直立二足歩行の起源を問うことは、人間の根源にある「弱さ」について考えることでもある。
弱い生き物は、自分のまわりの世界に対して敏感でなければ生きられない。
強い生き物なら、多少は鈍感でも生きられる。
直立二足歩行する人間は弱い生き物だから、世界や他者に対してどんどん敏感になっていった。
二本の足で立ち上がって見晴らしがよくなったから敏感になっていったのではない、それによって動物としての身体能力を失って弱い生き物になってしまったからだ。
最初から弱いのとはまた違う。最初から弱いのなら、それを当たり前のこととして生きてゆく。しかし人間の場合は、二本の足で立ち上がることによって、ほんらいの自分の能力を失ってさらに弱くなったのだ。だから、どうしても自分の「弱さ」に対して自覚的にならざるをえない。自覚的だから、世界に対してより敏感にもなり、怖がるようにもなっていったのだ。
そういう今ここのこの世界に対する敏感さが、人間を生かしもするし生きられなくもさせている。
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蛇を前にした蛙は、「食べられる」という未来を予測するのか。
そうではあるまい。
その蛙は、そんな経験などしたことがないし、たぶん仲間が食べられる現場を見たこともない。
蛙には蛇を見たら怖がるような心の動きが遺伝子の中に組み込まれている、などといってしまえば話は簡単だが、僕は信じない。
そのとき蛙は、「食べられる」という未来を予測しているのではない。
われわれ人間だって、蛇に食べられる心配などないのに、蛇を見ればどうしようもなく怖がってしまう。そういう根源的な恐怖がある。われわれは、そういう怖がる生き物である。
それは、「今ここ」の存在の根拠が揺らいでいるという恐怖であって、「食べられる」であろう未来のこととは関係ない。
「死ぬ」ことが怖いのではなく、「生きられない」ことが怖いのだ。
死ぬことなど知らない生き物でも「生きられない」という感覚は持つことができる。それがたぶん恐怖という心の動きであるのだろう。
生まれて間もない子犬は死など知るよしもないはずだが、とても怖がる。死を知らない子犬ほど怖がる。
生き物は、死を予測するから怖がるのではない。
「生きられない」から怖いのだ。
「死ぬ」ことと「生きられない」こととは、また別の問題である。
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物を食えば生きられる。
しかしそれを食うためには、それを実在する「物」であると認識していなければならない。それではじめて食うことができる。
「生きられる意識」とは、この世界の実在感をありありと感じることのできる意識のことをいう。そこからしかこの生ははじまらない。
では、どうすればいきいきと感じることができるのか。
実在感を感じるためには、実在しない、ということを知っていなければならない。
実在するとは、実在しないのではない、という意識である。
生き物は、まず「実在しない」という認識を体験する。
生まれたばかりの赤ん坊は、まず身体のまわりの「何もない空間(=空気)」に気づく。ここからわれわれの生がはじまっている。この体験を基礎として持っているから、この世界の実在感をありありと感じるようになってゆく。
生まれたばかりの人間の赤ん坊は、無力である。見ることも体をうまく動かすこともできない。そんな存在にとって、体のまわりに空間があることがどれほど恐怖であるか。だから、抱きしめられて空間をふさいでもらうと落ち着いて泣き止む。そしてだからこそ、どんどん空間に対して敏感になってゆく。体が動くようになってくれば、空間があることがよろこびにもなる。しかしそれは、空間を恐怖したトラウマを抱えているからであり、そういう弱い生き物としてわれわれは生きている。
赤ん坊にとって二本の足で立ち上がることは、身体のまわりの空間と和解してゆく喜びである。彼らが、その瞬間、どれほどうれしそうな顔をするか。
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はじめに「ない」と認識し、そのあとに「ないではない」という認識を身につけてゆく。
生まれた直後に「ない(=空間)」という意識を持った赤ん坊は、そのあとお母さんのおっぱいに触れて、「ないではない」と気づく。これが、最初の実在感の体験である。
実在感、すなわち「ないではない」と認識することは、ひとつの違和感である。
違和感の究極は、「感動」であると同時に「恐怖」でもある。感動と恐怖は一枚のカードの裏表であり、だから遊園地にはジェットコースターやお化け屋敷がある。
われわれは、違和感としてこの世界の実在感を認識している。
恐怖とはこの世界に対する違和感のことであって、身体維持の本能なんかではない。
弱いものほど、この世界の実在感をひとつの違和感としてありありと感じている。
弱い子犬や人間の赤ん坊のほうが、ずっとリアルにこの世界の実在感を感じて生きている。
原初の人類は、直立二足歩行をはじめることによって、チンパンジーより弱い猿になった。
弱い猿になったことによって、怖がる生き物になったし、この世界の実在感をありありと感じるようにもなった。
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人間は、怖がる生き物である。人間の赤ん坊は、恐怖の叫び声を上げながら育ってゆく。そうしてその代償として、この世界の実在感をありありと感じる能力を身につけてゆく。
しかし、怖がりすぎると、感じるまいとして自分の世界に引きこもってしまう。
それがトラウマにならないていどに怖がるというのも、なかなか難しい按配である。
人間の親は、そういう綱渡りのような子育てをしなければならない。
綱渡りなんか、めったに成功しない。誰もがどこかしらで自分の世界に引きこもって自分を守ろうとする部分を持っている。おそらく人類社会の家族という単位は、そのように子育てに失敗した結果として生まれてきたのであり、家族によって人は、自分の世界に閉じこもる非常手段を身につけてゆく。
人間社会にもともと「家族」などという単位はなかった。しかし共同体という制度が生まれてくれば、そこからの監視から守ってやらないと子供は育ってゆくことができなくなってきた。その装置として家族が生まれ、家族によって子供は、「自意識=自我」という自分の世界に引きこもる防御手段を身につけてゆく。西洋のような核家族で育った子供の自意識は強いし、この国の昔の子供のような風通しのよい大家族制度のもとでの自意識は薄いまま育ってゆく。
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タイトな家族であればあるほど、子供の自意識は強くなってゆく。
現代社会の「引きこもり」は、戦後の「核家族」が生み出した。それは、核家族に囲い込まれてこの世界や人間関係の実在感(生々しさ)を感じないまま育ってきた子供が家の外に出てその実在感(なまなましさ)と出会って恐怖し、また家の中に引き返してくる、という現象であろう。
