「神ながらの国」という嘘・神道と天皇(12)

古代以前の日本列島には、宗教がなかった。そうとしか考えられない。これがこのシリーズの主題というか基本的な問題設定で、かんたんに「原始社会はアニミズム(精霊信仰や呪術信仰)という迷信の上に成り立っていた」といってもらっては困る。
現在の縄文学者のほとんどは縄文社会がアニミズムの上に成り立っていたという前提で考えているらしいが、それは、そういうことにしておいても誰も反対しないからだろう。彼らは、そういう状況の上に胡坐をかいて、そういえるだけの根拠をきちんと説明していない。思考が怠惰で横着なのだ。
土偶火焔土器は、呪術の道具だったのか。
歴史家たちが勝手にそう決めつけているだけではないか。
土偶は最初、人体に似せてつくられていたが、だんだんデフォルメされていった。それは、藁人形のように誰かを呪ってつくられたのか?しかし呪う相手の形代だったら、たとえば遮光器土偶のように、あんなにも凝った造形にはなってゆかない。呪う相手なら、藁人形でじゅうぶんなのだ。われわれがそれを見て感動するのは、作者のそれを造形することに対する愛着というか情熱がこめられているのを感じるからだろう。遮光器土偶になればもう、呪いの対象としての「人の似姿(形代)」という範疇を超えてしまっている。ただの呪いの対象なら、あんなにも造形することに情熱はこめない。
土偶火焔土器も、おそらく縄文人による生きてあることのいたたまれなさの表現であり、歴史家が説明する「宗教の道具」などというようなものではなく、それはそれで純粋な芸術表現だった。土偶の一部を壊して土に埋めたというのは、この生やこの身体の「けがれ」に対する「みそぎ」の願いを込めていたのだろう。「みそぎ」とは、まさに「身を削(そ)ぐ」こと、そうやって一部を壊して埋めたのではないだろうか。
縄文土器は、女たちの夜なべ仕事としてつくられていた。あんなくるおしいというか情念的な造形は、女の感性からしか生まれてこない。
男がつくれば、良くも悪くも弥生式土器のようにどんどんシンプルに洗練されてゆくし、日本列島の芸術表現の伝統が装飾的で女性的な一面を持っているのはおそらく縄文時代以来の水脈で、現在の「かわいい」のファッションやマンガ表現にもつながっている。
古事記の神々の造形だって、土偶や火焔式土器の伝統だともいえる。その奇想天外な神々の造形には生きてあることのいたたまれなさがこめられているわけで、それは、「生命賛歌」としての宗教とはまた別のものなのだ。
土偶や火焔式土器をつくっていた縄文時代の女たちは、そのようなかたちでこの生のいたたまれなさに「落とし前=決着」をつけようとしていた。だから土偶などはあんなにも精魂を込めてつくったのに、惜しげもなく壊して土に埋めてしまうことができた。べつに、呪いの相手を殺してしまうためだったのではない。だいたい「呪う」などということは、いつの時代もほんの一部の人間だけが持つ感情で、そんなことが縄文人全体に広がってゆくことなどありえない。ましてやほとんどの集落が2〜30人の規模だった縄文時代には、「世間のいさかいごと」などなかったのだ。
縄文時代の男たちは、10人前後の小集団で一年中旅をしているという習俗を持っていた。そのころ、平原の多くは湿地帯だったし、広い川に橋をかける技術もなかった。だから、旅をするには山道を歩くしかなく、そのために男たちの足は湾曲してしまっていた。
そうして山の中には、そんな男たちを待ち受けもてなす女子供だけの、いわば娼婦の里のような2〜30人の小集落がたくさんあった。そこでの女たちは、男たちが旅立ってゆけば、時間も体も持てあますようになる。つまり、そんなときの夜なべ仕事として、女たちの土器つくりが広く普及していた。まあ、そういう里の存在が全体のどれくらいの割合を占めていたかはわからないが、とにかくそのころの土器文化は彼女らの里がリードしていたのだ。
土偶や火焔式土器の芸術性は、その豊かな快楽と深い嘆きとの大きな振幅を生きていたところから生まれてきた。
火焔式土器の装飾模様のかたちのそれぞれにどんな呪術的意味があったのかと調べている研究者がいるそうだが、まったくナンセンスの見当外れもいいとこだと思う。ただ華やかに見栄えよくつくりたかっただけのことさ。それに酒を入れてお客をもてなしたとか、祭りのときに使ったとか、そういう意味はあっただろうが、その祭りに「祭神」があったという証拠などない。
前回に書いたように、「祭神」は、仏教伝来の結果として見いだされていったのであって、彼らには、人や人生や自然を支配しようとする欲望はなかった。そういう欲望が生まれてくる「世間」というものを持っていなかった。持っていたら、とっくに都市国家をつくっている。例外的に500人近い集落だったともいわれている三内丸山遺跡ですら、そのまま発展することなく、縄文中期には解体されてしまった。そこが少しずつ「世間」になっていったから、人々がいやになって逃げ出していったのだ。宗教があり、他の集落とのいさかいがあれば、それによって団結させることができるのだろうが、そういう契機がなかった。
