やまとことばの源流Ⅱ

何か自分を励ますことを書かないと前に進めなくなってしまいました。
だから、ものすごく長い前置きを書いてしまうことになると思います。
僕がこのブログを始めたのは、ネアンデルタールは滅んでなんかいないと、もう体の底から直感したからです。
そしてそれは、考えれば考えるほど、そうなんだと信じられてきて、置換説の研究者なんかあほばかりだなあという気分は、どんどんふくらんできます。
文句がある人はどうぞ。いつでも受けて立ちます。
僕なんかたいした知識もないし、どんな権威も背負っていないから、僕をやっつけてひれ伏させることなんか、かんたんかもしれませんよ。
ただもう「ネアンデルタールは、滅んでなんかいない」と直感しただけです。
それだけだけど、今日までのこのページで、置換説の研究者よりもずっと深く豊かにネアンデルタールについて考えてきた自信と、いささかの達成感はありますよ。
そのとき僕だって、自分の全人生全人格をかけて直感したんだ。
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逆に、二本の足で立っていることは居心地のわるさについてなら、もう二十年以上考え続けている。だからこれは、直感ではない。自分が、どうしようもないぐうたらなま怠け者だからです。いつも、ぐたーっと寝ていたい、と思ってばかりいる。そういう意味で、二本の足で立っていることの居心地の悪さについてなら、誰よりも深く認識している自信がある。それはもう、全人生と全人格をかけて、その自信がある。
人間は、二本の足で立っていることの居心地の悪さを抱えてしまったから「衣装」を着るようになったのだ、ということも、ずいぶん考えた。そこから、吉本隆明氏の「ファッション論」を無限に批判してみせる自信だってある。賛成してくれる人がいるかどうかはともかくとして。
そういう意味において、都市に棲む山姥さんから「這う」というパラダイムを提出されたときは、ものすごく驚いた。そんなことに気づくなんて、すごい、と思った。
僕は、二本の足で立つことの居心地の悪さのことばかり考えて、そこからもたらされるエクスタシーとしての「這う」に気づかなかったのはすごくうかつだったと、まさに意表を突かれた。
人間がベッドでセックスすることだって、「這う」というかたちからエクスタシーを汲み上げようとしているからでしょう。ほかの動物は、そんなかたちのセックスはしない。直立二足歩行をはじめたから、人間は、そんなふうな姿勢でセックスすることを覚えた。
「這う」ことは、人間にとって、ひとつの「救済」なのだ。
海で泳ぐたのしさも、二本の足で立つことの鬱陶しさから解放されて「這う」姿勢を獲得することのエクスタシーとしてあるのでしょう。
人間は海から発生してきた生きもので、その遠い記憶があるからだ・・・そんなわけのわからない理屈より、僕は、「這う」姿勢になりたいからだ、と考えたほうがずっとしっくりと納得できる。
人間が、そこまで単純に深く海に親しみを抱いているとは、僕は思わない。
大きな船で沖に出て海の水を眺めていると、背筋が凍りそうになってくる。あの引き込まれそうな蒼白い透明感や、巨大な生き物の背のようなうねりの気味悪さには、どうしてもなじめない。
戦争で撃沈された軍艦から投げ出された兵士たちは、誰もが泳げるにもかかわらず、すぐにつぎつぎに海の中に沈んでいった。それは、海の恐怖に勝てなかったからだそうです。その事態から生還した人の話によると、立ち泳ぎばかりしているとどんどん怖くなってくるから、できるだけ仰向けになって浮かんでいたのだとか。そうすると、すーっと気持が軽くなってくるのだとか。
海で泳ぐのがたのしいのは、海の水に親しみをおぼえるからではなく、這いつくばる姿勢になれるからだ。しかも、重力に逆らっている、というおまけまである。
「這う」という言葉に出会ってしまえば、生きものとしての「海の記憶」という言い方など、ただの子供じみた妄想だと思えてくる。
人間が二本の足で立っていることにどれほどの居心地の悪さを無意識の中に溜め込んでいるかということ、すべてはそこからはじまっている。そして「這う」ということはその「救済」なのだということを、僕は、あらためて思い知った。
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今どきの知識人は、人を説得しようとして、証拠やデータがどうのということばかりに躍起になっている。
