原初の人類が直立二足歩行をはじめた契機として、「生きのびるため」というようなパラダイムで語るべきではない。そういう未来に対する意識を断念して今ここに憑依してゆく、ある切実な状況があったのだ。
生き物は、今あるものでやりくりしようとするのであって、未来に向かってもっと大きな能力を獲得しようとする衝動などない。したがって、そういう目的で立ち上がったということはありえない。人類がそれによって何か新しい能力を得たとしても、それはあくまで「結果」であって、そういう能力を得ようとした衝動が「原因」としてあったと考えるのは不自然だ。
生き物に、能力を高めようとする衝動などない。今ここの既存の能力でやりくりしようとしているだけだ。
立ち上がろうとしたのではない、立ち上がるほかない状況からそうさせられただけのこと。
彼らにとって二本の足で立って歩くことは、新しい能力ではなく、潜在能力としてすでに持っていたのであり、その能力をやりくりして立ち上がっていっただけのこと。
そしてそれは、生き物として生きのびる能力を失う体験であったのであれば、それによって人間は、他の動物以上に「今ここ」に憑依して一喜一憂している存在になった。
未来を予測するとか生きのびようとするとか、そういうことは不自然で人間らしくないことなのだ。
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人間は「今ここ」に憑依する存在である。
二本の足で立って歩くことは、無限に「今ここ」を微分化し、一瞬一瞬を味わいつくすことである。それは、未来に向かう姿勢ではない。未来に向かうことを断念して人間は二本の足で立ち上がったのだ。
人間を生かしているのは「今ここ」に憑依してゆく力であり、未来を予測することばかりして生きていると、「今ここ」に対して鈍感になる。
「今ここ」に対して鈍感だから、未来を予測して生きねばならなくなる。
たとえば、現実世界のリアリティがうまく感じられなければ、体をうまく動かすこともできない。一瞬一瞬の身体と世界との関係がうまくつくれないし、うまく実感できなければもう、予測によって動いてゆくしかない。
体を動かすのに必要なのは、体の実在感ではなく、世界の実在感に対する感覚なのだ。体は、たんなる「輪郭」と把握しておけばいいだけのこと。直立二足歩行は、身体の実在感から解放される姿勢なのだ。息苦しいとか空腹とか痛いとか暑い寒いとか、身体の実在感から解放されようとするのが生きるいとなみであれば、直立二足歩行はそういう自然にかなっている。
身体はただ「輪郭」とだけ感じ、まわりの世界の実在感との関係で体を動かしてゆく。運動神経とは、身体の実在感を忘れながら、それと引き換えに世界の実在感をリアルに感じ取ってゆく能力のことである。
つまり、世界の実在感をリアルに感じ取るとは、「今ここ」に憑依して一喜一憂してゆく、ということだ。だから、未来を予測する余裕なんかないし、その必要もない。ひたすら「今ここ」の一瞬一瞬を感じながら生きている。そういう世界の実在感としての一瞬一瞬を感じ取ることができれば、体もうまく動くことができる。
運動神経とは、世界の実在感を感じる能力のことであって、体に動けと命令する能力のことではない。世界の実在感を感じ取れば、体は勝手に動いてくれる。
直立二足歩行によって人類は、身体のことを忘れ、「今ここ」の世界の実在感を生き生きと感じ取っていった。
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「今ここ」のこの世界の実在感を生き生きと感じ取っていれば、人間はむやみに未来の予測なんかしない。
未来の予測をするとは、「今ここ」に対する意識が希薄になったまま未来に憑依してしまっている状態のことである。それが、人間としての健康であるといえるのか。
直立二足歩行が「今ここ」に一喜一憂してゆく心の動きの上に成り立っているとすれば、原始時代の人と人のおしゃべりは、もっと感情豊かなものであったに違いない。古いやまとことばでも、それを「ことだまのさきはふくに」と表現した。要するに「おしゃべりの花が咲く国」といっているのだ。
女たちの井戸端会議こそ、根源的な人と人の会話のかたちなのだ。ことばは、そのようにして生まれてきたに違いない。
相手を説得しようとか、相手が何を言ってくるか予測するとか、そんな会話としてことばが生まれてきたのではない。人間は、直立二足歩行によって、そんな未来意識を得たのではない。
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現代人には、つねにフラットな感情のさまで話をする人がよくいる。その人は、「今ここ」に対するリアルな反応を喪失し、つねに相手を説得しようとしたり相手の次のことばを予測したりするという未来意識で話している。
しかしこういう人は、社会に出て出世する。けっして自分を見失わないで、人と駆け引きできる。だいたい、自分が人間のスタンダードだと思っているから、自分の物差しで他人のことも全部わかると思っている。わかると思うから、予測ができる。予測できる人間は、出世する。そして、自分の物差しに合わない人間なんか無視する。排除する。そんなやつは人間じゃない、と思っている。
彼は、自分の存在を認める相手だけを人間だとみなしている。だから、相手を説得しようとする。彼は自分の存在をこの世界にあらわそうとしている。あらわして、自分を確認する。自分を確認するためには、他者が必要である。自分を見つめている他者が必要である。見つめられることによって、はじめて自分がこの世界にあらわれていることを確認する。
彼は、けっして自分を見失わない。自分がこの世界にあらわれていることを確認するのが彼の生きるコンセプトなのだから、見失うはずがない。
彼の心の動きは、いつもフラットだ。
しかしねえ。
僕なんか、すぐ自分を見失って、夢中になったりおどおどしたりしてしまう。まったく、凡人だと思う、凡人は、みんなそうだ。
だから僕は、うそつきだ。凡人はみな、うそつきだ。嘘をついて隠れようとする。すぐわかる嘘を、その場しのぎについてしまう。
われわれには、そういう隠れようとする本能がある。
人間は、自分を消して隠れてしまう醍醐味を知ってしまったから、どうしても嘘をついてしまう。
ハーバード白熱教室のサンデル教授は、先日のテレビの番組で、嘘をつくこととつかない正義とどちらを取るか、というような講義をしておられた。
しかしそんなことをいっても、人間が嘘をつくことは、直立二足歩行に由来した本能的な心の動きなのですよ。
この教授は、すぐにこういう薄っぺらな問題提起をしてくる。そしてこういう問題を正義かいなかの物差しで考えることが「哲学をする」ことなんだってさ。アメリカの哲学者なんか、みんなこのていどなのかねえ。天下のハーバードで教えておられるのだから二流ではないのだろうが、考えることは三流ですよ、まったく。
原初の人類を生きのびさせたのは、追いかける能力でも逃げる能力でもない。
隠れる能力なのだ。
嘘をつく能力なのだ。
それが正義か否かなどとナンセンスなことを考える前に、人間はなぜ嘘をつくのかと問うていただきたいものだ。
隠れること、消えること、なにはともあれこの快楽が、人間を二本の足で立ち上がらせたのだ。
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