落とし前をつけるということ・神道と天皇(11)

神道よりも先に祭りの場としての神社があったことは現在の日本史の常識で、仏教伝来から古事記の成立までのおよそ100年のあいだに、それぞれの神社が「祭神」を祀るようになっていったのだろう。その全国の祭神が奈良盆地に集められて古事記の話になっていった。
仏教伝来とともに、まず民衆に対する布教活動がなされた。お寺を建てて、朝鮮半島から輸入した仏像を置き、集まってきた民衆に仏教説話を聞かせた。そのとき民衆はなぜか、ありがたい仏の徳よりも、仏の弟子である神たちのバラエティに富んだキャラクターに惹かれていった。たとえば阿修羅という神は、もともと自分の子供さえ食べてしまうようなあらくれものだった。ほとんどの神たちがそういうあらくれものだったわけで、そういう話に興味を持った。神道の神はもともと「荒ぶる神」だったという説があるが、あながち嘘でもないのかもしれない。奈良時代には、十二神将とか、本尊の如来のまわりに荒ぶる神たちの像を並べるのが流行った。
おそらくそのとき民衆のあいだでは、「仏」という言葉よりも「神」という言葉のほうが先に広がっていった。日本中に広がっていった。もちろん最初は漢語読みで「しん」とかといっていたのだろうが、いつの間にか「かみ」と言い換えるようになっていった。
「かみ」という言葉は、もともと日本列島に「神」という概念が存在しなかったことの証明になっている。
「かみ」は「かむ」の体言。もともと日本列島に「神」という概念が存在していたのなら、神専用の呼称があったはずだ。なかったから、既成の言葉の中からもっともしっくりくる言葉を選び出していった。それが「かみ」だった。
「かむ」とは、「気づく」とか「納得する」というようなニュアンスの言葉であり、食い物を「噛む」ことは、食い物の味に気づくことだ。そうして、違うかたちのものがぴったり合わさることを「かむ」ともいう。
神は、仏の徳に気づいて仏に帰依していった(=仏との関係がかみ合わさっていった)ものたちだから、それはもう「かみ」と呼ぶのがもっともしっくりしている。
「神(かみ)」という言葉は、もともと日本列島にあったのではなく、仏教の「神」を呼ぶ名として生まれてきたのだ。そしてそういう神々のキャラクターをアレンジしながら古事記の神が生まれてきた。
というか、その「かみ」という名が全国に広がってゆき、もともとたんなる祭りの場でしかなかったそれぞれの地域の神社が「祭神」を持つようになっていった。祭りの神だから「祭神」というのだ。それはべつに「創造主」でも「救世主」でもなかった。たんなる「祭りのシンボル」だった。
どうやら、そういうことが全国的に流行していったらしい。そしてそういう神々が奈良盆地に集められて、『古事記』の物語になっていった。集めたのは、おそらく大和朝廷ではなく、全国から奈良盆地に集まってきた民衆だったのであり、民衆どうしが語り合ってそのもとになる神々の話が生まれていった。

たとえば、「泣きわめくあらくれもの」というキャラクターの「スサノヲ」はもともと南紀地方の神だったわけだが、それはその地方の雨の多さと荒れ狂う海を象徴している。その自然に対する畏れが神のイメージになっていった。
「スサノヲ」の「すさ」は、「荒(すさ)ぶ」の「すさ」。「す」は「擦る」、「さ」は「裂ける」、心がしっちゃかめっちゃかになってしまうことを「すさぶ」という。「を」は、「うおう!」と大げさに驚く音声。強調の「を」。「スサノヲ」という名前そのものが、そのキャラクターをあらわしている。
まあ、そのとき人々は、そうやって自分たちの地域の自然を受け入れ自然と折り合いをつけていこうとしていたわけで、そうやって「スサノヲ」という祭りのシンボルとしての神が生み出されていった。そうして、彼らにとっては自然それ自体が神だったのであり、その上の「自然をつくった神」などは念頭になかった。
古事記は、「神がこの世界をつくった」とはいっていない。「この世界の混沌の中から神があらわれてきた」というかたちで物語がはじまっている。
最初の神々の登場は、この世界の万物がつくられてゆく過程でもあった。神とともに「この世界の万物がうまれてきた。彼らはどうしても「つくる=支配する」という発想ができなかった。「つくる」のではなく、「なる」ということ、そういう「過程」を考えねばならなかった。そしてそれは、それなりに高度できめ細かい想像力が必要だった。

