やまとことばと、縄文人の「神」という体験Ⅱ

現代人の「遺伝子」にたいする安直な信仰は、いささか度が過ぎているように思えます。
その社会の文化をつくるのは、遺伝子ではなく、その社会の「構造」でしょう。ネアンデルタールであろうとホモ・サピエンスであろうと、氷河期の北ヨーロッパに閉じ込められたら、そういうクロマニヨンのような文化は生まれてくる。
研究者の皆さん、お願いだから、「象徴化の知能」がどうたらこうたらと、そんな安っぽいことを言わないでください。偏差値が高いことが、そんなにえらいのか。たいした絵もたいした歌もつくれないくせに、「象徴化の知能」とやらだけで芸術が生まれるなんて、芸術を甘く見ている。あなたたちにどれほどの生きてあることの「嘆き」があるのか知らないが、「象徴化の知能」とやらを持っていれば「神」という概念と出会えるなんて、人間の観念というのは、そんな単純な構造や機能にはなっていないはずですよ。
「象徴化の知能」といえば、人を丸め込むことはできるだろうし、単純明快だから、そうだそうだとみんなで肯きあうことにも便利だろうが、それが真実であるかどうかということとは、また別の問題だ。
知能が高いことが、人間であることの証しなのか。知能が低ければ、そのぶんだけ人間ではないということか。あなたたちがえらそうにふんぞり返っていることに文句をいうつもりはさらさらないが、あなたたちのその低級で愚劣な思考が人間や歴史の真実を解き明かしているなんて、僕はぜったいに認めない。
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痛いとか息苦しいとか腹が減っただとか、生きることの機能は、そうやって嘆くことの上に成り立っている。みずからが身体を持った生きものであると自覚すること、その自覚が人間であることの証しなら、人間であるいとなみはもう、嘆くことにしかない。
現代人は、人間を超えようとするから、嘆きを否定する。しかし超えていったその先が、たんなる「人間という制度」であるのなら、ごめんです。現代人は、「人間」を超えようとしているように見えて、じつは、「人間」であることができないことに居直っているだけなのかもしれない。
「人間」であることのエクスタシーよりも、「人間という制度」に浸ることの「愛」や「幸せ」のほうが大切なんだとか。そんなことばかりやってりゃ、そりゃあ、ボケ老人もいっぱい出てくるさ。せいぜいそうなるまでのあいだ、「人間という制度」を楽しんでおけばいい。
縄文人は、「人間」であることをぜんぶ受け入れて、「神」を目指した。おそらく「神話」は、そうやって生まれてきたのでしょう。
現代人は、神を否定しつつ、「人間」であることすらも避けようとしている。
縄文人は、人間の外側のものを畏れた。なぜなら、「わからない」からです。この生の外も、畏れた、わからないから。
しかし現代人は、この生の愛と幸せの延長として神や天国をとらえようとする。しかしこの生の延長は、この生でしかないでしょう。
だから、現代人には、「神」は見えない。
「わかる」ものは、「神」ではないのです。
ギリシア神話の神だって、畏れの対象だった。畏れを持っていない現代人には、神は見えない。
わからない、という嘆き・・・それが、畏れです。したがって、「人間」であることを受け入れて嘆いているものにしか「神」を見ることはできないし、畏れを携えていなければ、「神」を目指すことはできない。
神になるとは、畏れ=死と和解することです。わからないという嘆きと和解することです。そういう心のかたち体現する事物を、原始人は「神」とよんだ。
畏れ=死と和解するとは、身体と和解することです。息苦しいとか空腹だとか痛いだとか寒いだとか、そういう死に通じる「嘆き」ばかりをもたらす身体と和解することです。
だから、クロマニヨンの神像は、頭はライオンでも、身体は人間だった。
原始人の「神」は、人間の身体を持っていた。彼らは、身体からもたらされる「嘆き」を消去するすべを知らなかったし、消去しようとも思わなかった。身体とはそういうものだと思っていた。そういう身体と和解できる観念に憧れた。
おそらく、彼らにとって、ライオンの強さと獰猛さは、身体と和解しているように見えた。彼らは、人間であるほかないと深く認識しつつ、人間以外のものを畏れ憧れた。そうして「人間であって人間ではない」存在になろうとした。人間の身体を持った人間以外のものになろうとした。それが、彼らの「神」だった。
自然現象だって、やはり人間の身体を持った人間以外のものとしてイメージされていたはずです。たとえば、俵屋宗達の「風神雷神図」のように。
人は、人間であらねばならないと同時に、人間であってはならない。われわれの、人間であるという自覚は、そういう二律背反の上に成り立っている。
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ルソーという哲学者は、「人間は、神を目指さなければ、人間にすらなれない」といったそうだけれど、まったくその通りだと、つくづく思います。
世間ではよく「世界宗教」などといって、キリスト教や仏教が肯定されたりするが、そんなものはどれも、この生の延長に死を描こうとする「人間という制度」にすぎない。
僕は、古事記ギリシア神話のほうが、ずっと本質的だと思う。それらは、宗教というのとはちょっと違うのかもしれないが、とすれば、宗教なんてしょせんは「人間という制度」にすぎない、というだけです。
「人間という制度」に居直って「愛」や「幸せ」をいじくりまわしているかぎり、死と和解することはできない。
まあ、いいんですけどね。それでも誰もが、無事死んでゆくことができるのだから。
生きている今のうちに「人間という制度」に居直って楽しんだやつが勝ち、なのかもしれない。
ただ、人はほんとうに「愛と幸せ」だけで生きてゆけるのか。人間の歴史は、ほんとうに食い物=経済だけで動いてきたのか。
原始人の生だって食い物だけではすまなかったように、現代人もまた「愛と幸せ」が満たされたからといって、それだけではすまないものがあるにちがいない。
