共同体(国家)の起源を考えるとき、一般的には、家族が大きくなって親族という単位になりそれがどんどん膨らんで国家という大きな集団になっていった、というような説明がなされる。
しかしネアンデルタール=クロマニヨンは家族など持っていなかったし、人間の歴史が一夫一婦制としてはじまったと勝手に決め付けてもらっては困る。
チンパンジーの社会に「母子関係」はあっても「家族」などというものはない。おそらく人間の歴史もそこからはじまっている。
何はともあれ、はじめに集団がある。人間は、そこから生きはじめる。
人間が言葉を話すということは、人間は先験的に集団の中に投げ入れられて存在している、ということにほかならない。
人類の歴史で一夫一婦制の家族が生まれたのは、つい最近の、共同体(国家)の発生以降のことである。
直立二足歩行は、密集した集団があって起きてきたことだった。
人類の歴史は一夫一婦制の家族からはじまっているのではない。そんな安定した家族を持っていたら、密集した集団の鬱陶しさなんか切実にはならなかったし、すなわち二本の足で立ち上がるという事件も起きなかったということだ。
順序が逆なのだ。「はじめに家族ありき」なのではない。この点で、多くの歴史家が勘違いをしている。
家族という安定した集団を持っていなかったからこそ、直立二足歩行が起きてきたのだ。
夫婦と子供という単位が際限なく膨らんでいって大きな集団になったのではない。
はじめに大きな集団があり、そこに家族を挿入していったのが人間の歴史なのだ。
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生き物の集団は、根源的に自己完結しようとする衝動を持っている。だから、ある程度大きくなってしまったら、自己完結してそれ以上大きくなろうとはしない。言いかえれば、自己完結できないレベルにおいて、大きくなってゆく。
家族はつねに再生産されて、けっしく大きくはならない。つねに「家族」として閉じてゆこうとする。
親族は、家族が大きくなったものではない。親族は、大きな家族、ではない。家族が閉じてしまう単位であるがゆえに、それを補完するようなかたちで共同体とのあいだに挿入されている。したがってそれもまた、むやみに大きくなることはなく、離合集散して幾つにも再生産されてゆく。ついこのあいだまでのイギリス連邦ソビエト連邦も、けっきょくはばらばらになって再生産されていっただけである。それと同じこと。
イギリスはけっきょく、イングランド島が残るだけのことだろう。
小さな集団がそのまま大きくなってゆくのではない。すべての集団は閉じようとする。小さな集団は永久に小さな集団のままである。その小さな集団が自己完結できないとき、小さな集団どうしが集まって大きな集団になるのだ。
閉じる(自己完結する)ことのできない集団が集まって、大きな集団になる。
ひとつの集団が大きくなってゆくことはできない。集団はつねに閉じようとしているのだから、どこかで自己完結してしまう。そしてそれ以上大きくなってゆけば、必ず分裂する。
閉じることのできない集団が集まって大きな集団になる。
たとえば、300人の集団になったら自己完結できるとしよう。つまり300人になってしまったら、もうそれ以上大きくなれない。それ以上はもう、余分な個体をはじき出すだけである。
自己完結できない250人の集団どうしが一緒になって、はじめて500人の集団になる。
500人で自己完結できるのなら、500人どうしが一緒になって1000人になることはできない。100人の集団が10個集まっていった方が、まだ可能性がある。
個人においても同じだろう。個人として自己完結できるのなら、集団をつくる必要はない。
人間は、先験的に限度を超えて密集した群れの中に置かれてあるから、それに耐えるための「個人」や「家族」を持とうとする。すなわち、「個人」や「家族」は、「集団」のあとから生まれてきたものにすぎない。
人間は、先験的に「個人」や「家族」という単位を持っているのではない。人間の集団は限度を超えて大きく密集してしまうから、その結果として「個人」や「家族」が生まれてくる。
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若者は自己完結できない存在だから、大きな集団になることができる。日本人がチームをつくることが得意なのは、ひとりひとりが自我が薄く自己完結できない存在だからだろう。
大人は自己完結しているから、なかなか大きな集団になることができない。
人間が限度を超えて大きく密集した集団をつくる生き物であるということは、人間は自己完結しようとして自己完結できない存在である、ということを意味する。それは、個人においても集団においてもそうなのだ。
