生きられなさを生きる覚悟・神道と天皇(44)

ここでは、「日本」とか「日本人」という言葉はなるべく使わないようにしている。べつに右翼でもないからそんな言葉に愛着はないし、ひとまず「日本列島」とか「日本列島の住民」ということにしている。
僕だって伊勢生まれのまぎれもない日本人ではあるが、日本人であることをことさら意識しているわけではないし、そんなことを誇りに思ったことなど一度もない。ただ、日本列島に生まれ育ったことの限界と可能性について考えたいだけだ。そうしてそのことの足掛かりとして神道天皇について考えるとき、今どきの右翼の論客から学ぶことなんかほとんどない。
僕はべつに、神道オタクでも天皇オタクでもない。
かといって、今どきの左翼思想を声高に合唱する人たちに対するシンパシーもさらにない。
政治なんかに興味はない。
神道は、政治とも宗教とも無縁のところから生まれてきたのだ。
藤原定家は「紅旗征戎わがことにあらず」といったが、それがこの国の和歌の伝統であり、神道の伝統でもある。
日本列島の住民は、基本的には政治にも宗教にもあまり興味がない。ただ、祭りや芸能が好きなだけだ。なぜそんなにも祭りや芸能が好きかといえば、もともと政治も宗教も存在しない風土の歴史を長く歩んできたからだ。縄文時代から仏教伝来のころまでの1万年を、政治や宗教とは無縁に祭りや芸能の文化だけを洗練発達させてきたからだ。
いや学問だって、日本列島では「紅旗征戎わがことにあらず」の精神とともに活性化してきた。江戸時代の識字率は、世界でトップだった。あのヨーロッパでさえいまだに字が読めない人が少なからずいるというのに、この国ではほとんど皆無といってよい。
人は、信仰さえあれば生きてあることにさして不足は感じない。その充足感こそ心が停滞してゆくひとつの原因にもなっているわけで、死んだら天国に行けるとわかっているのなら、死について何も考える必要がない。宗教は、人としての根源的な問いのすべてを解決してしまっている。それは、人からものを考える契機(モチベーション)を奪っている、ということだ。
しかしこの国ではそうした宗教風土が希薄だから、生きてあることはあくまで心もとないことであり、それと引き換えにして祭りや芸能や学問に対する好奇心(モチベーション)が募ってくる。
学問だって、ひとつの祭りであるのかもしれない。祭りも学問もいつ死んでもかまわないという勢いというか覚悟でやるものだし、そこにこそ人間性の自然がある。その勢い=覚悟とともに心や命のはたらきが活性化し、人類の知能と身体は猿のレベルを超えて進化してきた。
日本列島の住民の識字率の高さは、宗教的な風土が希薄であることに由来するのかもしれない。その、字を覚えようとするモチベーションの高さは、極端な言い方をすれば、神道によって担保されているのかもしれない。ともあれ神道を生み出してしまうような歴史風土があったわけで、それは宗教が存在しない風土から生まれてきたのであって、宗教(アニミズム)を基礎にしてそのようなかたちになるということは論理的にありえない。神道なんて、なりそこないの宗教であって、もっとも発展した宗教というわけではない。発展した宗教であるのなら、仏教なんかいらない。
神道の「神(かみ)」は、権力者が望むような、この生に充足を与えてくれる対象として生まれてきたのではない。民衆における、この生の心もとなさというか生きられなさを生きるためのよりどころとして祀り上げられてきたのだ。この生の心もとなさにこそ、この生を活性化させるモチベーションが宿っている。
そのとき日本列島の住民はこの生に充足してしまうわけにいかなかったというか、充足できるような環境もメンタリティも持ち合わせていなかった。まあ異民族に侵略される心配のない土地柄であれば、「生きてあるだけでありがたい」と思えるほどのせっぱつまった状況もなかった。
生きてあることがそんなに素晴らしいのか、生きてあることに充足するなんて嫌なこった、何はともあれこの世の森羅万象は移ろい流れてゆく……という気分とともに神道が生まれてきた。

そのとき民衆には、民衆なりの生きてあることに対する「覚悟」があった。だから、そうかんたんには仏教にまるごと染め上げられてしまうわけにはいかなかった。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、いわば「覚悟」の問題でもあった。それによって生き延びる能力が増大したわけではなく、俊敏に動くことができなくなって、逆に猿よりも弱い猿になってしまったのだ。それでも立ち上がったのだから、それはもう「覚悟」の問題だというしかない。まあ、それによって猿よりも豊かにときめき合う関係の集団になり、その圧倒的な繁殖力によって生き残っていった。猿よりも弱い猿としてどんどん死んでいったが、それ以上に繁殖していった。また、猿よりも弱い猿だったから、アフリカ中央部のジャングルという楽園の住処を追われてどんどん地球上に拡散していった。そしてそのときもまた、新しい土地の「住みにくさ=生きられなさ」を受け入れる「覚悟」なしにできることではなかった。
文明社会の歴史においても、民衆が権力者の支配を甘んじて受け入れてきたことだって、人間性の自然として「生きられなさを生きる」という「覚悟」を持っていたからに違いない。
人類史の進化は、「生きられなさを生きる」という「覚悟」の上に実現されていった。命のはたらきも心のはたらきも、そこから活性化してゆく。
そこにとどまっていられないから、そこから動いてゆく。目的があって動いてゆくのではない。人は、生きられなさにせかされて生きている。
まあ現代人は「欲望」という目的を紡ぎながら生きているわけだが、それは「生きられなさ」というせかされる契機を失っているからであり、「生きられなさを生きる」だけの「覚悟」を失っているからだ。
あくなき欲望の追求は、一見ダイナミックな生のかたちのようだが、欲望の実現の機会や能力を失ってしまえば、その生はたちまち停滞・衰弱してゆくほかない。それはもともと欲望の対象に引きずられているだけで、自発的な動きの契機を持っていない。欲望を追求しながらすでに停滞・衰弱しはじめている、ともいえる。
欲望は、けっしてこの生を活性化させない。
この生は、「生きられなさを生きる覚悟」とともに活性化してゆく。
恋愛やセックスは、本質的には「もう死んでもいい」という勢いの「生きられなさを生きる」行為であり、その行為に臨んで人は自然に「生きられなさを生きる覚悟」をしている。
人は、海の中では生きられない。とすれば、海水浴の楽しみだって、「生きられなさを生きる」覚悟の上に成り立っている。遊園地のジェットコースターも、ひとまずそうした行為だといえる。
いやもう、呼吸をすることをはじめとして、この生のいとなみそのものがこの生のエネルギーを消費して死に近づいてゆく行為であるのだから、そういう「覚悟」なしには成り立たないのだ。
この生は、「覚悟」の上に成り立っている。「もう死んでもいい」という「覚悟」が、人を生かしている。