そしてこちらも、つい説得されて、後で「嘘ばっかり言いやがって」と腹が立ってきたりする。けっきょくは説得されるほうが悪いのだけど、証拠やデータを示せば説得しやすいということは、たしかにある。
しかしそれは、あくまで説得しただけのことであって、真実か否かということとはまた別の問題だ。
彼らはけっきょく、真実と信じるところを示すことより、説得することのほうが大事らしい。
人を説得することが、そんなにたのしいか。そうやって、正義づらして人の気持ちをいじくりたおすことが、そんなにやりがいがあることか。
「海の記憶」といえば、誰もがひとまず説得されてしまう。説得できる論理が真実だ、と彼らは信じている。でも僕は、そんな信じ方は、ようしない。
僕が言ったことを人がなんと受け取ろうと、人の勝手だ。僕だって、人の言ったことをこの頭でしか考えられない。正確に解釈できる自信なんか、まるでない。
僕は、自分が言えることを言いたいように言うだけのことしかできない。だから、説得しようなんて、そんな恐れ多いことは、できるだけ考えるまいと思っている。気がついたらついしようとしてしまっていることがないわけではないけど、それが正しいことだとか楽しいだとか、そんなことは断じて思っていない。
自分の思っていることを表現したいだけだし、できたかどうかということは、自分で判断する。僕もまた、僕の話の聞き手であり、いつもわれながらばかだなあと、なさけない思いばかりしている。
データや証拠だけで人を説得しようとするなんていやらしく卑しい態度だと思うし、説得されて賢くなったつもりになるのも浅はかなことだ。
そんなことを、僕は、古人類学の世界を眺めて、うんざりするほど感じさせられた。
僕は知識でなんか、ものを考えていない。自分の全人格全人生で考えている。人様にとってはどうでもいいことだけど、とにかくそう言っておかないと前に進めなくなったから、そう言って前に進むことにします。
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ここからが、本論です。
やまとことばが穏やかで優雅な響きを持っているとしても、それは、一般的にいわれているような、そうした気候風土によるのではないと思えます。言葉は、あくまで「社会の構造」によってもたらされるもののはずです。
まずその性格として、聞き手が相手の話をさえぎらない習慣になっていたことがあげられるが、それは、話すがわも、相手を説得しようとしていないからでしょう。つまり、説得する必要が生まれない社会だった。予定調和的な安定した関係が保たれていたからではない。「わからない」という感慨が優先される社会だったから、説得することが美徳ではなかった。
やまとことばは、コミュニケーションの道具としては、きわめて不合理な面をたくさん持っている。
「私は、昨日、山に、登った」
これを、
「私は、昨日、山に、・・・」
というように最後を切ってしまえば、ひどくあいまいになるばかりか、さまざまな意味が浮かび上がってくる。山に向かってお祈りしたのかもしれないし、山に行こうとしてやめたのかもしれない。最後を切ってしまうことによって、意味が豊かになり、豊かになったが、話し手の表現(意図)と聞き手の解釈が分断されて、たくさんの誤解を生む原因になる。それは、表現としては、たくさんの可能性を持っているが、コミュニケーションの道具としてはきわめて不合理だとしか言いようがない。
説得なんかしようとしていない。勝手に表現しているだけです。
それにたいして英語のように、
「私は、登った、山に、昨日」
といえば、どこで切れても、ちゃんと話として成り立つし、誤解を生むこともない。しかし表現の可能性は、限定されてしまう。
まあ僕は、文学者でも文学の研究者でもないから、これくらいでやめておきますが、自分のしゃべったことを相手がどう受け止めようと相手の勝手だ、そういう気分があるのですね。投げやりなのではない。そういうかたちで相手の心を尊重し、説得することを断念している。とにかく、コミュニケーションをちゃんとしようとか、なにがなんでも相手を説得しようとかというような意欲が強ければ、こんな文節の言葉になるはずがない。
やまとことばは、コミュニケーションや説得することよりも、声を出すこと声を聞くこと、それじたいに第一義的な意味があった。なかよく意気投合するためではない。人と人が出会っているという、その情況を確かめているのであって、なかよくしてわかってしまおうとする欲望が希薄な社会だった。