「実在感(生々しさ)」に耐えられないのは、それを拒否する習性を持つように育てられてしまったからだ。もちろんその責任は、親だけにあるのではなく、この社会や時代そのものがそういう構造になっているからだろう。
現代社会の人と人の関係は、必要以上に生々しくなっている。共同体の権力は、人々の一挙手一投足まで監視しようとするし、学校も「教育という美名のもとに生徒に対して多大の圧力をかけている。そして誰もが平気で政治の批判をし、学校や居酒屋では手に負えないクレーマーになる。これだって、この世界や人と人の関係の生々しさに耐えられなくていらだっている行動だろう。
直立二足歩行のコンセプトである「他者の身体とのあいだに空間(すきま)をつくる」ということができていないからだ。
大人たちがみんなしてこんな生々しいことばかりやっている世の中なのだもの、子供や若者だってニートや引きこもりになるさ。みんな、人に対してなれなれしすぎるのだ。こうした心の動きは、原初の直立二足歩行前夜の、群れの中で体をぶつけ合っている状態と同じである。現代文明は発達しても、生き物としての根源的な生態においては、そんなレベルまで後退してしまっている。
人間は、危機に対して、戦う能力も、するりと身をかわして逃げる敏捷さもない。直立二足歩行する人間は、隠れ場所にじっと身を潜めていることしかできない。それが人間の本能で、そういうことは、今回の東北地震でよくわかったはずだ。学校やこの社会で傷ついた若者だって、そのようにして自分の部屋に引きこもっている。
われわれの心の動きの根源は、「人間は弱い生き物であり、怖がる生き物である」ということの上に成り立っている。
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われわれにとって、危機を回避し危機に耐えられる「生きられる意識」とはどういうかたちのものだろうか。
直立二足歩行する人間には、危機を回避し危機に耐える能力などない。だから、危機でもないのに浅ましくカップラーメンやトイレットペーパーの買いだめに走らねばならない。
人間にできるのは、危機を忘れてしまう心を持つことだけである。そうやって、弱い生き物として危機それ自体を生きてきたのが人間の歴史なのだ。
人間の目の前に、この世界がありありとした実在感を持って生々しくたち現われることはもう、避けられないのだ。その実在感にときめいてゆく姿勢として直立二足歩行の姿勢を見出し、危機であることの自覚を忘れていったのだ。
二本の足で立ち上がることは、動物としての身体能力を喪失しつつ体の正面の急所を外にさらしてしまうという、生き物のとしての危機の中に置かれる姿勢である。しかしそれによって人間は、たがいの身体のあいだに「空間(すきま)」を確保し合い、たがいの危機を忘れた。そうして、たがいにその実在感にときめいていった。
人と人は、たがいにときめき合う装置としてたがいの身体のあいだの「空間(すきま)」を見出し、たがいにこの「空間(すきま)」を祝福し合っている。人は、この「空間(すきま)」に憑依してゆくことによって、みずからの身体の危機を忘れる。
われわれは、この「空間(すきま)」に言葉を投げ入れ合い、この「空間(すきま)」を祝福し合っている。
われわれの祖先は、干渉し合いくっつき合う関係の生々しさを嫌って二本の足で立ち上がった。
なのに今また、直立二足歩行前夜のようなくっつき合う社会をつくってしまっている。若者たちは、そういう関係を嫌って引きこもるのだ。
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人が「もう生きられない」と絶望するとき、たいていの場合、人との関係に追いつめられている。人間を生きさせるのも、生きることができなくさせるのも、人と人の関係である。
原初の人類は、人と人の関係として二本の足で立ち上がったのだ。したがって「生きられる意識」は、その上に成り立っている。人間は、そういう生き物なのだ、たぶん。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって弱い生き物になった。しかしそれによって、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保し、たがいにときめき合う関係をつくっていった。
ときめき合いながら、より高度な連携の能力を獲得しつつ、文化や文明を生み出していった。
人間的な高度な連携の基礎には、より深くたがいにときめき合う生き物であるということがあり、すなわちそれは、より深く怖がるがゆえによりダイナミックに今ここのこの世界の実在感を感じる生き物になったということでもある。
現在の東北地震を被災した人たちにとってのもっとも基礎的な「生きられる意識」は、明日への希望とかそんなことではなく、人と人がより深くときめき合う人間的な連携にある。そしてそれは、今ここの現地の人と人の関係の中から生まれてくる。悲嘆に暮れる弱い生き物どうしの共感の中にある。
安全な立場に身を置いているものたちのボランティアなどという善行によって与えられるのではない。
だから「疎開してこい、そしたら助けてやる」などと、何様のつもりか知らないがそんなえらそげでくだらないことは言うな。このばかどもめ。
何はともあれ、みんなして今ここのこの場で立ち上がってゆくことができるのなら、それがいちばんなのだ。人間の直立二足歩行は、そのようにして生まれてきた姿勢なのだから。
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生き物は、どのように危機を回避しているのか。
原始人にとって氷河期の極北の地を生きることは、毎日が命の危機だったはずだ。もともと南方種である人類がどうしてそんな苛酷な環境の中を生きることかができたのか、ほとんで奇跡的だといえる。何を好きこのんでそんな地から離れなかったのか。彼らは、危機を回避しなかった。危機それ自体を生きていた。
人間は、危機を回避する生き物ではない。危機を回避する能力のない弱い猿として歴史をはじめたのであり、危機を回避するのではなく、危機を忘れて危機それ自体を生きる歴史を歩んできたのだ。
いいのか悪いのかわからないが、そういう「危機を忘れて危機それ自体を生きることができる」という人間性にかこつけて原子力発電が成り立っているのだろうし、われわれが煙草を吸うことだってまあそのようなことだ。
人間は、ただ危機を回避すればいいというような生き方はしない。危機それ自体を生きることが生きることの醍醐味になっている部分もある。だからネアンデルタールは、氷河期の極北の地を生きた。しかしそれは、強いからじゃない、危機を回避する能力を持たないから、危機を忘れて危機それ自体を生きるようになっていったのだ。
そりゃあ、危機の中を生きることはつらい。それでも危機の中を生きようとしてしまうのが人間であり、おそらくそこにこそさらに深い生きてあるこの醍醐味がある。そこでこそ、さらに深い味わいの人と人の関係が生まれる。
