「人類の未来」などという。
そういう未来を予測したり、あるべき未来のかたちを提出したりする言説が巷にあふれているが、それはそんなにも大切で尊いことなのだろうか。
僕は、未来なんかなるようになってゆくだけのことだと思うし、そんなことに興味もあまりない。
人間は二本の足で立ち上がることによって、未来を予測する能力を獲得し、それによって猿から分かたれた、といっている人もいる。人間性の本質は未来を予測することにあるんだってさ。
僕は、未来を予測したがることは人間の病理であって、特質でもなんでもないと思っている。
少なくとも、そんなことが直立二足歩行によって得た能力ではない。
人間の直立二足歩行は、体の軸をほんの少し前に倒すだけで、自然に足が前に出てゆく。もう、考えないでも歩ける。体が勝手に動いてゆく。そういう姿勢なのである。
その代わり、早く走ることも敏捷に動くこともできない。そういう生き物としての能力を支払って得た姿勢である。
未来のことを意識するなら、早く走ろうとするし敏捷に動こうともする。それはつまり、未来のことなんか忘れて獲得した姿勢なのだ。
未来のことなんか忘れて、今ここに憑依している姿勢である。
未来に向かって逃げることをやめて、今ここに隠れている姿勢である。
直立二足歩行は、早く走ることにも敏捷に動くことにも向いていない。ただもう歩くための姿勢であり、歩き続けるための姿勢である。
直立二足歩行は、体のことなんか気にしなくても歩ける。体(足)が勝手に動いてゆく。だから、歩いているあいだ、足のことなんか忘れて、今ここの景色を鑑賞したり物思いに耽ったりすることができる。
人間は、歩きながら「身体=自分」のことを忘れている。そうして、今ここの世界に憑依している。刻々と移り変わる今ここの景色や想念に憑依している。
目的地を予測してそのために動くのなら、走ったほうがいいに決まっている。しかし原初の人類は、そういう「逃げる」とか「追いかける」という未来に向かう行動を断念して、二本の足で立ち上がったのだ。
彼らは、未来を追いかけたり未来に向かって逃げるよりも、今ここに身を潜めて隠れた。これが、人間のもっとも基本的な習性なのだ。
人間は、猿よりももっと予測しない生き物なのである。
行き当たりばったりに、刻々と移り変わってゆく今ここに憑依しつつ、今ここに身を潜めて消えてゆこうとする生き物なのだ。
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人類が直立二足歩行をはじめたころ、アフリカにはモザイク状に小さな森が無数に点在していた。そしてそれらは、丈の高い木ばかりの熱帯のジャングルから低い木の林へとさま変わりしてきたもので、地上で暮らす猿にとっては、かんたんに木の実などが手に入って、その環境こそ楽園だった。そういう環境の変化とともに地上に下りてきた、のかもしれない。
しかし地球気候はさらにゆっくりと乾燥寒冷化の方向で変化してきており、そうした楽園の森もじわじわと縮小していった。
原初の人類はチンパンジーから分化した可能性が大きいが、チンパンジーと同じ森に共存することはできなかった。
両者の生態はあまりにも異質で、共存できず、人類はつねに追い払われていた。
森が豊かであったころはまだよかったが、しだいに縮小してゆけば、ライバルが進入してしてきて、そのつど追い払われることになる。
人間の群れは、テリトリーの境界を接して共存してゆくことができなかった。たがいのテリトリーのあいだに「空白地帯=空間」がないとやっていけない。だから、つねにじりじりと後退してゆくしかなかった。しかも、だんだん縮小してゆく森なのだから、ますます「空白地帯」を確保することができなくなり、けっきょくほかの森に移住してゆくしかなかった。
そうして200万年前ころには、人類が定住できる森はなく、さらに小さな茂みから茂みへと移動しながら暮らしてゆくしかなかった。
この動きとともに、アフリカを出て、やがて地球の隅々まで拡散してゆくことになる。
アフリカにはもう、人類が定住できる森はなかった。
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人類が、サバンナに放置された肉食獣の食べ残しの死肉を漁るようになったのは、200万年くらい前からだといわれている。それくらい森が貧弱になって、そういうものも食べないと生きていけないくらい事態が逼迫してきていたのだろう。また、森から森へと頻繁に移動してゆく暮らしをしていれば、途中でそういう死肉を見つける機会も増える。
死肉を見つけにサバンナに出てゆく、ということはしていなかったはずだ。それは、危険すぎる。何しろ人類に、逃げる能力はなかったのだ。
ただ、移動の途中の森の近くでそれを見つければ、みんなでそれを森に引きずり込んで食べる、ということはしていたかもしれない。
人類が火の使用をはじめたのは200万年前から20万年前まで諸説あるが、人類が寒い北の地で暮らすようになったのが50万年くらい前からのことで、火の使用もそのころか、せいぜい100万年前くらいからのことかもしれない。
200万年前には骨を砕いたり肉を削り取ったりする単純な石器があったらしいが、それくらいのことはチンパンジーでも思いつく。
チンパンジーだって森の子豚とか小猿を捕まえて食べることはあるが、、死肉漁りなどはしなかった。それは、森から出てゆくという習性を持っていなかったからだろう。
つまり、200万年前の時点では、チンパンジーのほうがまだ恵まれた暮らしをしていた。しかしそのころから人類は積極的に肉食をするようになってきて、体はチンパンジーよりどんどん大きくなっていった。
ともあれ、チンパンジーなどのライバルからも追い払われ、貧弱な森に身を潜めながら移動生活をするという暮らしから、人類の進化がはじまったのだ。
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そのころの人類にとってサバンナの中の小さな茂みは、暮らしの場であると同時に、ライバルや天敵から身を潜める場所でもあった。
人間は、つねにかくれんぼをして生きてきた。
隠れることこそ、直立二足歩行で得た能力だった。
隠れる場所まで歩いてゆくために必要なのは、歩く能力ではない。そんなことは四足歩行でもできる。しかし、歩いてゆくことを厭わないメンタリティは、直立二足歩行によってしか身につかない。それは、エネルギーの消費が少なく、歩いていることを忘れてしまえる歩き方だった。忘れてしまえるから、歩き続けることができる。
ふつう動物は、じっとしたまままわりの気配を察知してゆく。それは、歩いていると、歩くことに気を取られて意識を外に向けることが散漫になってしまうからだ。
しかし人間は、歩きながら、身体のことなど忘れて外の気配に意識を集中することができる。この能力があったからこそ、天敵の多いサバンナを横切ってゆくことができた。
また、そのとき、自分の身体のことを忘れているという恍惚もあった。これは、自分が自分から隠れているという状態である。すなわち消えることの恍惚。
直立二足歩行する人間は、本能的にかくれんぼの醍醐味を知っている。
それは、未来に向かって逃げることでも、未来を追いかけることでもなく、今ここに憑依して消えてゆく恍惚なのだ。人間性の基礎というのなら、そこにこそある。
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