閑話休題・返信「親を恨むこと」

このところ時間の余裕がなく、コメントの返信もエントリーの更新もできないでおります。
ひとまず、「通りすがりのサル」さんへの返信をここで書いておきます。
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たとえば、末期小児がんの子供は、親を恨んでいるでしょうか。親を恨まねばならないでしょうか。
恨んだりしたら、生きていられないでしょう。気が狂ってしまうでしょう。
人間の頭の中身なんて、ほんらい「お花畑」にできているのだと思います。
そしてときどき「お花畑」でいられなくなって、人を殺したり自殺したりしてしまう。
小児ガン末期の子供だって、みんな、せつなくみずからの運命と和解して、生き、死んでゆく。
人間として生まれてきたからには、「死んでゆかねばならない運命と和解する」という問題は、誰もが背負っている。
彼らが、親を恨むこともなく、それをみずからの運命として受け止め戦っているということは、彼らの知能が未発達だからではなく、人間の心にはみずからの運命(目の前の状況)を受け入れる装置が備わっているということを意味する。
自分がブスやブ男でなんの才能もない人間に生まれてきたからといって、いまさら親を恨んでもなんの解決にもならない、ひとまずその運命を受け入れ、その範囲でがんばってゆくしかない。
親を恨むなんて、ただの心の停滞でしかない。自分がこの世に生まれてきてしまったことはもう、取り返しのつかないことだ。その運命は受け入れるしかない。
自分が自分でしかないという運命も、受け入れるしかない。
そうしないと、人は、生きることも、死んでゆくこともできない。
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親を恨むことの究極の行為は、親を殺すか、自分で自分の命を抹殺してしまうかのどちらかです。
逆にいえば、親を殺さず自殺もしない人は、親を恨んでいないことになります。
僕は、すべての子供は親を殺す権利を持っている、と思っています。
なのに彼らは、殺さない。僕だって、殺さなかった。
それは、自分がこの世に生まれてきてしまった運命と和解している、ということです。人は、みずからの「運命」、すなわち目の前にこの世界がひろがっているという「状況」を受け入れている。
それは、空を見て空だと認識し、土を見て土だと認識する意識のはたらきの根源の問題のはずです。
りんごを見てりんごだと認識し、みかんを見てみかんだと認識する。青い色は青く見えるし、赤い色は赤く見える。それは、われわれが「運命=状況」と和解し受け入れているからでしょう。
誰も、空を見て土だとは思わない。土を見て空だとは思わない。晴れた空を見上げて、雨が降っているとは思わない。
そこに空が広がっていることはわれわれの「運命=状況」であり、それをそのまま受け入れて「空だ」と認識している。
つまり子供が親を恨まないのは、そういう意識の根源の問題だと思っています。
親を殺してしまったり自殺したりするのは、自意識による「認識」の異常事態です。
意識とは「運命=状況」を受け入れるはたらきであり、自意識は、そのはたらきをふさいでしまう。
全共闘運動は「父」を否定する運動だったわけで、それは、彼らが「核家族」の中で自意識を無際限に肥大化させて育ってきた世代だったからです。
子供は、親に反抗しても、親を否定したり恨んだりはしていない。僕の頭は「お花畑」だから、そう思っています。
自意識が肥大化したときにおいて、親を否定したり恨んだりする。
自意識が肥大化すると、意識の根源のはたらきである世界に対する反応を喪失してしまう。
末期がんの子供は、まだ自意識が肥大化していないから、親を恨まないで死んでゆくことができる。それはとても感動的なことであるはずであり、それは、われわれが空を見て、空だと認識する、意識の根源的なはたらきの問題だと思っています。
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野球のバッターは、ピッチャーの投げたボールに反応してバットを振る。「「ピッチャーの投げたボール」という「世界」を正しく認識しないと、どんなに上手にバットを振ってもボールに当てることはできない。
プロ野球の選手にとって、バットを振ることは、体が勝手にやってくれることです。そのために彼らは、ふだんから何万回もバットを振るという反復練習をしている。
ナイスバッティングは、ボールに対する正確な反応(認識)によって生まれるのであって、バットを振ろうとする自意識によるのではない。
内田先生の体の動きが鈍くさいのは、体を動かそうとする自意識が強すぎて、世界に対する反応を喪失しているからです。武道とは「相手と一体化する」ことなんだってさ。そうやって先生は、「反応」を喪失してゆく。
また、追いつめられている人は、自意識がふくらんでしまい、世界に体する反応を喪失している。
体を動かそうとする自意識の強制から逃れ、世界にスムーズに反応してゆくことによって、はじめて体はうまく動くことができる。だから、野球選手は、何万回もバットを振る。
自意識は、身体に向かってはたらいている。
しかし身体は世界に向かって開かれており、意識がそのかたちに添ってゆくことによってはじめて体が動く。
テーブルの上のりんごを手に取ろうとするとき、意識は「りんごをとろうとしている」のであって、「手を動かそうとしている」のではない。そう思いさえすれば、、手が勝手に動いてくれる。
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身体に向かっている自意識が、世界に向かっている身体のスムーズな動きを阻んでいる。
ある人はこれを「私(という意識)の悪だくみ」といっておられた。
体動かそうとするのも、親を恨むのも、自意識の「悪だくみ」です。それによって人は、世界に対する反応を喪失してゆく。
子供がもし、世界に対して全身で反応して生きているなら、親を恨んでいる暇なんかないのです。親を恨むということは、親に追いつめられて自意識がふくらんでいる状態のことです。世界に対して全身で反応している子供にとって、親など関係ないのであり、そんな子供を親子関係に閉じ込めてしまうべきではない。僕は、親を恨むようないじけた子供になって欲しくない、親なんかほったらかして世界に全身で反応している子供であって欲しい。
意識は、「個体」として、みずからの「与件」を受け入れている。子供は、親との関係を生きているのではない。全身で世界との関係を生きている存在だ。とすれば、親との関係を生きねばならないことの不幸というのはたしかにある、と思っています。
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例の「堕落論」に出てきた、貧しい農民が自分の子を焼き捨てた、という話をどう解釈するか。
われわれはなんとなくの直感で、そういうこともありだよなあ、と思ってしまう。
なぜだろう。
それは、「親の責任」でなされたのか?