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今回の地震の被災地の人たちは、それでも今なお危機それ自体を生きている。ここまでくればもう略奪や暴動が起きても仕方ない状態なのに、そんな話は聞かない。こんなふうに生きることができるのは、日本人のほかにはそうそういないのかもしれない。彼らは、人間の根源を生きている。
関西地方の安全な地に住む内田樹という知識人が、「疎開のすすめ」と題して、疎開してくればうちの大学で引き受けてやる、などとえらそうなことを言っておられた。ボランティアだかなんだか知らないが、自分たちの優越感を満足させるためにそういう提案をするなんて、お前らそれでも人間か。殺意すら覚える。他人なんか自分のおもちゃだというくらいにしか考えていない。
疎開することによって壊れてしまう心だってある。戦時中の疎開児童たちがどれだけ人間として多くのものを失ったか。ひとまずそういう想像もしてみろよ。
身も凍るような恐怖の中を潜り抜けてやっと再会した人たちの連帯感を容赦なく引き裂くような調子で、疎開すればいい、だなんて、よくそんな無神経なことがいえるものだ。
あなたには、危機を生きる人に対する敬意というものはないのか。自分が人間のスタンダードのつもりだろうが、人間であることの根源は、あなたみたいな危機を生きることができない鈍感な人間のもとにあるのではない。「今ここ」の危機それ自体を生きる人間としての深い感慨は、あなたなんぞにはわからない。人間に対する想像力がなさ過ぎるんだよ。
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僕も地震のことを書くことにしよう。
ちょっとね、それ以外の話をしたらいけないような雰囲気になってしまっているじゃないですか。良くも悪くも、われわれはそういう民族なんだよね。
それはともかく、
人間というのは怖がる生き物だなあ、と思った。
震源地近くの地域に比べれば、東京なんてたいしたことなかった。
それでも怖かった。
われわれは、その恐怖を共有した。
人間というのは、恐怖を共有している生き物だろうか。こういうことには、世界中が関心を寄せる。
どうして地震は怖いのだろう。
阪神淡路大震災を体験した人たちの多くも、「根源的な恐怖を体験した」といっておられる。
では、根源的な恐怖とは何か。
死の恐怖か。
たぶん、そういうことじゃない。
この人は死ぬことなんか怖くないのだろうな、というような人だって、阪神淡路大震災では、体の奥底にあるような恐怖を体験した、という。その心の傷からいまだに立ち直れない人だってたくさんいるらしい。
生き物が怖がるとは、どういうことか。
死ぬことじゃない。
死ぬかもしれない、と思うからじゃない。
そんなことじゃない。
そんな未来のことを予測するからじゃない。
生き物は、未来なんか予測しない。
「今ここ」のこの世界との関係を生きている。
ただもう「今ここ」が怖いのだ。
人は、この世界が実在することを信じている。
この世界の実在をありありと感じて生きている。
その信憑が揺さぶられるのだ。
自分が死ぬことが怖いのではなく、世界が崩壊することが怖いのだ。
自分が死ぬことではなく、心がなくなることが怖いのだ。
心は、この世界の実在を信じることの上に成り立っている。そういう心のあり方の根拠を崩されそうになるから怖いのだろう。
怖いとは、心が揺らぎ壊れそうになることだろう。そのことが怖いのだ。
心は、「今ここ」のこの世界に憑依している。
その「今ここ」のこの世界との関係が崩れそうになるから怖いのだ。
死んでしまう未来が怖いのじゃない。
自分の体が大切だからじゃない。
身体維持の本能、などという。そんなものは嘘っぱちだ。
直立二足歩行は、体のことを忘れてしまう歩き方である。人間は、体のことを忘れて生きている存在である。
地震が起きたとき、われわれは、体のことを忘れて怖がったのだ。そのとき、腹が減っていることも、肩が凝っていることも、頭が禿げていることも、自分がブサイクであることも、ぜんぶ忘れて怖がったのだ。
心は、世界との関係としてはたらいている。人間は、ことのほか世界との関係を深く切り結んで存在している。恐怖とは、その関係が壊れそうになることだ。
死にそうだから怖いんじゃない。そのときわれわれは、そんなことなど忘れて怖がったのだ。
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人間は、未来を予測する生き物か。
津波が来る、と予測した。そしてそれがどのていどものかを予測した。
しかし実際にやってきた津波は、人々の予測をはるかに超えていた。
予測して、まあこれくらいは大丈夫だろうというところろで行動した人は波に呑み込まれた。
なんだかわけもなく怖がってしまった人たちは、すぐに高台に避難して助かった。
人類は、予測の能力で生きのびてきたのではない。わけもなく怖がってしまう生き物だから生きのびてきたのだ。
逃げられると思った人は、波に呑み込まれた。
津波がやってきたら逃げられないとかんねんして高台に身を潜めた人は、助かった。
人類は、逃げる能力を磨いて生きのびてきたのではない。逃げられないと思いきり怖がり、隠れてしまうことによって生きのびてきたのだ。
怖がる能力が人間を生きのびさせ、怖がることを共有してより緊密な連携の能力を育ててきた。
今われわれは、怖がることを共有しながらひとかたまりになって連携している。
予測のつかない事態に置かれてあるという自覚を共有しながら連携している。
予測することは人間の能力ではあるが、本能ではない。本能は、怖がることにある。「今ここ」を怖がることによって連携してゆく。そうやって人間は生きのびてきたのだ。
そういう「弱さ」が人間的な連携の能力を育ててきたのであって、予測しようとする衝動によってではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生き物は、身体を維持しようとする衝動によって生きているのではない、今ここのこの世界に憑依してゆくことによって生きてあるのだ。そのことがうまくできないと生きられれないし、怖がってしまう。
身体維持のためなら、人間は二本の足で立ち上がらなかった。
それは、動物としての身体能力を喪失し、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらすという、身体の危機に浸される姿勢である。人間はそういう「弱さ」を根源的に抱えているのであり、だからこそことのほか怖がる生き物になったし、ことのほかこの世界の実在感に憑依してゆく存在にもなった。そしてその怖がるという弱さと世界(=他者)に憑依してゆく心の動きを共有しながら、タイトで高度な連携をつくることのできる生き物になっていったのだ。
生き物は、身体維持という未来のために生きているのではない。今ここのこの世界の実在に憑依して生きているのだ。
そしてわれわれは先験的に身体の危機を生きているのだから、身体の危機が怖いのではない。また、なぜ身体の危機を生きられるかといえば、身体のことなど忘れているからだ。
