近代精神という自縄自縛・神道と天皇(144)

先日亡くなられた西部邁氏に対しては、多くの右翼・保守思想家から「惜しむ声」が寄せられ、再評価の動きにもなっているのかもしれないが、僕としては、この人の仕事は「伝統=トラディション」という言葉を口癖にしていても、中身はちょっと気取った酒場談義というようなものではなかったかと思っている。
たとえば、小林秀雄にしても江藤淳にしても「もののあはれ」とか「無常」とか「やまとごころ」というようなことに関してはちゃんと一家言を持っていた。
しかし西部氏がそういうことについて熱っぽく語ることはなかった。もちろん専門が経済学者だからということもあるが、いつも欧米のオルテガとかトクヴィルとかの哲学者や思想家の言葉を引用して語るということばかりしていて、しょせんは大学の先生の語り口にすぎないのかという印象があった。
もちろん普遍的な「伝統とは何か」という問題はあるに違いないが、その前にまず、この国の歴史や伝統について深く掘り下げて語ってもらいたかった。たぶん、そのように特化して語れば専門の研究者からの批判にさらされるということで、そこから逃げていたのかもしれない。
しかしそれではだめだと思う。たとえ自分の専門外であっても、「伝統」を標榜するかぎりは、既存のフレームワークでしか考えられない凡庸な研究者に対しては、「彼らは何もわかっていない」といえなければならない。
小林秀雄だって、古典文学の研究者でも哲学者でも歴史学者でもなかった。
日本列島の精神風土の伝統は、「フレームワーク」を持たないことにある。
西部氏は、終戦直後の「パンパン」や「オンリー」や「ギブ・ミー・チョコレート」の風俗を「日本人としての誇りを失った無節操」と断罪したのだが、そういう言い方そのものがステレオタイプな「既存のフレームワーク」でしかない。
日本列島には「フレームワーク」がないのだから、とうぜんそのような風俗も生まれてくる。「日本人としての誇り」なんかないのが日本人なのだ。「日本人である」という自覚はあっても、「誇り」なんかない。
彼がほんとうに日本列島の伝統をちゃんと理解していたかはあやしい。彼のいう「日本人としての誇り」は、もしかしたら「大和魂」というより「道産子魂」というようなものだったのかもしれない。

西部氏はオルテガの「大衆批判の思想」に強く影響を受けたといわれているが、もっとも大衆を蔑視しているのはじつは大衆自身であり、多くの大衆が「自分だけは違う」と思っている。つまり、そうやって「ネトウヨ」がはびこっているわけで、彼はそういう時流に乗っていった。いや、乗ろうとしたわけではないだろうが、けっきょくそういうレベルの思考だったのだろう。
人の品性のレベルは、知能とは関係ない。まあ知能の質としても、つねに「決定=解答」を欲しがって、それを保留したままさらにその先へと「探求」してゆくことはできない人だったのではないだろうか。
「決定=解答」を保留できないのは近代合理主義の病理であり、彼もまたそういう時代の潮流に呑み込まれていったひとりであるのかもしれない。
とはいえここで西部氏の批判をしたいわけではない。現在はなぜそういう世の中の仕組みになっているのか、ということが知りたいのだ。
ひとまず学校教育そのものにおいて答えを知っていることが知能の高さのように合意されている社会であるわけだが、「答えを出す」ということは「裁く」ということだろう。西部氏だって、けっきょく「答えを出す=裁く」ということばかりしていたわけで、その裁き方が上手だったから人気を博していた。「俺はそのへんのバカな大衆とは違う」ということは、多くの大衆が欲しがっている答えだった。まあいくら言い方が上手でも、そうやって彼もまた、時代=社会に踊らされながら「バカな大衆」のひとりに成り下がっていた。
小林秀雄は「現代人は鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていない」といったが、大衆批判をするのは大衆自身であって、ほんらいの知識人は大衆を畏れるか無視するかの態度になる。
無常とは、決定できるものも裁くことができるものも何もない、ということでもある。
決定し裁くことによって、ひとまず「未来」に対する不安は消える。そうやって人は、というか現代人は、無常ということに抗って「未来」を引き寄せようとする。
現代人は、未来が不確定であることに耐えられない。そのようにして西部氏もまた、「無常ということ」がわかっていなかった、鎌倉時代の生女房ほどにも。

