原始人の生きがい「漂泊論」89


     1・歴史の目的などというものはない
原始人は何をよりどころにして生きていたのか?
人間の本性というか人間の自然というか、そういうことを考える上で「目的」とか「欲望」という言葉は、どうもいまいち馴染めない。
現代人は、人間は目的を追求する生き物だと、当然のように思っている。
直立二足歩行の起源を考えるときでも、研究者たちはみな、まず「何を目的にして立ち上がったのか」という問題を立てる。
しかしそのとき目的などなく、気がついたら立ち上がっていただけであり、立ち上がるほかない状況があっただけだ。
人が人を好きになることだって、好きになろうとする目的があったのではなく、気がついたら好きになっていただけだろう。それと同じだ。
デートがしたいという目的があったから、というのは、真実ではない。好きになったからデートをしたいと思うようになっただけのこと。
人間の社会は、かならずしも目的を達成しようとする心の動きの上に成り立っているわけではないし、人間は目的を意識する生き物だともいえない。
われわれは、1万円で売られているセーターを前にして、1万円で売ろうとしている店員の「目的」なんか考えない。あくまでそのセーターに1万円の価値があるかどうかを意識するだけだろう。
飯を食ってうまかったら、「おいしかった」とか「ごちそうさま」という言葉は自然に出てくるだろう。それはあくまで、食った飯に対する「反応」である。
人を好きになることだって、「反応」なのだ。
あまり「目的」という言葉で人間の生態や心の動きを語るべきではない。そういう分析は真実ではないし、卑しい。
歴史は、人々が状況に対して「反応」したことの結果であり、そういう「なりゆき」があっただけなのだ。
歴史は、人間が何かの「目的」を持ってつくってきたのではない。
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     2・音声を聞く、ということ
言葉の起源だって、言葉を生み出そうという「目的」があったのではなく、人の心が人や世界と出会って思わず音声を洩らした「反応」という現象だったのだ。
人間の心は、猿よりももっと、他者や世界に対して豊かに「反応」する。この心の動きとともに歴史が動いてきたのであり、言葉が生まれてきたのだ。
言葉の起源に「話す=伝達する」という「目的」があったのではない。「聞く=反応する」という体験から言葉は生まれてきた。
耳が聞こえない人は、言葉を覚えられないらしい。
このことが何を意味するのか。
言葉は、「聞く」という体験の上に成り立っている。すなわち言葉は、人間的な「反応する」という能力から生まれてきた。
自分が発する音声を聞くことができなければ、ちゃんとした発声ができない。
われわれは、言葉=音声を発しながら、その言葉=音声を聞いている。
「聞く」という体験があって、はじめて「発声する」ということができるようになる。
原初の人類は、「聞く」という体験のカタルシスを汲み上げながら、さまざまな音声を発することができるようになっていった。
世間一般でいわれているように、原初の言葉は、あらかじめ伝達の道具としてイメージして発せられていったのではない。
言葉=音声は、「聞く」という体験の快楽として発せられる。「話す=伝達」のための道具として生まれてきたのではない。
すなわち、「反応する」というときめきから生まれてきたのであって、「目的達成」の欲望によって生み出されたのではない、ということだ。
言葉が存在しない段階で言葉をイメージすることなんか、できるはずがない。
そして、「聞く」という体験がなければ、「発声する」ということも生まれてこない。
はじめに「聞く」という体験があった。
「聞く」という体験がなければ、意図的に「発声する」ということはできない。
つまり原初の人類は、意図的に発声しようとして言葉の素となるさまざまな色合いの音声を生み出したのではない、ということだ。
まずはじめに、思わず音声がこぼれてしまう体験が無数にあった。その音声を聞きながら、意図的に発することができるようになっていった。
そのカタルシスは、あくまで「聞く」ことにあった。
自分で意図的に発声するといっても、自分で自分の音声を「聞く」ことにカタルシスがなければ、その芸は身につかない。
われわれは、音声を発しながら、音声を聞いている。
べつに、何かを伝えるとか、そういうことのために意図的に音声を発するようになっていったのではない。音声を聞くことのカタルシスが、その行為をうながした。
人と人が会話をするということは、どちらがしゃべっていようと、二人でその音声=言葉を聞く、という体験なのだ。そのようにして、人間集団で言葉が共有されていった。
「しゃべる=伝達する」という目的やその達成の満足によって言葉が生まれ育ってきたのではない。