われわれは身体の危機を支払って世界と関係を切り結んでいる。地震が起きると、その関係が崩れそうになるから怖いのだ。
原初、火山が爆発してふもとの住民が逃げようとしたのは、溶岩が流れてきて身の危険が迫っていることをを察知したからではない。彼らは、まだそんなことを体験していなかったし、そんなことを予測する科学的知識もなかった。それでも怖がった。彼らは、死ぬことなんか何も怖くなかったのに、それでも怖がった。彼らは、山が火を噴いて地響きを立てることそれ自体を怖がった。すなわち、「今ここ」のこの世界との関係が崩れてゆくことを怖がった。それこそが、彼らの生を脅かす体験だった。
生き物はそういうことを怖がっているのであって、死ぬことを怖がっているのではない。
生き物は、世界の実在感に憑依して生きている。それが、生き物の「生きられる意識」であって、身体を維持しようとする意識ではない。
そして人間は、ことのほか世界の実在感に憑依して生きている存在であるがゆえに、その意識が脅かされると、ことのほか怖がってしまうのだ。
人間は怖がる生き物であり、そのことが人間の歴史をつくってきたのであって、未来を予測する怖がらない人間の非人間的な知能がつくってきたのではない。
怖がるものたちの連携の上に人間の歴史がつくられてきたのだ。
今回の地震から、あらためてそう思った。人は、こういうときにこそ、人を信じ、人にときめいている。
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原初の人類が直立二足歩行をはじめた700万年前ころ、チンパンジーやゴリラなどの霊長類の猿は、南ヨーロッパからアフリカ全域まで棲息していた。
しかし地球気候は徐々に寒冷乾燥化してきて、200万年前ころには、ほとんどの霊長類がアフリカの赤道直下に集まってきて、アフリカの北回帰線以北にはいなくなってしまっていた。
つまり、赤道直下でのテリトリー争いが熾烈になってきた、ということだ。
で、そこから追い出されていったのは、人類の祖先たちだった。彼らは、南下してきた他のライバルたちと入れ替わるように北上してゆき、とうとうアフリカの外にまで追い出されていった。
もちろん赤道直下に残った者たちもいたが、弱い群れほど北へ北へと押し出されていった。
彼らは、体の大きさも知能のレベルも、チンパンジーとほとんど変わりなかった。おまけにチンパンジーよりも動物としての身体能力に劣っていた上に、ライバルと境界線を接して緊張関係を保ちながら共存してゆくことができず、他の群れのテリトリーとのあいだに空白地帯がないと共存してゆけないという習性だったから、もう必然的に追い払われてゆくしかなかった。
進化が遅れていたいちばん弱い形質の群れがアフリカを出て行ったのだ。
おそらく赤道直下に残った人類の群れと比べると、50万年くらい身体的な進化が遅れていた。
考古学の発掘資料によると、ひとまずそういう結果が出ている。
したがって、それ以後の人類の歴史は、つねにアフリカの赤道直下以南の地域がもっとも文化的にも進んでいた。
アフリカを出て行ったのは、進化がもっとも遅れていたグループだった。
これが、人類の先史時代の法則である。現在の環境にうまく適合できない能力の劣ったものたちが拡散していったのだ。であれば、4万年前にアフリカを出た強力で先進的な群れがヨーロッパに移植していって原住民であるネアンデルタールを滅ぼした、ということもあり得ない。環境に適合している群れは、出てゆきはしないし、適合できない瀕死の群れがはるばるヨーロッパまで旅をしてゆく能力もあるはずがない。そのころ、ヨーロッパに入植していったアフリカ人など一人もいないのだ。
先史時代には、近在の群れどうしで女が交換されていたというだけの話。だからそのころだって近親相姦などほとんどなかったし、そうやって遺伝子だけが群れから群れへと旅をしていっただけのこと。
人間は、けんめいに住み着こうとする生き物である。その苦しさうっとうしさに耐えてけんめいに住み着いてゆくから、旅が娯楽になっているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・
というわけで、最初にアフリカの外の地へと拡散していった者たちは、どのていど進化した個体だったのだろうか。
人類全体が、まだ体の大きさも知能も、それほどチンパンジーと変わりがなかった時代である。
だったら彼らの体には、まだ猿と同じような体毛に覆われていたのかもしれない。
人類の体毛はなぜ抜け落ちていったか。
これには諸説がある。二本の足で立って歩くようになったから新陳代謝が変わったとか、突然変異が起きてそうなった、というような乱暴な説もある。
ダーウィンは、体毛の薄い個体が好まれたからそのような方向で淘汰されていったのだ、といっている。これも、アホじゃなかろうか、という説だ。みんなに体毛があるのなら、体毛のない個体なんか気味悪がられるだけだ。そういう「目的論」で解決がつく問題であるはずがない。
体毛の抜けるいちばんの原因は、老化を除けば、ストレスにある。
おそらく「見つめられている」というストレスによって抜け落ちていったのだ。
人間の群れは、限度を超えて密集して、たがいに見つめあっている。ただでさえ密集している上に、直立二足歩行は他者を見つめてしまう姿勢である。
ライオンが正面から向き合えば、けんかをしているのだろう。ほとんどの動物にとって正面から向き合うことは、戦闘態勢に入っている姿勢である。だから、立ち上がってわざわざ急所をさらすようなことはしない。チンパンジーはつねに他者や他のテリトリとリートの緊張関係を生きているから、けっして直立二足歩行を常態化させるということはしない。
しかし直立二足歩行する人間は、あえて急所をさらして向き合っている。向き合うことは他の動物以上に危険な事態であるが、同時に向き合わなければ、相手に戦意がないことを確認することはできない。向き合うことによって親密になる。これは、他の動物とは決定的に違う生態である。
そして、この生態によって毛が抜け落ちてきた。
向き合えば、とうぜん見つめ合うことになる。見つめ合うことによって親密にもなるし、敵対したりもする。というわけで人類は、「見つめられている」という視線をつねに意識している存在になっていった。
原始的な群れであるあいだはまだ良かったが、さらに密集した群れを営んで知能も発達してくれば、その「見つめられている」という意識が、意識の表面に出て特化してくる。
人類が石器を工夫したりして知能が急速に発達してきたのは、200万年前以降のことである。それと同時に、「見つめられている」という意識も表面化してきて、そのストレスとともに体毛が抜け落ちていった。
それに、体が大きくなってくれば、同じ個体数の群れでも、そのぶん「密集している=見つめられている」という意識は強くなってくる。
そういうストレス以外に、体毛が抜け落ちていった原因は考えられない。
・・・・・・・・・・・・・・・
では、どうして女のほうがよりあからさまに抜け落ちていったのか。
ダーウィン先生のいう、体毛の少ない女が好まれたからだ、という説は、半分だけ当たっているが、それが根源的な契機ではおそらくない。
