二本の足で歩いていれば、「自分=身体(足)」のことを忘れて、「今ここ」のまわりの景色や考えていることに夢中になってしまう。
人間の心は、自分を忘れてしまうようにできている。
逆に、けっして自分を見失わない人間は、「今ここ」を見ないで、いつも「未来」の自分を見ている。
認知症の徘徊老人がいる。
彼は、たえず変化してゆく「今ここ」のまわりの景色を眺めることなど忘れて、ひたすら歩くこと(自分=身体)に憑依している。だから、気がついたら自分がどこを歩いているのかわからなくなっている。わからなくてもいいのだ。彼の興味は、歩くこと(自分=身体)それ自体にある。永遠に歩き続ける。
近ごろは、歩くことは脳のはたらきを良くする、などといって、ただ歩くことそれ自体を目的化してしまう風潮があるが、それはちょっと違う。
人間にとっての二本の足で立って歩くことは、歩いていることを忘れてしまう行為である。
歩くことそれ自体が目的化すれば、かえって脳のはたらきが鈍くなって徘徊老人になってしまう。
二本の足で立って歩くことは、この世界の実在感をありありと感じることであり、そのようなかたちで自分を見失ってしまうことである。
自分を見失ってしまうことが人間性の基礎であり、それによって脳が生き生きとはたらく。
自分を見失わない、などという気取った生き方をしていると、そのうちボケ老人になっちまうよ。インポになっちまうよ。
歩くことは、歩いていることを忘れて「今ここ」のこの世界にときめいてゆくことであり、そのとき人は未来を目指したり予測したりすることを忘れている。
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ボケ老人は、自分の世界に入り込んでしまっている。自分に執着し、自分を見失わずに生きている現代人は、誰もがそうなる可能性を抱えている。
それが人間の自然というわけではないだろう。
直立二足歩行は、世界との関係の上に成り立っているのであって、「自分=身体」との関係に入り込んでゆく姿勢であるのではない。
現代社会においては、「自分を見失わない」とか「自分の世界を持っている」とか「孤独を知っている」とか、そういう「自意識=自我」を止揚してゆくことが人間のあるべきかたちであるかのようにいわれることも多いが、じつはそれこそが人間としての自然を失った勃起不全や認知症の契機になったりしている。
現代人が人間のスタンダードであるというわけでもないだろう。なのにどうして、自分や現代を物差しにして人間を語ろうとするのか。
人間は、根源において自分を見失っている。それこそが、人間であることの自然なのだ。直立二足歩行とは、「今ここ」の世界の実在感にいきいきと反応しながら自分を見失ってゆく姿勢である。
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人間は、世界を見つめている存在であって、自分を見つめているのではない。
世界を見つめているということは、自分もまた世界(他者)から見つめられているということだ。自分が見つめているのだから、とうぜん世界=他者だってこちらを見つめているに決まっている。
というわけで人間は、先験的に「見つめられている」という意識を抱えてしまっている。直立二足歩行をする猿であるかぎり、誰もこの意識から逃れられない。
小型ヨットによる世界初の太平洋単独横断を果たした堀江健一という人の話で、「太平洋ひとりぼっち」という映画があった。その中で、太平洋の真っただ中で主人公がデッキの上でパンツを履き替えようとしたのだがふと誰かに見られているような気がしてあわててキャビンの中に入ってゆく、というシーンがあった。
それくらい人間は、先験的に他者に見つめられてしまっている。
それは、自分が、自分を忘れて他者を見つめてしまう存在だからだ。
とすれば、「自分を見つめる」とは、自分が自分という他者を見つめている状態だといえる。そうやって自分の世界に入り込んでしまえば、他者から見つめられているという意識から逃れられる。
親やこの社会からの監視から逃れるためには、自分の世界に入ってしまうのがいちばんだ。
また、親やこの社会から見つめてもらっていないことの不満を解消するためにも、自分の世界に入り込んでしまうことをする。
「見つめられている」ということに耐えられない人間や、「見つめられている」という意識が希薄な人間は、自分を見つめることばかりするようになる。
現代社会は親や社会の監視がきついから、どうしても自分の世界に入り込みたがる人間ばかり生み出してしまう。
また、当然あるはずの「見つめられている」という視線の物足りなさに不満を抱えたものもまた、自分の世界に入り込んでその不満を解消しようとしてゆく。
どちらも、そうやって親や社会に翻弄されている。
しかし人間の「見つめられている」という意識の根源は、そういうところにあるのではない。それは、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることの実存的な不安であり、そういう状況の中におかれてあれば自分はもう他者を見つめずにはいられないし、だったら他者から「見つめられている」という意識からも逃れるすべはない。
そうしてその「見つめられている」事態に耐えようとして、二本の足で立ち上がっていったのだ。
他者を排除してその事態を解消しようとしたのではない。その事態に耐えようとして、二本の足で立ち上がっていったのだ。
したがって、自分を見つめながら、その事態を解消しようとしたり、その事態を喪失しているために見つめれられようとすることも、きわめて不自然なことなのである。
われわれは、自分を忘れて「すでに見つめてしまっている」し、「すでに見つめられてしまっている」のだ。そしてその事態を受け入れ、それに耐えようとするのが、直立二足歩行のコンセプトにほかならない。
受け入れないのも、それを欲しがるのも、不自然なのだ。
見つめられているという自覚がもてないのなら、意識は自然に自分の世界に向いてしまうし、見つめられたいとも願う。見つめられているのが人間の自然なのだから、その事態が得られないことはとても大きな不安になる。
そしてまた、耐え難いほどにがんじがらめに監視されてしまえば、それを排除して自分の世界に閉じこもってゆく。
そうやって人は、自分に執着しながら、しだいにこの世界や他者に対するいきいきとした反応を失ってゆき、インポになったり徘徊老人になったりしてゆく。
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監視がきついからといって、監視を排除することはできない。それはもう耐えるしかない。そうやって人は、「衣装」というものを生み出していったのだ。
衣装をまとえば、監視されながら、しかも監視から隠れていることができる。
衣装は、「見つめられている」ものであると同時に、見つめられることから隠れながら見つめられることに耐えていることのできるものでもある。
衣装は、見つめられるためのものではない「すでに見つめられている」ことに耐えるためのものである。
自意識丸出しでこれ見よがしの衣装ほど野暮ったいものもない。
しかしおしゃれな着こなしは、どうしても見られてしまうし、「すでに見られている」ことにみごとに耐えている。
他者に見られつつ他者の視線から隠れてゆくこと、これがおしゃれの醍醐味である。
見られたがることも、見られることを拒否することも、どちらも不自然なことであり、そうやって「自分の世界を持っている」と自慢しても、どちらも一種の自閉症なのだ。
自分のことなんか忘れてしまうのが直立二足歩行のコンセプトであり、人は、それほどに世界の実在感に憑依してしまっている。それが、「すでに見つめられている」という意識だ。
サルトルは「われわれは目の前のコップからも見つめられている」といったが、まったくそのとおりで、この居心地の悪さから人間的な文化が生まれてきた。それが、直立二足歩行をする人間の意識の習性であり、言葉や衣装の起源を語るときに人類学者たちはよく「知能」だの「象徴化の思考」だのというタームを持ち出して説明してくれるが、そういうことじゃないんだなあ。そんなことは言葉や衣装を生み出したことのたんなる「結果」であって、その「契機」は、二本の足で立っていることの居心地の悪さにある。すべては、そこからはじまっている。
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