僕は西部氏を嫌っていたわけではないが、その死を美化するつもりはない。
晩年の西部氏は、「絶望している」というのが口癖になっていった。何に対して絶望していたのか?まあ、人類の世界に対して、ということだろうが、体が思うようにならなくなってきた自分の未来に対しても、ということもあったのだろう。老残をさらしたくない、ということだろうか。だからそのときは自裁する、と前々から公言していた。
しかし、老残をさらしたくない、というそのナルシズムはいったいなんなのか。それは、自分にとっては屈辱かもしれないが、まわりの他人にさげすむ気持なんかほとんどない。ましてや西部氏は、まだまだ酒場通いができていたし、そこで仲間と議論しても負けなかった。
「俺は絶望している」だなんて、何を気取ったことをいっているのか。だったら、絶望を生きてみせればいいだけではないか。
老残をさらして生きることの味わいだってある。しかし彼にはその不幸に耐える自信がなかったし、その不幸が見えすぎるくらい見えていた。変ではないか。先のことなんかわからないではないか。出たとこ勝負で生きてゆけばいいだけではないか。あなたがみじめに生きたって、誰も責めたりはしない。
この世は無常、未来を先取りすることなんかできないと思い定めるなら、もはや運命に身をまかせるしかない。
みじめに生きたらいけないと、いったい誰が決めたのか。みじめに生きることの味わいというものがあるし、そこでこそ見い出される日本列島の伝統もある。
西部氏の死は、自意識過剰で自爆しただけじゃないか、ともいえる。それによって後追い自殺した老人が、はたしてどれだけいただろうか。いなくて、とうぜんさ。あんな自意識過剰が流行しても、世の中はろくなことにならない。
何もあんな風に見せびらかすような死に方をしなくても、ひっそりと山の中に入って消えてゆくように死んだ方が、ずっと日本的だろう。姥捨て山みたいに。
姥捨て山は、骨になってから埋葬するという縄文以来の「もがり」の習俗の延長として生まれてきた。死体を山に放置しておいて、骨だけになったころに拾いに行く。
僕の知り合いに、ふだんの装いのまま真冬の蔵王の山にふらりと入っていった人がいて、半年後の夏に白骨死体が見つかった。これなんか、まさに「もがり」そのものではないか。彼はインテリで「もがり」のことも知らなかったかもしれないが、無意識のところでこの国の伝統を身体化していた。
中世の隠遁だって、「もがり」の習俗の延長だともいえる。
自殺する人なんか世間にいくらでもいる。べつに西部氏だけが偉いわけでもなかろう。ましてや、入水の死に方を二人のシンパに手伝ってもらっていたとか、三島由紀夫同様、自意識の強い人たちはいつも人騒がせなことをしてくれる。
自意識過剰なんて、日本列島の伝統でもなんでもない。彼がどれほど日本列島の伝統を心得ていたか、ほんとうにあやしい。