二本の足で立ち上がることによって、女の性器は股のあいだに隠されるようになったし、男の性器は外にさらされてしまった。そこで、たがいに見つめて見つめられる関係が発生した。
未開人の男のペニスケースはもっとも原始的な衣装のひとつだろうが、見つめられることの居心地の悪さから生まれてきたのだろう。その居心地の悪さを孔雀のようなデモンストレーションの道具に変えていったのがペニスケースだ。
そして女に対しては、猿のときのようにいきなり後ろからずぶりというわけにいかなくなり、探し当てて発情しているかどうか確かめなくてはならなくなった。
女だって、人類の体や脳が大きくなってくれば、子供に与える母乳も大量に必要なってきて、それとともに乳房が大きく目立つようになってきた。そして乳房が大きくなることは発情する年齢に達していることの証しだから、男はどうしても注目するようになる。
また、限度を超えて密集していれば、たがいの体臭をあからさまに感じるのは密集のうっとうしさを増すことになるから、人類の嗅覚はしだいに鈍磨していった。嗅覚が鈍磨すれば、メスの発情状態を確かめるすべはもう、見ることしか残っていない。
というわけで女は、時代を経るごとに、男以上に「見つめられる」ことのストレスを抱える存在になっていった。
まあそんなこんなで200万年前ころから人類の「見つめる」「見つめられる」という関係がますます濃密になってゆき、しだいに体毛が抜け落ちていったのだろう。
セックスが日常化していったのも、おそらくこのあたりからだろう。そうなれば、ますます「見つめる」「見つめられる」の関係もあからさまになってくる。
ともあれ人類の体毛が抜け落ちていった契機は、正面から向き合って親密な関係をつくってゆく、という生態を持っていたことにあるのだろう。
ダーウィン先生、それはちょっと違うのですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、もうひとつ大きな問題がある。
西洋人はなぜ肌が白いのか、ということ。
4万年前にアフリカからヨーロッパに移殖してネアンデルタールを滅ぼしていったアフリカ人(クロマニヨン)はそのころの氷河期の激烈な寒さによっておよそ1万年か2万年で肌を白くしていった、と研究者はいっている。
そうだろうか。
そんなかんたんに黒人が白人に変わるだろうか。
現在のエスキモーは、1万5千年前に北アメリカの極北の地に移住していったモンゴロイドの子孫であるが、彼らは白人に変わっただろうか。変わるはずがない。いまだにモンゴロイドのままだし、われわれ日本人よりもっと濃い色の肌を持っている。極北の地で暮らしても、雪焼けというのか、肌が白くなるとはかぎらない。
一年のうちの半分は太陽が出ない白夜が肌を白くしたといっても、ドイツやフランスは白夜ではないし、氷河期において白夜になるような地域は完全に氷に閉ざされて人間も動物も棲んでいなかったのである。
極北の地で暮らしたからといって、肌が白くなるとはかぎらない。
たった1万5千年くらいでは、モンゴロイドでさえ白人にはなれないのだから、アフリカの黒人がかんたんに白くなってしまうことなどありえないのだ。なるというのなら、なるという科学的証拠を示してもらいたいものだ。黒人だってたまに突然変異で真っ白な子が生まれることはあるが、それが群れ全体に及ぶという話は聞いたことがない。
・・・・・・・・・・・・・・・
とすれば、50万年前に北ヨーロッパに入植していったネアンデルタールの祖先たちは、最初から肌が白かったのかもしれない。
チンパンジーの毛を全部むしってしまったら、その下の肌はきっと真っ白だろう。
およそ150万年前ころからヨーロッパに入植していった人類は、そのあとから体毛が抜けていったのなら、肌は白いままのはずである。
アフリカ人は、体毛が抜け落ちていったころから森林の疎林化が加速し、サバンナを歩く機会も多くなって直射日光にさらされながら肌が黒くなっていったのだろう。
しかしヨーロッパに入植したものたちは、そういう体験をしないまま体毛を落としていった。
北ヨーロッパに入植した50万年前の時点でも、まだ体毛は完全には抜け落ちていなかったのかもしれない。そこから、大きく密集した群れをつくって「見つめられる」ことのストレスの強い暮らしの文化を発展させてゆき、すっかり体毛が抜け落ちていった。だから彼らは、白いままの歴史を歩むことになった。
原初の歴史は、北のほうが進化が遅れていた。だから、北の地にたどり着いてはじめて本格的に体毛が抜け落ちていったのかもしれない。
ヨーロッパ人は、進化論的に見て、後進的な人種の末裔である。だから男は他の人種以上に毛深いのであり、そのころ先進的だったアフリカ人の末裔であるのではない。
寒冷気候が彼らの肌を白くしたのではない。最初から白かったのだ。
ひとまずそういう仮説を立ててみたのだが、自信はありません。僕はすべてひとりで考えているから、他の人と対話をしたり議論したりして付き合わせるということをしていません。ほんとはちょっとだけ自信もあるのだが、正当な反論があれば、いつでも撤回します。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
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二本の足で歩いていれば、「自分=身体(足)」のことを忘れて、「今ここ」のまわりの景色や考えていることに夢中になってしまう。
人間の心は、自分を忘れてしまうようにできている。
逆に、けっして自分を見失わない人間は、「今ここ」を見ないで、いつも「未来」の自分を見ている。
認知症の徘徊老人がいる。
彼は、たえず変化してゆく「今ここ」のまわりの景色を眺めることなど忘れて、ひたすら歩くこと(自分=身体)に憑依している。だから、気がついたら自分がどこを歩いているのかわからなくなっている。わからなくてもいいのだ。彼の興味は、歩くこと(自分=身体)それ自体にある。永遠に歩き続ける。
近ごろは、歩くことは脳のはたらきを良くする、などといって、ただ歩くことそれ自体を目的化してしまう風潮があるが、それはちょっと違う。
人間にとっての二本の足で立って歩くことは、歩いていることを忘れてしまう行為である。
歩くことそれ自体が目的化すれば、かえって脳のはたらきが鈍くなって徘徊老人になってしまう。
二本の足で立って歩くことは、この世界の実在感をありありと感じることであり、そのようなかたちで自分を見失ってしまうことである。
自分を見失ってしまうことが人間性の基礎であり、それによって脳が生き生きとはたらく。
自分を見失わない、などという気取った生き方をしていると、そのうちボケ老人になっちまうよ。インポになっちまうよ。
歩くことは、歩いていることを忘れて「今ここ」のこの世界にときめいてゆくことであり、そのとき人は未来を目指したり予測したりすることを忘れている。
・・・・・・・・・・・・・・
ボケ老人は、自分の世界に入り込んでしまっている。自分に執着し、自分を見失わずに生きている現代人は、誰もがそうなる可能性を抱えている。