そしてこのことは、人間性の基礎が自己完結できない若者のもとにあるのであって、自己完結した大人のもとにあるのではない、ということをも意味している。
家族という小さな単位が膨らんでいって国家になったのではない。家族は、けっして膨らまない。つねに閉じようとする。
人間の集団は閉じようとする。閉じようとして膨らんでいってしまう。膨らまないと閉じることができない。
人間はすでに集団の中に投げ込まれて存在しており、ひとりひとりがそのことと和解し納得してゆけば、当然その集団は閉じてゆく。基本的には、集団が大きくなるということはない。集団とは閉じようとするものなのだ。閉じることのできない集団どうしが集まって大きな集団になるだけのこと。つまり、閉じようとして集まってゆくのだ。
集団に膨らもうとする衝動などない。したがって、家族が膨らんで国家になるということはあり得ない。人類の歴史においては、国家の中から家族という単位が生まれてきたのであり、この点で人類学者たちの考えることは順序が逆になっている。
われわれが共同体(国家)はどのようにして生まれてきたかという問題を考えるとき、「家族」という単位のことはひとまず除外して考えるべきである。
どうしてみんな「家族」という単位から考えはじめようとするのだろう。
人間は、すでに集団の中に投げ込まれてある存在なのであって、集団をつくろうとする存在であるのではない。だからこそ、その規模も密集の度合いも問わないのだ。つくろうとするのなら、猿のようにちょうどいいところで収めておく。
人間にとって集団は、先験的に存在している。何はともあれそういう状況から二本の足で立ち上がり、人間という歴史がはじまったのだ。
人間は集団をつくろうとする衝動を持っていないからこそ、際限なく大きな集団をつくってしまう。人間の集団は、この逆説の上に成り立っている。
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人間は、先験的に集団の中に投げ入れられて存在している。家族が大きくなって国家になっただなんて、そんなことはあり得ないのだ。
家族とは、集団に対して閉じてゆこうとする本能を持った単位である。
しかし、話はややこしい。家族であれ国家であれ、集団はすべて閉じようとする本能を持っているからこそ、閉じる(自己完結する)ことができなくて連携してゆく。連携して閉じようとする。
人間の願いは、完結しようと願わなくてもすむくらいすでに完結していることにある。完結しようとすることから解放されたがっている。完結することによって、完結しようとする願いから解放される。
完結すれば心は安定するが、停滞もする。だから、完結しようとする願いを持つことはできない。完結することは、心にとっては自殺行為である。心は、完結することを願っていない。完結しようとする願いから解放されたがっている。しかし解放されるためには、すでに完結してあらねばならない。
だから、さっさと完結してしまおうとする。そのようにしてヨーロッパの城塞都市が生まれていった。
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人間の自然ないとなみは、集団をつくろうとすることにあるのではなく、すでに集団が存在しているところからはじまっている。すなわちわれわれは、集団をつくろうとするのではなく、すでに存在しているものとしてそれを発見するのだ。
連携しようとするのではない、すでに連携していることに気づくのだ。
あなたを好きになろうとしたのではない、すでに好きになってしまっていることに気づいただけである……これが、共同体(国家)の発生の基礎的な心の動きだ。これが、「すでに集団の中に投げ込まれてある」という心の動きの基礎的なかたちにほかならない。
僕は難しいことを言っているつもりはないし、難しいことを言って共同体(国家)の発生を語っている多くの人類学者たちを信用していない。
人間がなぜ共同体(国家)というものを持ってしまったのかということは、けっして共同体(国家)を止揚する根拠にならならないと同時に、それが不自然なものだという根拠にもならない。人類の歴史において共同体(国家)が生まれてきたことは、それはそれで必然的な運命であったし、その密集状態を鬱陶しいと感じてそこから解放されようとするのも人の心の自然ななりゆきなのだ。
人は、共同体(国家)をつくったのではない。それは、すでにそこに存在していたのだ。
共同体(国家)などという、こんな鬱陶しいものを人間がつくろうとするはずがないではないか。しかし鬱陶しいものだからこそ、そこから解放されるカタルシスもひとしおに深く体験される。
人間は、二本の足で立ち上がったときにそういうカタルシスを体験してしまった。すべてはそこからはじまっている。
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