時代の末期に玄界灘を超えてつぎつぎ人がやってきたなんて、僕は信じない。海というのは、たぶん学者先生が考えているよりもずっと恐ろしいものだ。天井よりも高い波のあいだに一日置かれていたら、僕ならまちがいなく発狂してしまう。島影どころか水平線すら見えなくて、この水の壁がこの世界のすべてだという恐怖のなかに、いったい何を好き好んで彼らが漕ぎ出さねばならないのか。
原始人の生きる目的は、生きることそれじたいであって、金でも名誉でも幸せでも出世でもなかったのだ。
原始時代の船なんて、かんたんに転覆してしまうのですよ。公園の池でボートを漕いでいるわけじゃないんだ。
原始人があの海の向こうに行こうなんてすけべ根性を持っていたと想像することじたい、原始人を冒瀆している。
原始人は、あなたたちよりずっと懸命に、ずっと切実に生きていたのだ。
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1万3千年前に氷河期が終わり、そのあと2、3千年で大陸と陸続きなっていた部分がすべて水没してしまっていらい、日本人は、ずっと日本列島に閉じ込められてきた。
おそらく「やまとことば」の歴史は、そこから始まっている。
なぜやまとことばが身体的皮膚感覚的かといえば、ずっと閉じ込められたところで育ってきた言葉だからだ。その情況は、おそらく人類が直立二足歩行を始めたときと同じものであり、だから世界中のどの言語よりも原初的であると同時に本質的でもあるにちがいないのです。
人類の直立二足歩行は、七百万年前のアフリカの、ある孤立した森の中で生まれた、と僕は考えています。そしてやまとことばは、その情況をなぞるようにして育ってきたのです。
途中で大陸から人が入ってきたりして人間の形質や生活スタイルが変わることはあったとしても、人が日本列島で暮らすということは、閉じ込められることであり、それはまた、この生に閉じ込められる、ということでもあったはずです。
和辻哲郎は、やまと文化は、この国の穏やかな気候や風景といった「風土」によってつくられてきた、と言ったが、ちょっと違うと思う。
人の心は「社会の構造」によってつくられるのであり、その心で景色を眺めてゆくのでしょう。その穏やかな景色を眺めて苛立つ人もいれば、切り崩して造成地にしようと思う人もいる。穏やかな景色や気候だから心も穏やかにしてくれるとはかぎらない。
原始人にとっては、どんな風景だろうと気候だろうと、生存条件は厳しかったのです。
黄河の氾濫だろうと、多摩川の氾濫だろうと、人がたくさん死ぬことにおいては同じでしょう。それに縄文人は、ネアンデルタールと同じように、30数年の寿命しかなかった。ある意味で大陸よりずっと悲惨で、気持ちがすさんでいってもおかしくなかったのです。しかも人口密度は高いのだし、その鬱陶しさに殺し合いなんかどんどん起きてもおかしくない条件だった。
それでもそうならなかったのは、風景や気候のおかげではなく、みんながあの山の向こうもあの海の向こうも、「何もない」と思っていたからでしょう。
だからまず、誰かを追い出そうとする衝動が起きなかった。「ない」のだから、追い出そうと思いようがない。われわれはもう、この景色の中に閉じ込められてある、この生の中に閉じ込められてある・・・いや、「ない」のだから「閉じ込められてある」という言い方は正確ではない。客観的にみれば、彼らは閉じ込められてあったのだが、けっしてそう自覚していたのではなく、この風景が世界のすべてだ、と認識していただけでしょう。
自足していたのではない、満足するということじたいを知らなかったのだ。
この世界も捨てたものじゃない、と思えるのは、もっとひどい世界を知っているからでしょう。彼らは、もっとひどい世界ももっとひどい人生も、知らなかった。
彼らが知っていたのは、人はかならず死ぬということ、寒いのはつらい、寒ければ赤ん坊がすぐ死んでしまうということ・・・いや、それ以前に、身体そのものの、息苦しいとか、空腹だとか、痛いとか痒いとか、熱いとか冷たいとか、彼らの生存の基調になっていたのは、もうそうした「嘆き」としての感覚だけだった。
彼らは、生きてあるということは、そういうことだ、と思っていた。
であれば、そうした「嘆き」の感覚をすべて肯定し、受け入れた。
「嘆き」を否定する別のものを知らなかった。
彼らは、いっさいの「別のもの」を知らなかった。
中世文学の基調が「もののあはれを知る」ということにあったとすれば、縄文人はもっと根源的なかたちでそれを知っていたはずです。というか、その伝統は、すでにそこから始まっていた。
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この生は、嘆きとして意識される。痛くなければ、意識は発生しない。意識とは、嘆くことであり、ひとつの拒否反応です。