縄文社会には、人が人を支配するという関係も、神が人を支配するという関係もなかった。

縄文人がいったい何を呪っていたというのか。その時代に戦争や人殺しがあったという証拠などない。彼らの社会にはこの生を支配してくる「世間」というものはなかったし、「世間」どうしの争いももちろんなかった。ほとんどは2〜30人程度の集落ばかりの社会で、「世間」などという関係が生まれてくるはずもないだろう。
古代メソポタミア都市国家は、「目には目を」というような「ハムラビ法典」をつくった。そういういろいろと争いごとが起きるややこしい社会状況になって、はじめて「呪術」というものが生まれてくる。もしくは、未開社会に文明人がやってきて「文明」という名の「呪術」を見せつけられることによってはじめてそれに目覚めるのだが、縄文社会にはどちらの体験もなかった。彼らの社会には泥棒とか人殺しというような世間的な争いごとなどなかったし、海の向こうの大陸と没交渉だったのであれば、自分たちの能力以上のものと出合う体験もなかった。
けっきょく、能力以上のことを実現しようとして、宗教や呪術が生まれてくる。「生まれ変わる」とか「天国に行く」ということだって、まあそういうことだろうし、宗教はつねに「奇跡」を志向している。
マリアの処女懐胎なんてありえないといっても、ありえないことをありえると信じるのが宗教で、それはもう、走る馬の顔の前にぶら下げられたニンジンのように、永遠に宗教が宗教であるための根拠になり続けてゆく。処女懐胎なんてありえないからこそ、宗教が宗教であるために有効なのだ。 
そしてわれわれ無宗教のものたちだって、嘘の世界の小説や映画や演劇に魅入られるという体験をしている。
人の心は、この生の外部、すなわち「非日常」の世界に超出してゆく。これはもう、宗教の問題でもなんでもなく、意識のはたらきの普遍的な事実なのだ。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がったのだし、そうやって人類拡散の果てにネアンデルタール人は氷河期の極北の地に住み着いていった。
古事記だって、ありえない話ばかり並べている。ありえない話だからこそ、語る甲斐があるのだ。そのとき古代人は、意図的に「ありえない存在」として神々を造形していった。ありえないからこそ、その神々は魅力的だった。まあ、もっともらしい「この世界を創造した神」など知らない人々だったからこそそういう奇想天外な神々を造形してゆくことができたのであり、それはまた、縄文時代土偶や火焔式土器の伝統でもあった。
この生のいたたまれなさを造形してゆくこと、そのなやましさとくるおしさこそ古事記の物語の魅力にほかならない。
日本列島が「神ながらの国」だというような話は、ちょっと笑ってしまう。そういう神道を宗教にしてしまう神道オタクはいつの時代もいたし、文明社会の中に置かれてしまえば誰だって宗教的になってしまうほかないのだが、それでもじつはこの国の伝統風土には神など存在しないのであり、存在しないことのなやましさとくるおしさを生きることこそ、縄文以来現在まで引き継がれている伝統なのだ。

古事記の成立が神道成立の契機にもなっているわけだが、それは、神という概念を知らなかった古代人がそれについて模索し造形していった物語であり、国家共同体の制度が定着しつつある時代の、誰もが避けがたく宗教的になるほかない状況があった。
神を知っていたから神を造形していったのではなく、知らなかったからこそ、造形して知ろうとしたのだ。
神道の神々が仏教の影響を受けて生まれてきたことは平安時代神道関係者自身が認めていること(本地垂迹説)であり、とにかく仏教伝来以前に神などというものは知らなかったのだ。
古代人は、本居宣長小林秀雄のような神道の伝統を生きている神道オタクではなかった。古代人は、神道を生み出したのであって、神道の伝統を生きていたのではない。その時代には、そんな伝統などなかった。
伝統という「原則」など持たないことが日本列島の伝統である、ともいえる。古代における仏教伝来も神道発生も、まったく新しい体験だったのであり、それでもみずからの体質に添って咀嚼し、両方ともそれなりに定着させていった。「無原則」が伝統だったから。
本居宣長は、「古代人にとっての神は畏(かしこ)くもありがたい存在だった」という。それが正しいかどうかはともかく、そんなオタクじみた言い方をされると、なんとなく耳障りだ。宣長に食ってかかっていった上田秋成の気持ちも、わからなくもない。
祝詞などではよく「畏(かしこ)みたてまつる」などという。その「畏み」は神のことをいっているのかといえば、そうではない。神を前にしたこちらがわの「たてまつる」気持ちの「あや」を表現しているのだ。
やまとことばの「かしこ」は、もともと「最終的」というニュアンスの言葉だったわけで、だから手紙の最後に「これで筆を置きます」という気持ちで「かしこ」という。近ごろサミットのあった「賢(かしこ)島」のことをなぜそう呼ぶかといえば、そこが奈良盆地から伊勢神宮を臨んだときの行き止まりの「最終的」な場所だからだ。