食い物だけではすまなかったから、原始人は「神」という概念を見つけた。
そして現代人は、「愛と幸せ」だけですまそうとして、神を見失った。
「愛と幸せ」は、経済=食い物を求めることの、ひとつの達成の証であり、すなわち「わかる」という観念行為の結実だともいえます。
そしてエクスタシーは、「わからない」という嘆きがたどり着く体験です。
エクスタシーは貧乏人にだってあるし、むしろ貧乏人のほうがより深く豊かに体験している(貧乏人の子だくさん、というように)。
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「わかる」という体験こそ人間的であるのかといえば、けっしてそうとはいえない。
「わかる」ことは、犬や猫でもしている。彼らは、「わかる」範囲で生きているのであり、それは、何もかもぜんぶわかっていることと同じなのです。
「わからない」という観念のはたらきこそ、犬や猫に欠落しているものではないでしょうか。
直立二足歩行を始めた人類が最初にした体験は、「わからない」というかたちで世界が目の前にあらわれてくることです。それは、今までとはちがう姿勢で、今までとはちがうように世界を見てしまう体験だったはずです。彼らはそうやってたくさんの「わからない」事物と出会い、そのつど「わかる」という体験にたどり着いてきたが、その果てにいつか、「死」という概念を持ってしまった。
「死」は、どんなに考えても、わからない。けっして「わかる」という観念にはたどり着けない。
人類の「わからない」という観念のはたらき(嘆き)は、どんどん成長していった。そうして、「わかる」という観念を遠く置き去りにしてしまった。
もはや、「わからない」という観念の事態と和解するしかなかった。
それが、「神」という概念を持つ、という体験だったのではないでしょうか。
で、その後「宗教」という制度性が生まれて、この問題を解決していった。
さらに現代は、「科学」が、それにかわって「わかる」という体験の提供者になった。
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現代人は、「わかる」という観念によってたえず「わからない」という認識を打ち消し続けているが、「死」の問題が解決されたわけではないし、「わからない」という認識は、すでに人間であることの属性になってしまっている。
われわれは、「わからない」という認識からもたらされるエクスタシーを、すでに知ってしまった。
すなわち、原初の「神」という概念を持ったときのエクスタシー体験は、いまだにわれわれの中に無意識として残存し、われわれの行動を支配し続けている。
この世界なんて、「わかる」と思ってみれば、ぜんぶわかる。わかるものだけが世界だと思えばいいだけのこと、犬や猫だって、この世界のことをぜんぶわかっている。
そして「わからない」という観念のはたらきをそのままにしておけば、何もかも「わからない」ものとしてわれわれの前に存在している。
「人間であって人間ではない」存在とは何か、と問うても、「わからない」という答えにしかたどり着けない。直立二足歩行をはじめて以来、人は数え切れないほどの「わからない」という体験をし、それこそがその体験の究極のかたちだった。
そのもの狂おしさ、それこそが原始人が体験した「神」だった。そしてそれが、やがて人間の観念のはたらきの根源的なかたちになっていった。したがってその体験は、そのままわれわれの観念の中に、ひとつの「痕跡」として残っている。われわれのこの生は、そのような原始人が体験したもの狂おしさの上に成り立っている。
人を恋しいと思うことだって、そういう観念の上に起きているから、犬や猫からすればバカじゃないかと思うくらいせつなく熱いものになってしまう。
もの狂おしいとは、「人間であって人間ではない」存在になってしまうこと、誰もがどこかしらでそういう存在になりたがっている。というか、なってしまう。
「わからない」という問題の答えは、「わかる」ことにあるのではない。両者はまったく別の次元の観念であり、それらは「やまとごころ」と「からごころ」くらいに、恋の体験と恋の知識くらいに違う。この世には、「わかる」ことによっては得られない答えがある。「わからない」という問題の答えは、「わからない」という認識を味わいつくすことにしかない。味わいつくすエクスタシーが、答えだ。答えがないことが、答えだ。
「神」という体験にはじまって、人間の、芸術とか恋愛という体験も、そこから生まれてきた。「わかる」という「知能」なんかであるものか。
みんな、原始人をばかにしすぎている。人類が直立二足歩行をはじめて700万年目の原始人と、701万年目のわれわれと、いったいどれほどの違いがあるというのか。
縄文人は、「わからない」という認識からもたらされるエクスタシーを、われわれよりもはるかに深く体験していたし、この閉じ込められた島国では、その体験がずっと培養され続けて「やまとことば」というかたちになっていった。
言葉は、「わかる」という知能から生まれるのではない。りんごが赤い木の実であることなど、すでに誰もが知っている。すでに知っているのに、なぜ「りんご」という言葉を持ってしまったのか。それが、言葉の起源、という問題だ。それは、りんごという存在にたいする物狂おしい感慨を持ってしまったからだ。この世にりんごという素敵な木の実が存在することの不思議に、原始人は物狂おしくなってしまったからだ。そのとき「りんご」という言葉は、「神」として生まれてきた。
人は、けっして「わからない」という嘆きを手放さない。「わからない」と嘆くことこそ人間であることの証しであり、すべてのエクスタシーはその上に成り立っている。もの狂おしく「わからない」という認識を味わい尽くすこと、それが縄文人の「神」体験であり、人間のエクスタシーの本質でもある。
いちおうこのあたりが、とりあえず素手で掘り進んでみた「やまとことば」の源流です。あとは、本でも読んで勉強しなおします。
「都市に棲む山姥」さん、ありがとうございました。