それが人間の自然というわけではないだろう。
直立二足歩行は、世界との関係の上に成り立っているのであって、「自分=身体」との関係に入り込んでゆく姿勢であるのではない。
現代社会においては、「自分を見失わない」とか「自分の世界を持っている」とか「孤独を知っている」とか、そういう「自意識=自我」を止揚してゆくことが人間のあるべきかたちであるかのようにいわれることも多いが、じつはそれこそが人間としての自然を失った勃起不全や認知症の契機になったりしている。
現代人が人間のスタンダードであるというわけでもないだろう。なのにどうして、自分や現代を物差しにして人間を語ろうとするのか。
人間は、根源において自分を見失っている。それこそが、人間であることの自然なのだ。直立二足歩行とは、「今ここ」の世界の実在感にいきいきと反応しながら自分を見失ってゆく姿勢である。
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人間は、世界を見つめている存在であって、自分を見つめているのではない。
世界を見つめているということは、自分もまた世界(他者)から見つめられているということだ。自分が見つめているのだから、とうぜん世界=他者だってこちらを見つめているに決まっている。
というわけで人間は、先験的に「見つめられている」という意識を抱えてしまっている。直立二足歩行をする猿であるかぎり、誰もこの意識から逃れられない。
小型ヨットによる世界初の太平洋単独横断を果たした堀江健一という人の話で、「太平洋ひとりぼっち」という映画があった。その中で、太平洋の真っただ中で主人公がデッキの上でパンツを履き替えようとしたのだがふと誰かに見られているような気がしてあわててキャビンの中に入ってゆく、というシーンがあった。
それくらい人間は、先験的に他者に見つめられてしまっている。
それは、自分が、自分を忘れて他者を見つめてしまう存在だからだ。
とすれば、「自分を見つめる」とは、自分が自分という他者を見つめている状態だといえる。そうやって自分の世界に入り込んでしまえば、他者から見つめられているという意識から逃れられる。
親やこの社会からの監視から逃れるためには、自分の世界に入ってしまうのがいちばんだ。
また、親やこの社会から見つめてもらっていないことの不満を解消するためにも、自分の世界に入り込んでしまうことをする。
「見つめられている」ということに耐えられない人間や、「見つめられている」という意識が希薄な人間は、自分を見つめることばかりするようになる。
現代社会は親や社会の監視がきついから、どうしても自分の世界に入り込みたがる人間ばかり生み出してしまう。
また、当然あるはずの「見つめられている」という視線の物足りなさに不満を抱えたものもまた、自分の世界に入り込んでその不満を解消しようとしてゆく。
どちらも、そうやって親や社会に翻弄されている。
しかし人間の「見つめられている」という意識の根源は、そういうところにあるのではない。それは、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることの実存的な不安であり、そういう状況の中におかれてあれば自分はもう他者を見つめずにはいられないし、だったら他者から「見つめられている」という意識からも逃れるすべはない。
そうしてその「見つめられている」事態に耐えようとして、二本の足で立ち上がっていったのだ。
他者を排除してその事態を解消しようとしたのではない。その事態に耐えようとして、二本の足で立ち上がっていったのだ。
したがって、自分を見つめながら、その事態を解消しようとしたり、その事態を喪失しているために見つめれられようとすることも、きわめて不自然なことなのである。
われわれは、自分を忘れて「すでに見つめてしまっている」し、「すでに見つめられてしまっている」のだ。そしてその事態を受け入れ、それに耐えようとするのが、直立二足歩行のコンセプトにほかならない。
受け入れないのも、それを欲しがるのも、不自然なのだ。
見つめられているという自覚がもてないのなら、意識は自然に自分の世界に向いてしまうし、見つめられたいとも願う。見つめられているのが人間の自然なのだから、その事態が得られないことはとても大きな不安になる。
そしてまた、耐え難いほどにがんじがらめに監視されてしまえば、それを排除して自分の世界に閉じこもってゆく。
そうやって人は、自分に執着しながら、しだいにこの世界や他者に対するいきいきとした反応を失ってゆき、インポになったり徘徊老人になったりしてゆく。
・・・・・・・・・・・・・・
監視がきついからといって、監視を排除することはできない。それはもう耐えるしかない。そうやって人は、「衣装」というものを生み出していったのだ。
衣装をまとえば、監視されながら、しかも監視から隠れていることができる。
衣装は、「見つめられている」ものであると同時に、見つめられることから隠れながら見つめられることに耐えていることのできるものでもある。
衣装は、見つめられるためのものではない「すでに見つめられている」ことに耐えるためのものである。
自意識丸出しでこれ見よがしの衣装ほど野暮ったいものもない。
しかしおしゃれな着こなしは、どうしても見られてしまうし、「すでに見られている」ことにみごとに耐えている。
他者に見られつつ他者の視線から隠れてゆくこと、これがおしゃれの醍醐味である。
見られたがることも、見られることを拒否することも、どちらも不自然なことであり、そうやって「自分の世界を持っている」と自慢しても、どちらも一種の自閉症なのだ。
自分のことなんか忘れてしまうのが直立二足歩行のコンセプトであり、人は、それほどに世界の実在感に憑依してしまっている。それが、「すでに見つめられている」という意識だ。
サルトルは「われわれは目の前のコップからも見つめられている」といったが、まったくそのとおりで、この居心地の悪さから人間的な文化が生まれてきた。それが、直立二足歩行をする人間の意識の習性であり、言葉や衣装の起源を語るときに人類学者たちはよく「知能」だの「象徴化の思考」だのというタームを持ち出して説明してくれるが、そういうことじゃないんだなあ。そんなことは言葉や衣装を生み出したことのたんなる「結果」であって、その「契機」は、二本の足で立っていることの居心地の悪さにある。すべては、そこからはじまっている。
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原初の人類が直立二足歩行をはじめた契機として、「生きのびるため」というようなパラダイムで語るべきではない。そういう未来に対する意識を断念して今ここに憑依してゆく、ある切実な状況があったのだ。
生き物は、今あるものでやりくりしようとするのであって、未来に向かってもっと大きな能力を獲得しようとする衝動などない。したがって、そういう目的で立ち上がったということはありえない。人類がそれによって何か新しい能力を得たとしても、それはあくまで「結果」であって、そういう能力を得ようとした衝動が「原因」としてあったと考えるのは不自然だ。