あの山の向こうを拒否反応で眺めたら、とうぜん「何もない」という認識にいたる。
みずからの身体も含めてすべてのものに拒否反応を持ったら、信じられるのは、拒否反応を持っていることそれじたいでしょう。嘆くことそれじたい。
嘆くことは満足でも幸せでもないが、エクスタシーの源泉は、そこにこそある。
息苦しいと嘆けば、その嘆きのぶんだけ息をすることがエクスタシーになる。
身体のエクスタシーは、身体に対する拒否反応としてもたらされる。
息苦しいことは身体がつよく意識されることであり、したがって息をするエクスタシーは、身体が消えてゆく感覚としてもたらされる。
エクスタシーとは、消失感覚である。
原初の日本人の生のかたちは、消失感覚としてあった。
消失感覚をあんばいしてゆくこと、これが、彼らの生きる流儀だったのではないでしょうか。おそらく、そういう流儀で、やまとことばが育っていった。
消えてゆくということは、消えてゆくものがある、ということです。身体は、消えてゆくときに、その存在がもっともたしかに意識される。痛いというのは、あくまで「痛い」という痛覚であって、存在感というのとはちょっと違う。
身体が消失するとは、身体が輪郭を持ったひとつの空間として感じられることです。われわれは、そいうかたちでしか身体の存在を知覚することはできない。
「意識」は、みずからの身体を、肉や骨として自覚(知覚)することはできない。
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「身(み)」というとき、それは、肉や骨のことではない。身体ではない身体、すなわちたんなる輪郭のことです。だから、西洋のような肉体という意味ではなく、身体を離れたいろんな抽象的な表現になったりするのだが、その一方で「身のほど知らず」というように、人は「私」としてではなく「身=身体の輪郭」として存在している、という意識を持っている。「自分」をわきまえていないのではない、あくまで「身=身体の輪郭」をわきまえていないのです。
「身に覚えがない」なんて、変な言い方ですよね。西洋人が聞けば、覚えがあるかないかは「私」だろうが、と突っ込みたくなるところです。でも日本人にとっていちばん確かで責任持てるものは「私」でも「身体」でもなく、あくまでも「身=身体の輪郭」なのです。
身体を意識することなんか誰にでもできるが、自分の身体の輪郭を正確に把握しているということは、そんなかんたんなことではない。日本人にとっては、それこそがもっとも高度な人格であり、知性だったのです。
つまり「たおやかな人」とは、自分の身体の輪郭をちゃんとわきまえている人、という意味なのですよね、きっと。
存在することの嘆きもエクスタシーも、身体の輪郭において発生する。そういうかたちで、原初の日本人は、人間であることの根源を生きていた。それはたぶん、日本列島に閉じ込められていたからであろうと思えます。閉じ込められながら、おたがいの身体の輪郭を確かめ合いながら生きていた。
身体を消去して、身体の輪郭を浮かび上がらせる・・・日本的な「無私」とは、こういう手続きなのでしょうね。それは、道徳でもなんでもなく、ひとつのエクスタシーであると同時に、やまとことばが持っている機能でもあった。
したがって、文節の始めに「私」をつけないのは、もともと「私」の消失を目指しているか、「私」が消失したところから発語されているからでしょう。言わなくてもわかるからではない。「身体の輪郭」だけがあって、「私」などというものは「ない」のが、やまとことばの流儀なのです。
原初の日本人には、「外部」がなかった。それは、地理的な条件だけでなく、この生=現在の外部としての「未来」や「死後の世界」のイメージを持つこともなく、ひたすら「わからない」ということと和解していった。
日本人は、エクスタシーの水源としての「嘆き」を、けっして手放さない。いや、人間は、というべきでしょうかね。
ウィトゲンシュタインは、世界に不思議が存在するのではない、世界が存在することじたいが不思議なのだ、と言った。世界にたいする「わからない」という認識(不可知論)は、西洋では哲学的な思索の果てにたどり着くひとつの境地であるが、この狭い島国では、言葉そのものに宿っている先験的な生のかたちだった。
ただそれは、「わかる」ということを目指す近代合理主義とは矛盾する態度であり、そのようにグローバル化してゆく現代で「やまとことば」を携えて生きてゆくことのしんどさというのはやっぱりあるのかな、と思わないでもありません。
しかし、「やまとことば」が滅びるときは、「人間」が滅びるときだ、ともいえるのかもしれないわけで・・・まあ、それでも人は生きてゆく、ということですかね。