「畏みたてまつる」というときの「畏み」は、「(純粋で唯一無二の)最終的な思いを込めて」といっているだけで、げんみつには「神とは何か」ということをあらわしている言葉だとはいえない。
日本人は、基本的に「神とは何か」ということを知らない。ただもう、神に対して純粋で無邪気な親密さを持っているだけのこと。日本人は、「神とは何か」と問うような伝統を持っていない。問うことができるような歴史風土を持っていない。
古事記の神がどんな存在かということなどひとことではいえないし、「この世界をつくった」という神としての原理原則を持っていない。
古代以後の日本列島の歴史にはいつだって神道オタクがいたが、基本的には、神道は宗教ではなかった。われわれは、「霊魂」も「生まれ変わり」もよく知らない。霊魂のことをよく知らないのだから、人やよその国を呪うということもよく知らない。
まあ、神道で「霊魂」といえば、「気配」というようなニュアンスなのだ。「神の霊魂が宿っている」といえば、「神が隠れている気配がある」ということ。それだけのこと。もともと神も霊魂も知らない民族が神や霊魂について語っているのだもの。

古事記の物語で最初に登場する神の名は「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」。その神は、混沌虚空の世界に「ここが世界の中心である」と定めて隠れて(消えて)いった。ただそれだけのために現れて消えていった。もともと混沌虚空の世界なのだから、神だって「姿」を持っていたかどうかわからない。ただ「ここが中心である」と定まることを「神」といったのかもしれない。それは、たんなる「気配」であって、実体ではない。もともと神のことを知らなかった古代人は、そこから神について考えはじめたのだ。
それは、いちばん最初の神はこの世界のもとになる原子か素粒子のようなものだった、といっているようにも解釈できる。
まあ、だからといって古代の日本人の知能はそれほどに優れていたというわけでもなく、神を知らないまま神を想像しようとすれば自然にそうなってゆく、ということだろう。
世界をつくった存在など想像しようがない。世界=宇宙が最大の単位だとすれば、それよりも大きな存在をどうして想像することができようか。無限大よりも大きなものがあるのか?そんな大きな存在からすればこの地球なんか浜辺の砂粒よりももっとちっぽけな存在であり、さらにその地球の一点に生息する、さらにちっぽけなあるかないかもわからないような存在である人間をつくろうとするだろうか。しかも、そんな人間のことをいちいち気にしてああだこうだと干渉してくるということなどありえないだろう。
この無限の宇宙の歴史に、「人間など存在しなかった」とか「地球など存在しなかった」ということにしてしまっても、何の不都合もない。無限の宇宙の歴史からしたら、地球の誕生から消滅への歴史なんか、一瞬よりももっと短い時間に違いない。
神がこの宇宙を支配しているのなら、人間のことなんかどうでもいいに違いない。この地球が大爆発したって、頭の髪の毛が一本抜けたほどにも感じないだろう。
つまりそのとき日本列島の古代人は、「神がこの世界(宇宙)をつくったとは考えない」というかたちで、無限の宇宙を無意識のうちにすでにイメージしていた。そうして、われわれには無限の宇宙を語ることはできない、宇宙の中の「一点」を思い描くことができるだけだ……無意識のうちにそう考えた。
彼らは、宇宙のことを「神がつくった」というかたちで限定してしまうことができなかった。まあ、青空や星空の果てしない広さや深さに対する率直な驚きやときめきや憧れがあったわけで、その感慨があれば、「わからない」という以上の認識など持ちようがなかった。
「神がつくった」ということですむのなら、「なあんだ、そんなものか」という感慨しか湧いてこない。
われわれは、隣町の上空に浮かんだ雲だって、はるか遠くのものに思ってしまったりする。それは、心の底に空の広さに対する感動を持っているからだ。
夕焼けの茜雲が、アラビアの空に浮かんでいる雲のように思えてきたりする。
古代人や原始人だって、空の広さに対する感動はあった。いや、彼らのほうがもっと深くそういう感慨に浸されていたのかもしれない。それはもう、「神がつくった」ということではすまない広さなのだ。
「わかる」とは、「限定してしまう」ということ。
しかし空の広さは、人を「途方に暮れた想い」にさせる。そんな想いに浸されていた原始人が「神がこの世界をつくった」などという発想をするはずがない。まあ、文明社会の俗物の権力者たちが、そう思い込むだけのこと。
原始人の「途方に暮れた想い」は、けっして宗教を生み出さない。彼らの心はそこから華やぎときめいていった。それは、「もう死んでもいい」という勢いでときめき合う「祭り」を生み出す契機になっても、安心立命がコンセプトの「宗教」を生み出す契機にはなりえない。
自分の安心立命なんかいらない、今ここの世界が輝いていればそれでいい……それが日本列島の伝統であり、人類普遍の伝統でもある。
安心立命が欲しかったら宗教原理主義者になるほかないのであり、なんのかのといってもそれがいちばんの方法なのだ。