生き物に、能力を高めようとする衝動などない。今ここの既存の能力でやりくりしようとしているだけだ。
立ち上がろうとしたのではない、立ち上がるほかない状況からそうさせられただけのこと。
彼らにとって二本の足で立って歩くことは、新しい能力ではなく、潜在能力としてすでに持っていたのであり、その能力をやりくりして立ち上がっていっただけのこと。
そしてそれは、生き物として生きのびる能力を失う体験であったのであれば、それによって人間は、他の動物以上に「今ここ」に憑依して一喜一憂している存在になった。
未来を予測するとか生きのびようとするとか、そういうことは不自然で人間らしくないことなのだ。
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人間は「今ここ」に憑依する存在である。
二本の足で立って歩くことは、無限に「今ここ」を微分化し、一瞬一瞬を味わいつくすことである。それは、未来に向かう姿勢ではない。未来に向かうことを断念して人間は二本の足で立ち上がったのだ。
人間を生かしているのは「今ここ」に憑依してゆく力であり、未来を予測することばかりして生きていると、「今ここ」に対して鈍感になる。
「今ここ」に対して鈍感だから、未来を予測して生きねばならなくなる。
たとえば、現実世界のリアリティがうまく感じられなければ、体をうまく動かすこともできない。一瞬一瞬の身体と世界との関係がうまくつくれないし、うまく実感できなければもう、予測によって動いてゆくしかない。
体を動かすのに必要なのは、体の実在感ではなく、世界の実在感に対する感覚なのだ。体は、たんなる「輪郭」と把握しておけばいいだけのこと。直立二足歩行は、身体の実在感から解放される姿勢なのだ。息苦しいとか空腹とか痛いとか暑い寒いとか、身体の実在感から解放されようとするのが生きるいとなみであれば、直立二足歩行はそういう自然にかなっている。
身体はただ「輪郭」とだけ感じ、まわりの世界の実在感との関係で体を動かしてゆく。運動神経とは、身体の実在感を忘れながら、それと引き換えに世界の実在感をリアルに感じ取ってゆく能力のことである。
つまり、世界の実在感をリアルに感じ取るとは、「今ここ」に憑依して一喜一憂してゆく、ということだ。だから、未来を予測する余裕なんかないし、その必要もない。ひたすら「今ここ」の一瞬一瞬を感じながら生きている。そういう世界の実在感としての一瞬一瞬を感じ取ることができれば、体もうまく動くことができる。
運動神経とは、世界の実在感を感じる能力のことであって、体に動けと命令する能力のことではない。世界の実在感を感じ取れば、体は勝手に動いてくれる。
直立二足歩行によって人類は、身体のことを忘れ、「今ここ」の世界の実在感を生き生きと感じ取っていった。
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「今ここ」のこの世界の実在感を生き生きと感じ取っていれば、人間はむやみに未来の予測なんかしない。
未来の予測をするとは、「今ここ」に対する意識が希薄になったまま未来に憑依してしまっている状態のことである。それが、人間としての健康であるといえるのか。
直立二足歩行が「今ここ」に一喜一憂してゆく心の動きの上に成り立っているとすれば、原始時代の人と人のおしゃべりは、もっと感情豊かなものであったに違いない。古いやまとことばでも、それを「ことだまのさきはふくに」と表現した。要するに「おしゃべりの花が咲く国」といっているのだ。
女たちの井戸端会議こそ、根源的な人と人の会話のかたちなのだ。ことばは、そのようにして生まれてきたに違いない。
相手を説得しようとか、相手が何を言ってくるか予測するとか、そんな会話としてことばが生まれてきたのではない。人間は、直立二足歩行によって、そんな未来意識を得たのではない。
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現代人には、つねにフラットな感情のさまで話をする人がよくいる。その人は、「今ここ」に対するリアルな反応を喪失し、つねに相手を説得しようとしたり相手の次のことばを予測したりするという未来意識で話している。
しかしこういう人は、社会に出て出世する。けっして自分を見失わないで、人と駆け引きできる。だいたい、自分が人間のスタンダードだと思っているから、自分の物差しで他人のことも全部わかると思っている。わかると思うから、予測ができる。予測できる人間は、出世する。そして、自分の物差しに合わない人間なんか無視する。排除する。そんなやつは人間じゃない、と思っている。
彼は、自分の存在を認める相手だけを人間だとみなしている。だから、相手を説得しようとする。彼は自分の存在をこの世界にあらわそうとしている。あらわして、自分を確認する。自分を確認するためには、他者が必要である。自分を見つめている他者が必要である。見つめられることによって、はじめて自分がこの世界にあらわれていることを確認する。
彼は、けっして自分を見失わない。自分がこの世界にあらわれていることを確認するのが彼の生きるコンセプトなのだから、見失うはずがない。
彼の心の動きは、いつもフラットだ。
しかしねえ。
僕なんか、すぐ自分を見失って、夢中になったりおどおどしたりしてしまう。まったく、凡人だと思う、凡人は、みんなそうだ。
だから僕は、うそつきだ。凡人はみな、うそつきだ。嘘をついて隠れようとする。すぐわかる嘘を、その場しのぎについてしまう。
われわれには、そういう隠れようとする本能がある。
人間は、自分を消して隠れてしまう醍醐味を知ってしまったから、どうしても嘘をついてしまう。
ハーバード白熱教室のサンデル教授は、先日のテレビの番組で、嘘をつくこととつかない正義とどちらを取るか、というような講義をしておられた。
しかしそんなことをいっても、人間が嘘をつくことは、直立二足歩行に由来した本能的な心の動きなのですよ。
この教授は、すぐにこういう薄っぺらな問題提起をしてくる。そしてこういう問題を正義かいなかの物差しで考えることが「哲学をする」ことなんだってさ。アメリカの哲学者なんか、みんなこのていどなのかねえ。天下のハーバードで教えておられるのだから二流ではないのだろうが、考えることは三流ですよ、まったく。
原初の人類を生きのびさせたのは、追いかける能力でも逃げる能力でもない。
隠れる能力なのだ。
嘘をつく能力なのだ。
それが正義か否かなどとナンセンスなことを考える前に、人間はなぜ嘘をつくのかと問うていただきたいものだ。
隠れること、消えること、なにはともあれこの快楽が、人間を二本の足で立ち上がらせたのだ。
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「人類の未来」などという。
そういう未来を予測したり、あるべき未来のかたちを提出したりする言説が巷にあふれているが、それはそんなにも大切で尊いことなのだろうか。
僕は、未来なんかなるようになってゆくだけのことだと思うし、そんなことに興味もあまりない。