「死んだら天国に行ける」とか、「死後の世界がある」などという空想をするのは、この生のエネルギーを使い果たして消えてゆくという「覚悟」がないからだし、死にそうになってそんな世界を見たといっても、まだ生きているから見るだけのこと。われわれはもう、すでに宗教によってそういう世界のことを頭の中に埋め込まれてしまっている。また、意識は身体(=脳)の外ではたらいているのだから、あくまでこの生の現象として「幽体離脱」を体験したりもする。
人の心は、どんなにがんばっても「生と死のはざま」までしか行けないのであり、「死」そのものを体験することはできない。そしてこの生のいとなみというか、この命のはたらきは、「生と死のはざま」で活性化する。だが現代人の心は、「生命賛歌」に居座り「死の恐怖」を抱え込んだまま、そこに立つ「覚悟」をすでに失ってしまっている。安楽に生きられる世の中だからしょうがないのかもしれないが、それだけですむはずもなく、それによって心が停滞・衰弱してしまっているという現実やそれに対する反省もとうぜん生まれてくる。
貧富の格差ばかりが問題にされるが、魅力的な人と醜い人やなんの魅力もない人との格差というのも、ずいぶん大きくなってきている。人間というか文明人の愚劣さが露出してきている時代だともいえる。
われわれは、どうしてこんなにも人間にうんざりしないといけないのか。自分もまた愚劣だからそれでいいというわけにはいかない。なるほど自分も愚劣になって他人の愚劣さに鈍感になれば生きやすいだろうが、それでもこの世の中には心にしみるような美しい人は必ずいるし、そういう存在に対する引け目や負い目は必ずついてまわる。人類はすでに理想を持ってしまったし、理想を追い求めることをけっしてやめない。呑気で愚劣な人間ばかりの世の中になれば呑気で愚劣な人間でいても一向に差し支えないが、そうなればなるほど美しく魅力的な人に対する憧れはいっそう切実になるし、呑気で愚劣な人間どうしが目くそ鼻くそで差別し合うようにもなる。
誰もが命を懸けた恋や冒険をしなくなる世の中なんか、来るはずがない。命も心も、生と死のはざまで活性化する。生きてあることそれ自体がひとつの冒険だともいえる。

仏教伝来のそのとき、日本列島の住民は、この生とは何か、この世界とは何か、という問題とあらためて向き合う体験をさせられた。われわれ現代人だって、親しい人の死やみずからの不幸を体験したときには、避けがたくそういう問題と向き合わされる。いや、生きてある一瞬一瞬がそういう体験だともいえる。
それは、人類の歴史の中に身を置く体験でもある。そうして、いやおうなく人間性の自然・普遍という問題と向き合わされる。そこにおいて人々は、仏教に対する違和感を抱いた。彼らの歴史の無意識が、避けがたく違和感を抱いた。もともと死がさほど怖いわけではなかったのだし、救済なんかいらない、これからも死と生のはざまに立って生きていたい、という覚悟を再確認していった。彼らは死に対する親密さを生きていたのであり、「みそぎ」としてのその「消えてゆく」ことのカタルシスを手放すわけにはいかなかった。「死んだら何もない黄泉の国に行く」とか「神は隠れている」とか、それらの神道的な原イメージは、「消えてゆく」ことのカタルシスとともに見い出されていった。
何はともあれそのとき日本列島の住民は、「この生とは何か?」とか「人間とは何か?」とか「この世界とは何か?」という問題を、避けがたく深く根源的に思考していったのだ。
現代人にそんな能力はない。すでにその「覚悟」を失っているから。
幸せを追い求めることと理想を追い求めることは違う。現代人には理想を追い求める「覚悟」はない。だから今どきの大人たちはみすぼらしい顔つきをしていて、インポや認知症になりやすい生のかたちになってしまっている。
深く思考するとか、魅力的な人間になるとか、つまり心が活性化するとは、「生きられなさを生きる」という「覚悟」の問題なのだ。そしてそのような「覚悟」は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにもっとも深く確かに宿っている。それはまあ現代においても古代においても同じであるし、原始人や古代の民衆の知能が現代人よりも劣っていたということもないわけだが、歴史的に彼らは現代人よりもずっと「生きられない弱いもの」として存在しており、それは、現代人よりもこの生の本質に向かってずっと深く思考していたということを意味する。古代人の、その「生きられなさを生きる覚悟」とともに神道が生まれてきた。
彼らには人間性の自然・本質としての「覚悟」があった。
でも我々は、それを失いかけている。
「覚悟」のない思考も生も貧弱だ。