「伝達する」という「目的」のための機能であったのなら、いまやすべての人類がホモ・サピエンスの遺伝子を共有しているように、いまごろは世界中が同じ言葉になっているはずである。
言葉は「聞く」という体験の上に成り立っている機能だから、集団ごとに違うのだ。
すなわち人間は、「反応する」生き物なのだ。
原初の思わず発せられていた音声のさまざまは、「聞く」ことのカタルシスが体験できるようなかたちで言葉として整っていった。
「伝達する」という目的でつくられていったのではない。
根源的には、人間のすることに「目的」などない。人間は「未来を思わない」生き物である。
ここのところは、言葉の起源を考える上で重要である。
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     3・胸にあふれてくる感慨がある
人と出会って「やあ」という。
予期せず出会って懐かしく親密な感慨がわいてきて「やあ」という音声が思わずこぼれ出る。
この「やあ」に、意味なんかない。その音声が思わずこぼれ出てしまうような胸にあふれる感慨がこめられているだけだ。
人間は、思わず音声がこぼれ出てしまうような感慨が胸にあふれてくる生き物なのだ。
まあそのとき、「おう」とか「よお」とか、いろんな発声があるが、その集団では、いつの間にか誰もが「やあ」というようになっていった。
いつの間にか、意図してその音声を発するようになっていた。
それは、その音声がそのときの自分の感慨にいちばんしっくりしているように感じられたからだろう。
自分の感慨にフィットしていると感じられる音声が言葉になっていった。
意味をあらわしている音声が言葉になっていったのではない。
人類史において、そうした思わずこぼれ出る音声の交換が「言葉」として整ってゆくまでには、何百万年とかかっているはずである。
そのあいだ人類は、音声を「聞く」という感触をまさぐり続けていた。
「聞く」という体験にカタルシスをもたらさない「音声」は、「言葉」として整ってゆくことはできない。
たとえば日本人は、一音一音に感慨がこめられているような音声を言葉として整えていった。
いや、原始時代は、世界中どこでもそうだったのかもしれない。
そして共同体(国家)の成立が遅れた日本列島の言葉は、そうした原始時代のタッチをそのまま洗練させていった。
やまとことばは、もっとも原始言語=自然言語に近い言葉のひとつである。
一音一音にこめられた感慨こそ、やまとことばの正味である。「意味」ではない。
音声を「聞く」ことの身体的なカタルシスによって言葉が生まれてきた。
言葉は、「意味」をともなって生まれてきたのではない。言葉が生まれてきたあとに、意味に気づき、意味が付与されていったのだ。
たとえ現代社会においても、言葉は、人間の自然においては、音声を聞くことの身体的なカタルシスを交換してゆくことの上に成り立っている。そうやって人は、会話=おしゃべりを楽しんでいる。
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   4・言葉の起源は「遊び」だったのであって、伝達するという「仕事」だったのではない
人間は、聞いたことのない音声を意図して発することはできない。これが、言葉の起源を考える上での公理である。
原始人が「意味」をイメージしていきなり音声を発することなんかあり得ないのだ。
原初においては、思わず発せられる音声があっただけである。
そして、聞いたことのある音声だけを意図して発することができるようになっていった。
であれば、言葉の基礎となる音声が出そろうまでには、ずいぶん長い時間がかかったはずである。
人類の発することのできる音声が言葉の基礎として出そろっていったのは、それらを発しようとする意図(=目的)が生まれてきたからではなく、それほどにさまざまな音声が口からこぼれてくるほどにさまざまな思いが胸にあふれてくるようになったからだ。
二本の足で立ちあがった原初の人類は、猿よりももっと弱い猿としてのストレスを抱えて歴史を歩みはじめた。そうして、ストレスからカタルシスを汲みあげてゆくことが人類の生きる流儀になった。
人間は、ストレスの中に飛び込み、そこからカタルシスを汲みあげてゆく。
そのようにして人類は、歴史とともにさまざまなストレスを抱え込むようになってゆき、さまざまな感慨が胸にあふれてくる存在になっていった。そのようにして、言葉の基礎となる音声が出そろっていったのだ。
人類学者や言語学者はよく、言葉の起源を、「象徴思考」ができるようになったからだというのだが、そういうことではない。
人間は、言葉によって象徴思考を持ったのであって、象徴思考がはじめにあって言葉を生みだしたのではない。
