やまとことばと縄文人の「神」という体験

2万年前のヨーロッパ・クロマニヨンは、頭がライオンで体は人間、という半人半獣の彫刻をつくっています。
原始人にとっての「神」とは、おおよそこんなものだったのだろうと思われます。ペガサスとかケンタウロスとか、ヨーロッパ神話の原型は、おそらくクロマニヨンのこの像にあるのでしょう。
ただ、ペガサスもケンタウロスも、クロマニヨンのそれとは逆に、頭が人間で体は動物、というかたちになっている。
つまり、人は「観念」によって生きてあるのか、「身体」として生きているのか、この世界観において、決定的な逆転がある。
この国で古くから言われている「やまとごころ」と「からごころ」の違いというのも、つまりはそういう世界観にあると思えます。日本人は、「私=観念」ではなく、「身=身体(の輪郭)」で生きている、という世界観。
二万年前のクロマニヨンは、北ヨーロッパ最終氷期の激烈な寒さに閉じ込められてあったが、二千数百年前のギリシア人は、すでに西アジア北アフリカとののっぴきならない関係を持ってしまっていた。もう、明日のことや異人種の腹の内を探る「観念」のはたらきを優先しないと生きてゆけない状況になっていた。もちろん、ギリシア都市国家どうしがいつも戦争をしていた、ということもある。
ちなみに、「スレイブ(奴隷)」という言葉の語源は、北ヨーロッパの「スラブ」民族にあるのだとか。古代のヨーロッパでは、外部との関係が頻繁であったギリシア・ローマといった南ヨーロッパが、いち早く観念存在(からごころ)への発展を遂げ、ネアンデルタール=クロマニヨン的な身体存在としての文化や習俗(やまとごころ)を残していた北ヨーロッパスラブ民族は、もう奴隷にされてしまうほかなかった。
日本列島だってそのころ大陸と陸続きになっていたら、とうぜん同じ立場になっていたでしょう。しかし最終的には、日本は、大陸を追い越して近代化していったし、ヨーロッパでも、けっきょくは北のほうが進んだ文明や文化を持つようになっていった。
人間が、ただ観念存在になれば文化や文明も発達するとはかぎらない。身体的である部分をちゃんと残していたほうが、けっきょくは観念も高いレベルに届くことができる、ということでしょうか。ただ、この問題を 今ここで果てしなくつついてゆくわけにはいかない。
クロマニヨン(=ネアンデルタール)は、日本人と同じように「身体」として生きていた。つまり両方とも、そういう世界観を持って生きていた。
そうしてクロマニヨンは、すでに「神」という概念と出会っていた。
であれば、1万年前の日本列島で暮らしていた人々にも、同じような精神体験はあったでしょう。
最終氷期の激烈な寒さに閉じ込められていたクロマニヨンも、まわりが海の日本列島に閉じ込められていた縄文人も、この世界の「外部」を知らなかった、この世界の外は「ない」と、深く認識していた。
彼らは、自分たち以外の人間を知らなかった。「人間」とはこういうものだ、と認識して生きていた。そこにおいて、満足も、不満もなかった。
ただそれは、「嘆き」に浸されて生きることだったから、つねに人間以外のものを畏れ憧れていた。しかし人間の「外部」を知らない。それはもう、深く身にしみて知らなかった。
であれば、彼らのその畏れや憧れは、「人間であって人間でないもの」に向かうほかなかった。彼らは、「人間であって人間でないもの」になりたかった。言い換えれば、彼らの畏れや憧れの対象は、すべて「人間であって人間でないもの」であった。
日本列島の古代人にとって太陽である天照大神は、「人間であって人間でないもの」だった。そして嘆き続ける生を生きるほかなかった彼らじしんもまた、「人間であって人間でないもの」になりたかった。
クロマニヨンの半人半獣の像は、そういうことをわれわれに語っているのではないでしょうか。
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クロマニヨンは、人類の歴史において画期的な芸術活動を花開かせた人たちでした。だから、あほな研究者たちは、クロマニヨンが現代のプチブルみたいな安穏な暮らしをしていたように思い込んでいる。そして、ネアンデルタールよりはるかに高い知能をそなえていただのと、幼稚で愚劣な理屈を吹きまくっている。
氷河期の北ヨーロッパを生きていた原始人が、ちょっとくらい石器文化がましになったからといって、そんな暮らしをできるはずがないじゃないですか。
そのときネアンデルタールは、長生きできるが寒さに対する耐久力はないという、ホモ・サピエンスの遺伝子をみずからの血の中に取り込んでしまったため、最終氷期の激烈な寒さに、「嘆き」をいっそう深くして生きるほかなかった。それが、クロマニヨンという人たちの正体だ。
彼らの芸術活動は、そういう「嘆き」から生まれてきたのであり、そういう「嘆き」が「人間であって人間ないもの」である半人半獣の「神像」をつくらせたのでしょう。