そうではない、と思う。
そのとき親も子も、それぞれみずからに与えられた運命を受け入れていった結果なのだと思う。
将来が悲惨だからとか、そういう問題ではない。そんなことは、誰にもわからない。あくまで「今ここ」の運命の問題です。
「今ここ」に人生のすべてがあり、人生は「今ここ」で決着する……というのが日本列島の生命観です。「無常観」です。
人生は、生まれてすぐに死のうと百歳まで生きようと同じだということ。この問題を定理としてクリアできなければ、われわれの生きものとしての生は成り立たないのです。
それは、人類が生きものであることの「与件=運命」であり、われわれはどこかしらで受け入れている。だから、自分子を焼き捨てることに対しても「それもありだよなあ」と思ってしまう。
この問題と現在の「児童虐待」とどこが違うのか。後者は、「親の責任」を意識している。「責任」を意識しているから、「権利」を行使する行動になってしまう。
あなたたちだって、「責任」を意識しているから、子供を叱るのでしょう。「叱る」ことと「虐待」とどう違うのか、僕はよくわからない。僕もいっぱい「叱る=虐待」をした。「おまえなんか死んでしまえ」という思いで、足で蹴飛ばしたこともある。
そして子供はそのときどういう反応したかといえば、変な説教されるより、足で蹴飛ばされたときのほうが自分の「運命」を受け入れたようだった。
足で蹴飛ばしたのも、僕の「運命」だった。「叱る」という意識などなかった。
人間は「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを、心の中のどこかしらに持っている。だから子供は、虐待されることを受け入れてしまう。「運命」を受け入れてしまう。
親による「叱る権利=責任」「教育の責任=権利」、世の中のそんな合意が「虐待」を習慣化させている。そのとき親は、その「責任=権利」を行使している。
つまり、貧しい農民が一発で焼き殺してしまうことと、虐待が習慣化することとは、たしかに違う。前者は、「責任=権利」を行使しているのではない。貧しい農民としての「運命」にしたがっているのだけなのです。
そして子供も、その「運命」を受け入れた。
人間は「自分はここにいてはいけないのではないか」と、どこかしらで思いながら生きている。
生まれてすぐに小児がんで死んでいったり、間引きされて焼き殺される子供の人生だって、われわれの人生以上以下でもない。
人間なんて、みんな「ここにいてはいけない」存在なのです。その「与件=運命」を自覚するなら、「ここにいる」価値など何もない。かの貧しい農民にはそういう自覚があったから、子供を焼き捨てることができた。
生きているのも運命、死んでゆくのも運命。
「ここにいてはいけない」存在だと自覚していないから、虐待が習慣化する。社会の「親の責任」という合意が、虐待を習慣化させている。
彼らは、「親の責任」という社会的合意を盾にして虐待を習慣化させているのだ。
なんと批判してくれてもけっこう。僕は、そう考えている。
あなたたちは、小児がんの子供を生んでしまった親を責めるのですか。その親は、その責任と罪を背負って生きていかないといけないのですか。
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「通りすがりのサル」さん、僕は、あなたが考えるよりずっとペシミストかもしれないし、ずっとオプティミストかもしれません。
人生なんて、今ここのこの一瞬で決着がつくのであり、それが人生のすべてだ、と思っています。
今ここのこの一瞬のときめきがあれば、それで決着がつく。
それは、「あなた」と「私」が、この果てしない宇宙の中で出会った「奇跡」のはずです。
少なくとも、この世のいちばん貧しく弱いものは、この「一瞬」によって人生を決着している。だから彼は、子供を焼き捨てた。
僕は、この世のいちばん弱く貧しいものの立場でものを考えたいと思っている。その人が救われないのなら、誰も救われる必要はない。
もちろん僕は、この世のいちばん貧しく弱い人間ではない。しかし、僕の能力の範囲であれ、その立場に憑依してゆくことはできる。
誰だって「私」という立場と、「私」を捨てて世界(他者)に憑依している立場の二つの顔を持っている。そして僕は、後者の立場で生き、死んでゆければと願っている。
僕は、「私」などというものを信用していない。「私」などというものの「悪だくみ」にわずらわされたくない。
「親の責任」など、「私(=自意識)」の「悪だくみ」だと思っている。
……ちょっともうきりがない話になってしまいそうなので、まとまりが悪いけど、このへんでやめておきます。