人間は二本の足で立ち上がることによって、未来を予測する能力を獲得し、それによって猿から分かたれた、といっている人もいる。人間性の本質は未来を予測することにあるんだってさ。
僕は、未来を予測したがることは人間の病理であって、特質でもなんでもないと思っている。
少なくとも、そんなことが直立二足歩行によって得た能力ではない。
人間の直立二足歩行は、体の軸をほんの少し前に倒すだけで、自然に足が前に出てゆく。もう、考えないでも歩ける。体が勝手に動いてゆく。そういう姿勢なのである。
その代わり、早く走ることも敏捷に動くこともできない。そういう生き物としての能力を支払って得た姿勢である。
未来のことを意識するなら、早く走ろうとするし敏捷に動こうともする。それはつまり、未来のことなんか忘れて獲得した姿勢なのだ。
未来のことなんか忘れて、今ここに憑依している姿勢である。
未来に向かって逃げることをやめて、今ここに隠れている姿勢である。
直立二足歩行は、早く走ることにも敏捷に動くことにも向いていない。ただもう歩くための姿勢であり、歩き続けるための姿勢である。
直立二足歩行は、体のことなんか気にしなくても歩ける。体(足)が勝手に動いてゆく。だから、歩いているあいだ、足のことなんか忘れて、今ここの景色を鑑賞したり物思いに耽ったりすることができる。
人間は、歩きながら「身体=自分」のことを忘れている。そうして、今ここの世界に憑依している。刻々と移り変わる今ここの景色や想念に憑依している。
目的地を予測してそのために動くのなら、走ったほうがいいに決まっている。しかし原初の人類は、そういう「逃げる」とか「追いかける」という未来に向かう行動を断念して、二本の足で立ち上がったのだ。
彼らは、未来を追いかけたり未来に向かって逃げるよりも、今ここに身を潜めて隠れた。これが、人間のもっとも基本的な習性なのだ。
人間は、猿よりももっと予測しない生き物なのである。
行き当たりばったりに、刻々と移り変わってゆく今ここに憑依しつつ、今ここに身を潜めて消えてゆこうとする生き物なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
人類が直立二足歩行をはじめたころ、アフリカにはモザイク状に小さな森が無数に点在していた。そしてそれらは、丈の高い木ばかりの熱帯のジャングルから低い木の林へとさま変わりしてきたもので、地上で暮らす猿にとっては、かんたんに木の実などが手に入って、その環境こそ楽園だった。そういう環境の変化とともに地上に下りてきた、のかもしれない。
しかし地球気候はさらにゆっくりと乾燥寒冷化の方向で変化してきており、そうした楽園の森もじわじわと縮小していった。
原初の人類はチンパンジーから分化した可能性が大きいが、チンパンジーと同じ森に共存することはできなかった。
両者の生態はあまりにも異質で、共存できず、人類はつねに追い払われていた。
森が豊かであったころはまだよかったが、しだいに縮小してゆけば、ライバルが進入してしてきて、そのつど追い払われることになる。
人間の群れは、テリトリーの境界を接して共存してゆくことができなかった。たがいのテリトリーのあいだに「空白地帯=空間」がないとやっていけない。だから、つねにじりじりと後退してゆくしかなかった。しかも、だんだん縮小してゆく森なのだから、ますます「空白地帯」を確保することができなくなり、けっきょくほかの森に移住してゆくしかなかった。
そうして200万年前ころには、人類が定住できる森はなく、さらに小さな茂みから茂みへと移動しながら暮らしてゆくしかなかった。
この動きとともに、アフリカを出て、やがて地球の隅々まで拡散してゆくことになる。
アフリカにはもう、人類が定住できる森はなかった。
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人類が、サバンナに放置された肉食獣の食べ残しの死肉を漁るようになったのは、200万年くらい前からだといわれている。それくらい森が貧弱になって、そういうものも食べないと生きていけないくらい事態が逼迫してきていたのだろう。また、森から森へと頻繁に移動してゆく暮らしをしていれば、途中でそういう死肉を見つける機会も増える。
死肉を見つけにサバンナに出てゆく、ということはしていなかったはずだ。それは、危険すぎる。何しろ人類に、逃げる能力はなかったのだ。
ただ、移動の途中の森の近くでそれを見つければ、みんなでそれを森に引きずり込んで食べる、ということはしていたかもしれない。
人類が火の使用をはじめたのは200万年前から20万年前まで諸説あるが、人類が寒い北の地で暮らすようになったのが50万年くらい前からのことで、火の使用もそのころか、せいぜい100万年前くらいからのことかもしれない。
200万年前には骨を砕いたり肉を削り取ったりする単純な石器があったらしいが、それくらいのことはチンパンジーでも思いつく。
チンパンジーだって森の子豚とか小猿を捕まえて食べることはあるが、、死肉漁りなどはしなかった。それは、森から出てゆくという習性を持っていなかったからだろう。
つまり、200万年前の時点では、チンパンジーのほうがまだ恵まれた暮らしをしていた。しかしそのころから人類は積極的に肉食をするようになってきて、体はチンパンジーよりどんどん大きくなっていった。
ともあれ、チンパンジーなどのライバルからも追い払われ、貧弱な森に身を潜めながら移動生活をするという暮らしから、人類の進化がはじまったのだ。
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そのころの人類にとってサバンナの中の小さな茂みは、暮らしの場であると同時に、ライバルや天敵から身を潜める場所でもあった。
人間は、つねにかくれんぼをして生きてきた。
隠れることこそ、直立二足歩行で得た能力だった。
隠れる場所まで歩いてゆくために必要なのは、歩く能力ではない。そんなことは四足歩行でもできる。しかし、歩いてゆくことを厭わないメンタリティは、直立二足歩行によってしか身につかない。それは、エネルギーの消費が少なく、歩いていることを忘れてしまえる歩き方だった。忘れてしまえるから、歩き続けることができる。
ふつう動物は、じっとしたまままわりの気配を察知してゆく。それは、歩いていると、歩くことに気を取られて意識を外に向けることが散漫になってしまうからだ。
しかし人間は、歩きながら、身体のことなど忘れて外の気配に意識を集中することができる。この能力があったからこそ、天敵の多いサバンナを横切ってゆくことができた。
また、そのとき、自分の身体のことを忘れているという恍惚もあった。これは、自分が自分から隠れているという状態である。すなわち消えることの恍惚。
直立二足歩行する人間は、本能的にかくれんぼの醍醐味を知っている。
それは、未来に向かって逃げることでも、未来を追いかけることでもなく、今ここに憑依して消えてゆく恍惚なのだ。人間性の基礎というのなら、そこにこそある。
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