縄文人が、原初の混沌とした状態からだんだんこの世界がかたちづくられてきた、ということを想像するのは、おそらくとても難しいにちがいない。彼らにとって自然は、圧倒的な存在感で立ちふさがっている対象であり、世界のはじめからそのように存在していた、と思うしかなかったに違いない。それこそ、『古事記』の物語をつくった古代人のように、神より先に宇宙が存在していた、と思ってしまうくらい、その存在感はたしかだった。つまり、「創造主」としての神を思い浮かべる余裕なんかなかったし、自然や人を支配する社会の構造も文明もなかった。
「死んだら何もない黄泉の国に行く」というイメージは、先験的な伝統風土として、宗教と同じように変更されることはなく、古代人がそう思っていたのなら縄文人だってそう思っていただろうし、われわれ現代人だってなんとなくそう思っている。日本人は、「天国」も「極楽浄土」も、うまく思い描けない。
古事記における「天地のはじめ」のイメージは、「黄泉の国」のイメージからきているのだろうか。
ただ、縄文人が「天地のはじめ」を想像することはない。それは、「宗教」や「神」という概念を知ってからはじめて想像できることだ。なにしろ宗教とは、「世界の構造」を語るものだからだ。
日本人の世界観の伝統というか、日本人の無意識における世界の構造は、「いまここ」の「天地(あめつち)」という縦の構造だけで、横に広がる世界はうまくイメージできない。
地平線が果てまで広がっていて、しかも異民族の存在を知っている大陸の人たちは、自然に横のパースペクティブの世界の構造を語ることに目覚めてゆく。異民族と戦争をするようになれば、そういうことを認識していないと不安が募ってしまう。
宗教は、「外」の世界に対する警戒や緊張や不安から生まれてきた。
しかし、四方を海で囲まれていた日本列島は「地平線」よりも「水平線」が意識されていたのであり、水平線の向こうから人がやってくることもなければ、その向こうは「何もない」と思うしかなかった。異民族との出会いや確執がなかった縄文人には、「外」の世界に対する不安や緊張はなかった。むしろ「憧れ」があった。彼らのほとんどは山の中で暮らしていたのであり、山の向こうの「外」の世界からは同じ民族の旅人がやってきたし、彼らはそれを歓迎し、もてなしていた。
縄文人は戦争などしていなかったし、彼らには「横のパースペクティブの世界の構造」を描こうとする契機がなかった。「今ここ」の「縦のパースペクティブ」すなわち「天地(あめつち)」の関係を世界として認識していた。山に囲まれた土地で暮らしていれば、どうしてもそういう世界観になってゆく。
古事記』だって、日本列島の外の世界のことは語っていない。日本列島の「天地(あめつち)」のことだけを語っている。そのとき仏教を輸入していたのだから、朝鮮半島も中国大陸も知っていたはずだが、そういう「世界」というものに興味がなかった。

古事記は、日本列島の成り立ちだけを語っていて、その向こうの「世界」なんか何も意識していない。つまり、横に広がる世界のことは眼中になかった。ひたすら縦の天上世界(=神の世界)のことを意識していった。
旧約聖書では、メソポタミア地域の異民族のことや異民族との戦いのこと、そしてモーゼに率いられてエジプトを脱出してきたとか、そういう横に広がる世界のことを大いに意識している。まあ、そういう世界の頂点にいるつもりのユダヤ民族と神との関係を描いた話なのだが、古事記のような「世界が出来上がってゆく過程」などは何も描かれていない。そんなものは神が一瞬にしてつくったものだから、描く必要はないらしい。
つまり旧約聖書の神は「地球上の横に広がる有限の世界を包む存在」として語られており、そういう世界なら「神がつくった」とイメージしやすい。
しかし古代の日本人には、そういう世界観がなかった。古事記が語る最初の神は、世界の中心の「ある一点」に出現したということになっている。これを「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」というのだが、そういう発想をすること自体、古代以前の日本列島には「創造主」としての神は存在しなかったことを意味する。
その神は、原初の混沌とした世界から現れ、「世界の中心」だけを定めて「隠れて(=消えて)」いった。その神の仕事は、「世界をつくる」ことではなく、「世界の中心を定める」ことにあった。
古事記における神の仕事は、「世界=自然」をつくることではなく、「世界=自然」それ自体として、「世界=自然」それ自体である「神」を産むことにある。神は火をつくらない、「火の神」を産むだけだ。そうやって猿になっていった神もいれば鳥になっていった神もいるわけで、猿の神を祀る神社もあれば、狐の神を祀る神社もある。
やまとことばとしての「神(かみ)」とは、「世界=自然」に対する畏れやときめきをあらわす言葉にほかならない。

