「ケアの社会学」(上野千鶴子・著)を読む・11・野垂れ死にの文化

   1・それが「新しい時代を構想する」ことになるのか
こんなくだらない本の感想をぐだぐだと書き続けることなんかいいかげんやめてしまった方がいいのかもしれないが、人が介護をするということには、「人間とは何か」ということのたくさんの問題が含まれているように思えるからやめられない。
僕は介護の現場の当事者ではないが、世の中には、寝たきり老人や痴呆老人の介護を家族として何年にもわたって続けてきた人がたくさんいる。そういう体験をした人が、自分も年老いてそうなったらそういう介護を受けようと思うだろうか。そんな無間地獄のような介護を、けっして受けたくないだろうし、誰かにさせたいとも思わないだろう。それが、当たり前の人情だ。
中には、「自分はこんなにも立派に介護をした」という手柄話を得々と語って、自分も老人になったらそういう介護を受ける権利があると思っている人もいる。
しかしそれは、頭の狂った少数の人だろう。
普通は、どんなに自分が献身的に介護しても、たとえば自分の息子の嫁とかの他人に同じことを押し付けようとは思わない。
家族介護だろうと施設介護だろうと、介護という行為は、することもされることも、できることならないのがいちばんなのだ。それが原則だろう。
ひとりで生ききって80歳で孤独死することと、家族や施設の介護人にさんざん面倒をかけ、自分もジタバタしながら90歳まで生きることと、どちらが幸せともいえないだろう。
野垂れ死にの方がずっと美しい、といっている人は世の中にいくらでもいる。
小市民根性を丸出しにして、まわりに介護をさせてなんの後ろめたさもない老人が、そんなに立派か。
上野千鶴子氏は、「老人は介護をされる権利を主張せよ」とこの本で扇動しまくっているのだが、こんなくそ厚かましくて下品なブス女のいうことを、われわれがどうして同意しないといけないのか。この人だって、頭が狂っているよ。
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   2・「介護される権利」の行方
この国において、これからさらに少子化が進んで税収が減り、さらに被介護老人が増えてくれば、社会はもうすべての要介護老人を介護するということができなくなって、要介護の基準値が上がってきたりするかもしれない。
そうして、手厚い介護は富裕層だけのものになり、社会の介護システムから置き去りにされる人もますます増えてくる。
もしそんな時代になれば、ひとりで生ききって死んでいこう、という意見だって出てくるかもしれない。ポックリ寺にやってくる老人の「ポックリ死んでゆきたい」という願いはひとまずこの国の伝統だが、同時に、未来のそうした事態を先取りした思想でもあるのかもしれない。
未来はもう、「安直に介護に頼らず、できるだけ自分で生ききるようにしよう」というスローガンだって提唱しないと、国の予算が追い付かない。「介護される権利」などといっていられなくなる。老人たちのそんな主張が嵐のように渦巻く社会になったら、国の予算は破産してしまうだろうし、社会の人間関係だってますます荒(すさ)んだものになってくる。
多くの老人たちがたとえ野垂れ死にになろうとひとりで生ききって死んでゆこうとする「覚悟=コミットメント」を持つ社会は、そんなに悪い社会だろうか。
何はともあれ、ここまで不景気になってくれば、そういう覚悟をして生きている老人は増えつつあるにちがいない。それは、悪いことだろうか。
老人たちが「介護される権利」を大合唱している世の中が、そんなに素晴らしいだろうか。
われわれ庶民は、これからますますそんなことをいっていられなくなるし、最低限「介護をされる権利」を主張しないつつしみくらいは持ってもよい。
そして「ひとり」で死んでゆくことのできる老人がもっと尊敬されてもよい。
社会が、すべての老人の介護を引き受けることはもう、物理的に無理なのだ。
僕はべつに上野氏のように「新しい社会を構想する」趣味などないが、老人がむやみに「介護をされる権利」を主張する社会が「新しい社会」だとは全然思わないし、子供でもわかるたんなる算数の問題としてそういう時代がやってくるはずがないのだ。
この世の中には、介護なんか受けなくても「ひとり」で死んでゆける老人がいる。それこそが死の迎え方の理想ではないのか。介護のシステムを充実させることだけではなく、できるだけ多くの老人がそんなふうに死んでゆけるようにすることもまた、現代社会の差し迫った課題であるのかもしれない。もはやそうしないと国家予算が破たんしてしまいそうな時代だし、誰もがじつはそのようにして死んでゆけたらと願っているのではないだろうか。
介護される老後を理想として願っている人間がいったいどこにいるというのか。誰もが介護をされなくてもひとりで死んでゆける社会こそ理想なのだ。
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   3・「野垂れ死に」という伝統文化と現代社
たとえば中世の隠遁者のように社会の隅でしみじみとつつましく老いてゆけたら、それはそれでひとつの理想にちがいない。彼らは、山奥で仙人のように暮らしていたのではない。町はずれ村はずれに小さな庵を結んで暮らしていた。食い物は、里に下りていって物乞いして手に入れることもあった。
このかたちが発展して、姥捨ての習俗になっていった。最初は、必ずしもすぐ死ななければならないわけでもなかった。ひとまず家を離れることによって、食わせたり介護したりする家の責任が免除される。その上で、体の動くものは村全体のやっかいものになって生き延びることもできたし、乞食として漂泊の旅に出ることもできた。これが、中世の隠遁者の平均値だった。誰もが吉田兼好みたいに悠々と趣味的な生活にふけっていたわけではない。
しかし、動けなくなれば、家も俗世間も捨てた身として、人里離れた山の中で座して死を迎えるしかない。中世の人々は、そういう「覚悟=コミットメント」をしていた。
だから日本列島の住民には、動けなくなってもまだ介護を受けて生き延びるという発想が、歴史的な無意識として希薄である。「野垂れ死に」の伝統文化がある。
現代社会は、中世のそういう「覚悟=コミットメント」の文化に対して、体が動かなくてもまだがんばって介護されながら生き延びようとする「努力」を美徳とする文化がある。
努力の文化とは、言いかえれば「悪あがき」の文化である。「夢はかなう」などといってがんばることだって、まあ「悪あがき」の一種だ。
内田樹先生は、小学生のころから大学教授になる夢を抱き、がんばってその夢を実現させた人である。しかししょせんは二流の女子大の教授で終わるしかなかった。ただもう学問が好きで夢中になっているうちに気がついたら東大教授になっていた、という人とは違う。
がんばることよりも夢中になることの方が、たぶん豊かに才能が花開く。がんばったからといっても、しょせんは内田先生程度なのだ。そして先生は、今なおがんばって自分を見せびらかすことに励んでおられる。何はともあれ、それはなんだか、人間としてみっともない。
まあこれは上野千鶴子氏も同じで、だからこの人は、悪あがきして介護される権利を主張することが「新しい社会を構想する」ことのように短絡して発想してしまう。
しかしそれは「覚悟=コミットメント」という日本列島の伝統を喪失していることであると同時に、おそらく「介護されなくてもひとり生ききって死んでゆく」ことが模索される時代が来るであろうことも見えなくなっている。
上野氏のいうように、すべての老人が介護を必要とし、すべての老人が介護される権利を主張する時代を待望することが「新しい社会を構想する」ことなのか。
現実問題としてそんなわけにはいかないし、そんなところに人間の尊厳があるわけでもないだろう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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