気がついたらさまざまな音声を交わし合うようになっていただけであり、そこからその音声が言葉として整えられていったのは、象徴思考によってではなく、何百万年もかけてその音声を発する感慨の感触をもどかしくまさぐり続けてきたことの結果なのだ。
そうして、その「感触」を共有しながら言葉になっていった。
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     5・彼らの発想の限界
そういう娯楽だったのだ。
「伝達する」という目的追求の欲望=仕事として言葉が生まれてきたのではない。
とりあえず「伝達=仕事」というパラダイムで考えたがる人間の多い世の中だが、それは「近代の迷妄」なのだ。
そういう合意がどれだけ多く人を追いつめ、どれだけわれわれの心から「人間の自然」を失わせ、多くの社会的の病理を生みだしていることのきっかけになっているかということを、少しは考えてみてもいいのではないだろうか。
ただたんに、正しいか間違っているかというだけの問題ではない。
もちろん、「原始人は伝達の道具として言葉を生みだした」ということなど、ぜんぜん真実じゃない。
まあ世の中には、そういうことにしておかないとたとえば大学教授という商売が成り立たないとか、そういう人がたくさんいるのだろう。
そして因果なことに世の中は、真実よりも世の中の秩序の方が大事だ、という前提で成り立っている。
だから、彼がみずからの立場を守ろうとすることは正義なのだ。
近代合理主義は、何が合理的かと問うているのであって、何が真実かと問うているのではない。真実よりも、合理的である方が優先されるのだ。
アメリカという国は、まさにそのことに徹することによって世界の頂点に立った。
そしてこの国の戦後社会も、そのことを見習いながら歩んできて、一時は世界でひとり勝ちしてバブルという頂点を極めた。
何が真実かということなど、意外とみんな本気でなんか考えていないんだよね。
そんなことよりも俺がちやほやされることの方が大事だ、という態度の方があるときは正義になったりする。
真実を語る子供よりも、人格者ぶった裸の王様のいうことが信用されたりしている。社会の秩序のためには、そのことの方が大事なのだ。
いまはもう社会秩序が大事な世の中で、知識人ぶってもけっきょくそういう世の中に頭の中を洗脳されているから、言葉は社会秩序をつくるための伝達の機能として生まれてきた、という発想しかできない。
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     6・言葉は、人が集まっている場のよろこびから生まれてきた
何はともあれ原始社会は、「社会秩序」などというものがスローガンになるほどの大きな集団ではなかったのである。
数人か数十人か、人が集まってきている場のカタルシスをもたらす機能として言葉が生まれ育っていったのだ。
このことを、考えようよ。
何ごとかを伝達して人を支配するために言葉が生まれてきたのではない。
そのみんなが集まっている場では、みんなが集まっているというそのことのよろこびが大事だった。
昔も今も、人間とはそのよろこびで生きている存在であって、衣食住のことも伝達することも二次的な問題にすぎない。
とにかく、誰もがすでに知っていることを語り合っていたのであり、その誰もがすでに知っていることに対する感慨が共有されていることに気づいたとき、それがよろこびになっていった。
言葉は、感慨を共有していることのよろこびを止揚する機能として生まれ育っていった。
すなわち、その音声を聞いてときめいたものは誰もがその音声を発することができるようになっていった、ということだ。
みんなが発声することができる音声が、言葉になっていった。
あるとき誰かが生み出したのではない。
みんなで生み出したのであり、みんなが発声できない音声は言葉にならなかった。
その音声が言葉になっていったのは、その音声の感触にときめいたからであって、その音声に「意味」を定着するためだったのではない。
「意味」は、それが言葉になってから気づいていった。
原始人がその音声を言葉にしていった契機は、その音声の響きが持っている感触にときめいていったことにあるのであって、「意味」を表現しようとしたのではない。
そのとき原始人は、みんなが集まっていることのよろこびを止揚する機能として言葉を育てていったのであって、実際の生活に便利な道具にしようというような「合理主義精神」など持ち合わせていなかった。
人間は、根源において未来を思わない生き物であり、今が楽しければそれでいいのだ。
それは、「遊び=娯楽」だった。
人類の歴史は生き延びようとしゃかりきになってがんばってきたのではないし、文化や文明はそういうことの成果ではないのである。
遊びで地球の隅々まで拡散してゆき、遊びで言葉が生まれてきたのだ。
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