そうして寿命が短く人の死が日常のように起きているその社会では、「嘆き」という感慨もまた日常のものであった。彼らは、つねに、みずからの死の予感とともに生きていた。しかも、死んだらわけのわからない黄泉の国をさまようだけだ、という認識とともに、です。そういう情況と和解するためにはもう、嘆き続ける以外に方法はなく、嘆き続けることによって、死から強迫されることから免れていた。
彼らは、見える風景の外もこの生の外も「ない」と認識していたから、「嘆き」の体験の外に出るということも知らなかった。「嘆き」とともに生きること、それが彼らの日常だった。そういう「嘆き」とともに発語される言葉が、ぴょんぴょん飛び跳ねたり先を急いだりするような音声になるはずがない。一音一音、噛みしめるように吐き出されていった。
日本人の、妙にたどたどしい和製英語にしてしまう癖も、一音一音噛みしめずにいられないメンタリティ(嘆き)がいまだに抜けきれないからでしょう。ただの口癖とは思えない。日本人ほど異文化を無邪気に受け入れる国民もないはずなのに、どうしてもそのままの発音になじめない何かがある。
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日本人の心がやまとことばをつくったのではない、やまとことばが、日本人の心をつくっている。言葉は、社会の構造として「すでにある」のです。
まあそうした日本語の音韻を、「穏やかで優雅」と形容するのは後世の人間の趣味の問題であって、原初の日本人にそういう趣味があったのではないはずです。社会の構造として、自然にそんな言葉遣いなっていっただけでしょう。
彼らが、ささいな草の緑や川のせせらぎに癒される感慨があったとすれば、それは、そういう景色だったからではなく、そう感じてしまうような「嘆き」に浸されていたからでしょう。
べつに、大陸の広大な景色と比べていたわけではない。広大な景色だから広大な精神構造になるとか、そんな問題じゃないでしょう。人間の心なんて、風土ではなく、「社会の構造」によってつくられている。広大であろうとあるまいと、原始人にとっては、見える景色が世界のすべてだったのです。
ネアンデルタールだって、死者に花を手向けていたし、熊の骨でフルートのようなものも作っていた。
まあね、一部の置換説の研究者は、これらのことを、何かの間違いだろう、と言って認めようとしないのですけどね。それを認めてしまうと、ネアンデルタールとクロマニヨンのあいだに連続性はまったくない、という自分たちの主張が揺らぐからです。しかしそんなことを言いたがるのも、ネアンデルタールの社会がそういうこともするだろうような「構造」になっていた、ということに気づく思考力というか想像力がないからでしょう。かっこつけて疑ってみせたって、みずからの低脳ぶりを晒しているだけなんですけどね。
ネアンデルタールだって、自然を模倣せずにいられない「嘆き」をたくさん抱えて生きていた。そこに穏やかな山なみや川のせせらぎがあったからでもないだろうし、むしろ氷河期の北ヨーロッパという、とんでもなく苛酷な環境に置かれていたのです。それでも、日本人顔負けのたおやかな感性を持っていた。
ネアンデルタールだって、目の前に見えるこの景色が世界のすべてだ、と認識して生きていた。
ネアンデルタールが移動する民族だったら、あんな過酷な場所に住み着いたりするものか。そして、クロマニヨンという新参者が近くにやってきたからといって、こそこそ逃げ出したりするものか。あの原始的な武器だけでマンモスにだって戦いを挑んでいった人たちだったのだもの、そりゃあ、死に物狂いで新参者と戦うに決まっている。
ネアンデルタールは そのままクロマニヨンとして氷河期の北ヨーロッパに閉じ込められていたし、原初の日本人もまた、海に囲まれた日本列島に閉じ込められていた。そういう「構造」が、そういう感性や言葉を育てるのであって、風土の問題とはちょっと違うし、古人類学の研究者のいうような「知能」の問題ではさらさらない。
たとえば和辻哲郎は、薬師寺の三重の塔をつくったのはほとんど帰化人の知恵であるはずだが、あんなにも優美で日本的なかたちをしているのは、帰化人の感性もいつのまにか日本のそうした気候風土に染め上げられていったからだ、と言っているのですが、僕はむしろ、「やまとことば」を使っているうちにそうした感性に変化していったのだろう、と思います。
そして「やまとことば」は、目の前のその景色を優美だと感じながら育ってきたのではなく、深く「これが世界のすべてだ」と認識する感性とともに育ってきた。日本列島は、そういう「構造」になっていた。