僕も地震のことを書くことにしよう。
ちょっとね、それ以外の話をしたらいけないような雰囲気になってしまっているじゃないですか。良くも悪くも、われわれはそういう民族なんだよね。
それはともかく、
人間というのは怖がる生き物だなあ、と思った。
震源地近くの地域に比べれば、東京なんてたいしたことなかった。
それでも怖かった。
われわれは、その恐怖を共有した。
人間というのは、恐怖を共有している生き物だろうか。こういうことには、世界中が関心を寄せる。
どうして地震は怖いのだろう。
阪神淡路大震災を体験した人たちの多くも、「根源的な恐怖を体験した」といっておられる。
では、根源的な恐怖とは何か。
死の恐怖か。
たぶん、そういうことじゃない。
この人は死ぬことなんか怖くないのだろうな、というような人だって、阪神淡路大震災では、体の奥底にあるような恐怖を体験した、という。その心の傷からいまだに立ち直れない人だってたくさんいるらしい。
生き物が怖がるとは、どういうことか。
死ぬことじゃない。
死ぬかもしれない、と思うからじゃない。
そんなことじゃない。
そんな未来のことを予測するからじゃない。
生き物は、未来なんか予測しない。
「今ここ」のこの世界との関係を生きている。
ただもう「今ここ」が怖いのだ。
人は、この世界が実在することを信じている。
この世界の実在をありありと感じて生きている。
その信憑が揺さぶられるのだ。
自分が死ぬことが怖いのではなく、世界が崩壊することが怖いのだ。
自分が死ぬことではなく、心がなくなることが怖いのだ。
心は、この世界の実在を信じることの上に成り立っている。そういう心のあり方の根拠を崩されそうになるから怖いのだろう。
怖いとは、心が揺らぎ壊れそうになることだろう。そのことが怖いのだ。
心は、「今ここ」のこの世界に憑依している。
その「今ここ」のこの世界との関係が崩れそうになるから怖いのだ。
死んでしまう未来が怖いのじゃない。
自分の体が大切だからじゃない。
身体維持の本能、などという。そんなものは嘘っぱちだ。
直立二足歩行は、体のことを忘れてしまう歩き方である。人間は、体のことを忘れて生きている存在である。
地震が起きたとき、われわれは、体のことを忘れて怖がったのだ。そのとき、腹が減っていることも、肩が凝っていることも、頭が禿げていることも、自分がブサイクであることも、ぜんぶ忘れて怖がったのだ。
心は、世界との関係としてはたらいている。人間は、ことのほか世界との関係を深く切り結んで存在している。恐怖とは、その関係が壊れそうになることだ。
死にそうだから怖いんじゃない。そのときわれわれは、そんなことなど忘れて怖がったのだ。
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人間は、未来を予測する生き物か。
津波が来る、と予測した。そしてそれがどのていどものかを予測した。
しかし実際にやってきた津波は、人々の予測をはるかに超えていた。
予測して、まあこれくらいは大丈夫だろうというところろで行動した人は波に呑み込まれた。
なんだかわけもなく怖がってしまった人たちは、すぐに高台に避難して助かった。
人類は、予測の能力で生きのびてきたのではない。わけもなく怖がってしまう生き物だから生きのびてきたのだ。
逃げられると思った人は、波に呑み込まれた。
津波がやってきたら逃げられないとかんねんして高台に身を潜めた人は、助かった。
人類は、逃げる能力を磨いて生きのびてきたのではない。逃げられないと思いきり怖がり、隠れてしまうことによって生きのびてきたのだ。
怖がる能力が人間を生きのびさせ、怖がることを共有してより緊密な連携の能力を育ててきた。
今われわれは、怖がることを共有しながらひとかたまりになって連携している。
予測のつかない事態に置かれてあるという自覚を共有しながら連携している。
予測することは人間の能力ではあるが、本能ではない。本能は、怖がることにある。「今ここ」を怖がることによって連携してゆく。そうやって人間は生きのびてきたのだ。
そういう「弱さ」が人間的な連携の能力を育ててきたのであって、予測しようとする衝動によってではない。
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生き物は、身体を維持しようとする衝動によって生きているのではない、今ここのこの世界に憑依してゆくことによって生きてあるのだ。そのことがうまくできないと生きられれないし、怖がってしまう。
身体維持のためなら、人間は二本の足で立ち上がらなかった。
それは、動物としての身体能力を喪失し、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらすという、身体の危機に浸される姿勢である。人間はそういう「弱さ」を根源的に抱えているのであり、だからこそことのほか怖がる生き物になったし、ことのほかこの世界の実在感に憑依してゆく存在にもなった。そしてその怖がるという弱さと世界(=他者)に憑依してゆく心の動きを共有しながら、タイトで高度な連携をつくることのできる生き物になっていったのだ。
生き物は、身体維持という未来のために生きているのではない。今ここのこの世界の実在に憑依して生きているのだ。
そしてわれわれは先験的に身体の危機を生きているのだから、身体の危機が怖いのではない。また、なぜ身体の危機を生きられるかといえば、身体のことなど忘れているからだ。
われわれは身体の危機を支払って世界と関係を切り結んでいる。地震が起きると、その関係が崩れそうになるから怖いのだ。
原初、火山が爆発してふもとの住民が逃げようとしたのは、溶岩が流れてきて身の危険が迫っていることをを察知したからではない。彼らは、まだそんなことを体験していなかったし、そんなことを予測する科学的知識もなかった。それでも怖がった。彼らは、死ぬことなんか何も怖くなかったのに、それでも怖がった。彼らは、山が火を噴いて地響きを立てることそれ自体を怖がった。すなわち、「今ここ」のこの世界との関係が崩れてゆくことを怖がった。それこそが、彼らの生を脅かす体験だった。
生き物はそういうことを怖がっているのであって、死ぬことを怖がっているのではない。
生き物は、世界の実在感に憑依して生きている。それが、生き物の「生きられる意識」であって、身体を維持しようとする意識ではない。
そして人間は、ことのほか世界の実在感に憑依して生きている存在であるがゆえに、その意識が脅かされると、ことのほか怖がってしまうのだ。
人間は怖がる生き物であり、そのことが人間の歴史をつくってきたのであって、未来を予測する怖がらない人間の非人間的な知能がつくってきたのではない。
怖がるものたちの連携の上に人間の歴史がつくられてきたのだ。
今回の地震から、あらためてそう思った。人は、こういうときにこそ、人を信じ、人にときめいている。
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