西部邁氏は、ようするに高級なネトウヨだった、ともいえる。自意識過剰の目立ちたがり屋で、伝統を声高に叫ぶわりに伝統のことをなんにもわかっていない。百田尚樹櫻井よしこも、西部氏より下品だが、まあ同じ穴の人種だろう。
今どきは右翼保守の政治オタクは商売になるからそういう人種がどんどん増えているし、若いインテリの中にもそれで売り出そうとしている連中がたくさんいるらしい。
しかし、はたしてこの潮流がいつまで続くことか。彼らがほんとうに日本列島の伝統を体現しているのなら安泰だろうが、いずれ伝統それ自体によって淘汰される日が来ないとも限らない。日本列島の精神風土に照らし合わせて考えれば、あんな自意識過剰の鬱陶しい連中がいつまでも持ち上げられているはずがない。正しいか否かということなどたいした問題ではない。魅力的かどうかということ、民衆の気分はそのことに向かって流れてゆく。
安倍晋三は、高齢層(とくに女たち)からどんどん嫌われていっている。未来を担う10代20代の若年層から支持されているといっても、彼らだって歳を取れば心模様も変わってゆく。伝統の水に洗われ変わってゆくのだ。
高齢者はもうすぐ死んでゆくのだからこの国の未来とは関係ない、ともいえない。それがそのままこの国の未来のかたちであるのかもしれない。
現在の若者たちは「伝統」に憧れている。だから保守右翼に人気があるのかもしれないが、その保守右翼のオピニオンリーダーたちは伝統とは何かということがまるでわかっていないという「ねじれ」の状況がある。西部邁百田尚樹櫻井よしこもまるで伝統のことがわかっていないのに、彼らがその体現者であるかのようにもてはやされている。ほんとうに伝統を体現している姿は、右翼保守を嫌う高齢者の女たちの「無意識」にこそある。この国は今、伝統を見つけたいのに見つけられないという、なんとももどかしい「ねじれ」の状況に置かれている。
そうして伝統の水は今、少しずつ少しずつ自意識過剰で無知な右翼保守を洗い流しはじめている。日本列島の住民は、醜悪なものに耐えられるような民族ではない。
ひとまず世界的には、歳を取ればとるほど保守的右翼的になってゆく、というのが相場だろうが、現在のこの国は逆になっている。現在のこの国の女たちは、歳を取ればとるほど伝統の水に洗い流されながら、醜悪な右翼が嫌いになってきた。
なんのかのといっても女にリードされながら流されてゆくお国柄であり、それが伝統なのだ。

もちろん先のことなど誰にもわからないが、少なくとも日本列島の民衆社会においては、醜悪な右翼がいつまでものさばっていることなんかあり得ない。醜悪な正義よりも、正義なんか知らないという愚かさこそが民衆社会の伝統であり、それは正義よりももっと「神聖=清浄」なものを知っているからだ。
女は「許す」存在であり、そんな女たちにリードされながら「裁く」ことをしない歴史を歩んできたのが民衆社会の伝統なのだ。たとえ「裁く」ことが文明社会の属性であるとしても、民衆社会では「許す」という伝統が守られてきたのであり、そうやってダメ男とくっついてしまう女がいる。
まあ、ダメ男とくっついてしまう女がいなければ、「少子化」なんか解消できない。そんなふうに世の中が混沌としていった方が、日本列島らしいともいえる。その混沌の中で連携し助け合ってゆくのが民衆社会の伝統であり、混沌がなければ連携し助け合う動きは起きてこない。
日本列島では、権力社会とは別の民衆社会だけの文化が機能してきた。それは、民衆にとってのよい国家=権力社会などというものはない、ということを意味する。どんな政治制度であろうと、それはあくまで民衆を監視し支配しているシステムなのだから、存在そのものにおいて疎ましい対象でしかない。
日本列島の民衆社会には、よい国家を構想するというような伝統はない。国家とは無縁の文化こそ伝統なのだ。
右翼は戦前の国家体制を正当化しようとするし、左翼はそれを間違っていたと糾弾する。彼ら政治オタクたちの、その国家について語ろうとするあくなき欲望と情熱はいったいどこから湧いてくるのか。普通の日本人なら、国家そのものに対する関心が希薄だから、そんなことをいちいち考えるのはめんどくさい。
過ぎたことはなかったも同じだし、未来もまた存在しないと思い定めている。「今ここ」があるだけ、それが無常ということ。過去にこだわるのも未来を先取りしようとするのも「自意識」のなせるわざで、そんな自意識の自縄自縛からの解放として、「無常感」が日本列島の精神風土として定着していった。
西部氏の自殺だって、つまるところは近代精神という名の自意識による自縄自縛の範疇かな、と思わないでもない。