感想・2018年7月14日

<恥多き>


今どきはめまぐるしく移り変わる世の中だから、たえず現在の時代はどうなっているのかと気にしながら生きていかねばならない。
気にしなくてもいいのだが、気になってしまう。
戦後10年目ころにテレビが登場し、たちまち誰もがそれを欲しがるようになっていった。そこから、人々がむやみに時代の移り変わりを気にする傾向がどんどん加速していったのだろうが、もともと日本人は新しもの好きの伝統だからしょうがない。
「時代」という「表層」が目まぐるしく移り変わってゆく世の中で、そのことに対する報道や論評があふれている。そうやって人の心はますます浮足立ってゆく。
目まぐるしく移り変わってゆくように感じるのは、変わってゆく「表層」ばかり見ているからで、変わらない「深層=本質」だけを見ていれば、たぶんそう慌てることもない。


この前、川堤を歩いて幼稚園の子供の行列に出くわした。引率している先生は、おそらくまだ二十歳そこそこの若い娘だった。その先生が、みんなに向かってこういった。
「暑いねえ、でもすぐ秋が来て涼しくなるのよね」
子供たちは、誰も反応しなかった。とうぜんです。ひたすら「今ここ」の世界の出現に反応しながら生きている4歳の子供にとっては、去年の秋のことなどあるかなきかのはるか遠い昔のことだし、さらにその前の年の秋のことになれば、ほとんどもう記憶がない。
ともあれ今どきは、二十歳そこそこの若い娘ですら、時間が早く過ぎてゆくのを嘆きながら生きている。目まぐるしい時代の移り変わりに追い立てられながら、つねに未来のスケジュールを追いかけ、「今ここ」を喪失してしまっているからでしょう。
もしかしたらもう、中学・高校生だって「時間が過ぎてゆくのが早い」と嘆いている世の中かもしれない。
そしてマスコミや評論家たちも、時代の移り変わりを熱くさかしらげに分析しつつ、新しい次の時代を展望することによって民衆をリードしている。
そんなことばかりしていたら、人としての、「今ここ」を探求し「今ここ」に反応してゆく知性や感性がどんどん減衰してゆく。


まあ僕がネアンデルタール人論をはじめとする「起源論」にこだわるのは、べつに「昔のほうがよかった」とか「昔に還れ」とかといいたいのではない。あくまで「今ここ」に生きてあることの「本質=深層」が知りたいからです。
個人的な人生においても、還りたいほどの懐かしい過去など持ち合わせておりません。恥多き人生を生きてきて、これからもあれこれ恥をさらして生きてゆくだけでしょう。