予定調和の作為的な発想というのは、日本列島の伝統風土にそぐわない。「つくる」のではなく「なる」ということ。少なくとも民衆は、人生はつくるものではなく、なるようになってゆくだけだ、という流儀で歴史を歩んできた。
誰かがこういっていた。
人生最後の仕事は、自分の人生の帳尻合わせをすることではなく、「落とし前をつける」ことにある、と。
そうかもしれない、と思う。
まあ、人生というより、生まれてきてしまったことに落とし前をつける、ということだろうか。
生まれてきてしまったことの不幸=損失はもう、取り返しがつかない。どうつくろっても、帳尻なんか合わない。人生が幸せであれば帳尻が合って、不幸であれば帳尻が合わないとか、そういう問題ではない。不幸であることに恨みごとを並べてもしょうがないし、どんなに幸せでも、歳を取って死んでゆくということで、ぜんぶ帳消しになってしまう。かつては華やかな美人女優だったといっても、歳を取って死んでゆくという事実と向き合わないですむわけではない。
人生の時間なんて、生まれる前と死んだ後の時間に比べたらあっという間の、あるかないかもわからないようなものでしかないが、それでも今生きてあるという事実から逃れることはできない。誰もが、その事実のいたたまれなさを背負って生きている。それを事実であると認識する心模様から逃れることはできない。なぜならこの生の意図のいとなみは、その心模様の上に成り立っているからだ。そうやってわれわれは、この世界の輝きにときめきながら生きている。いいかえれば、この生なんてそんなものだと落とし前をつけてしまわなければ、世界は輝いて立ちあらわれてこない。
ちゃんと落とし前をつけることができるのならべつに不幸であってもかまわないし、落とし前をつけることがわれわれの生きるいとなみの本質・自然になっている。
氷河期の極北の地に置かれていたネアンデルタール人は「もういつ死んでもいい」というかたちでちゃんと落とし前をつけながら生きていたし、われわれ現代人は、どんなに安楽な人生であってもいつまでたっても落とし前をつけられないでぐずぐずと帳尻合わせばかりして生きている。
「生命賛歌」という帳尻合わせ、そんなことにうつつを抜かして生きることなんかできない。この生なんかろくでもないものさ。しかし、それでもというか、だからこそというか、世界は輝いている。
死後の世界があって天国や極楽浄土の世界に行けるのなら、何度でも生まれ変わることができるのなら、そりゃあ帳尻は合うことだろう。しかし、そんな世界がほんとうにあるのか?ほんとうにあるとしんそこ信じても、それでもわれわれは、この生を「一回きり」のものとして落とし前をつけてしまうことを余儀なくされて生きている。そうしないと生きることも死んでゆくこともできないし、そうすることによってこそこの世界は輝いて立ちあらわれる。世界の輝きは、この生は一回きりのものだという、その切実さのもとにこそ立ちあらわれる。
あなたには「(創造主としての)神の輝き」が見えるのか?そうしてそんな神と自分との関係の中に潜り込めば、自分の人生もまた輝いて感じられることだろう。それで帳尻が合うことだろう。
この生が一回きりのもので、なかったも同じのようなあっという間のことであるのなら、この生の輝きなんかどこにもない。輝いているのは、自分の外の世界ばかりだ。それでも世界は輝いている、ということ。この生が一回きりのあるかないかもわからないようなあいまいなものだからこそ、世界は永遠不滅であるかのようなものとして輝いている。われわれの心はもうその事実から逃れられないし、その事実の上に立って神道が生まれてきたのだ。そのとき日本列島の住民の心は、創造主としての「仏」よりも、創造主が存在しないシッチャカメッチャカの「かみ」の世界に引き寄せられていった。
この世に生まれてきたことは取り返しのつかない「損失」であって、帳尻を合わせることなんかできない。その事実はもう、受け入れるしかない。受け入れて「落とし前」をつけなければ、生きてあることも死んでゆくこともできない……もともと創造主としての「神」も「霊魂」も「生まれ変わり」も知らなかった彼らの生は、そういう心模様とともにあった。
まあ、「祭り」とは、この生に落とし前をつける行為であるのかもしれない。それを、日本列島では「みそぎ」ともいう。落とし前をつけてさっぱりしたいではないか。