祝福論(やまとことばの語源)・「いえ」「やど」

近ごろの草食系男子は家に対する愛着を素直に抱いていて、たとえば「正月は家族と一緒に過ごすものだと思っている」などとあっけらかんといったりするものだから、「こいつ、まだ乳離れしてないよ」、とガールフレンドからあきれられたりする。
幸せな家族というのも困ったものである。親はそれでいいかもしれないが、子供たちは外に出て充実した恋ができなくなってしまう。
女は、子供のうちからどこかしらで「家」に対する幻滅を持っており、それが早い段階での恋に対する憧れや異性に対するときめきへと昇華してゆく。
少女漫画におけるラブ・ストーリーの充実は、少女が早い段階から家に対する幻滅を体験してしまうことの上に成り立っている。
幸せな家族から魅力的な若者が育ってゆくとはかぎらない。だから大人たちは、あまり「家族の幸せ」に執着しないほうがいい。自分たちはそれでうれしいかもしれないが、子供にとっては必ずしも幸せな体験になっていないこともある。
またそうした家族意識が、日本列島の開びゃく以来の伝統だと思い込むのも早計だ。それは、大陸から儒教精神などが入ってきたりしてからあとにつくられたものにすぎない。
家族を大切にすることが何か人間精神の普遍であるかのように言い立てる思想なんて、くだらない。
家族に対する幻滅なしに、異性に対するときめきは育たない。家族は、幻滅の対象として、大切な存在なのだ。
恨みや憎しみよりも、幻滅のほうがいくぶんかの愛がともなっている。幻滅は、体験しておいたほうがいい。幻滅は、大切にしたほうがいい。
人は、家に対する幻滅を「嘆き」として持っているから、外に出て「出会いのときめき」を体験することができるのだ。
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「旅(たび)」の対になることばは「家(いえ)」であるらしい。
現在の万葉学の権威である中西進氏は、こういう。
古代人にとっての「たび」はつらいばかりでいやなものであり、「いえ」はひたすら神聖で大切な空間であった、と。
こんなステレオタイプで薄っぺらなことばかりいっていて、どうして古代文学の研究ができるのだろう。それともこの人はわれわれ庶民をなめていて、どうせ庶民はそういって欲しがっているのだからそういっておいてやろう、と思っているのだろうか。
しかし、そうじゃない。いつの時代においても、庶民にとっての「いえ」は理不尽なものであった。理不尽であることによって、この社会で機能してゆくことができたのだ。理不尽だから、嫁や婿を交換したり養子をとったりすることができたのであり、もしも「いえ」が神聖な空間として自己完結していたら、誰も「いえ」を出たがらなくなって、そのような社会的機能はたちまち麻痺してしまうだろう。
日本列島は縄文時代から古代までの母系家族の歴史が長かったから、基本的には「母親(あるいは姑)」が理不尽な存在として機能し続けてきた。
女は、生まれていち早く母親の理不尽さに幻滅し、嫁に行けば、姑の理不尽な権力に悩まされる。だから、女三界に家なし、といった。これが、日本列島の「いえ」の伝統だろう。
父親の権威などというものは、歴史的には、儒教の影響による一時的なあだ花に過ぎなかった、と現在の状況が物語っている。
庶民の父親なんて、いつの時代も、「いえ」の中ではおおむねいいかげんでだらしない存在であったのだ。
いずれにせよ「いえ」は、神聖で大切な空間であることがそのアイデンティティであるのではない。あくまで理不尽な幻滅の対象であることによって、日本列島の社会が機能してきたのだ。
だから、「家族の幸せ」などというものをあまり自慢たらしく吹聴するものではない。そんなものに耽溺するのは、はしたないことだ。
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「いえ=いへ」の語源について、中西氏はこう語っている。
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「いえ」の古語は「いへ」。「へ」はあたりを意味し、それに神聖なものを表す「い」を付けて、「いへ」といったのではないでしょうか。…(略)… 住まいを意味することばには、「いへ」のほかに、「や(屋)」があります。「や」に「ところ(所)」という意味の「と」がついて「やど(宿)」。さらに、「やど」が活用して「やどる(宿る)」という日本語が生まれます。この「やど」と「いへ」には明確な違いがあります。それは「いへ」は精神的なもので、「やど」は物質的な構造物であるということです。「やど」はいわゆるハウスで、それに対して「いへ」はホームでした。
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「い」が「神聖なもの」を表すのなら、「いぬ(犬)」も「いし(石)」も「いも(芋)」も、すべて「神聖なもの」だったのか。それらは、「神」ということばが生まれるずっと前から使われていたことばに違いなく、そのときの人々に「神聖」などという概念があっただろうか。
「い」とは「いる」こと、あるいは「静止している状態」のこと。すべてのものは静止しているのが最初のかたちで、そこから動き出す。だから「い」は、「いの一番」の「い」でもある。
「去(い)ぬ」は、いなくなってしまうこと。
「静止」、これが「い」の語源であり、「神聖なもの」を表すようになったのは、共同体が発達してきてからのことだろう。
「いへ」ということばも、ずいぶん古いはずで、おそらく縄文時代からあった。
「へ」は、「あたり」ということでいいだろう。すなわち「場所」。
「いへ」とは、文字通り人がいる場所のこと。人が静止している(=住んでいる)場所のこと。
だいたい、日本列島の古代に「ホーム=家庭」などという概念はなかったのだ。
縄文時代は男と女が別々に暮らしていたし、古代においても「通い婚」が主流だった。すなわち彼らは、「ホーム=家庭」という概念を否定した暮らしをしていたのだ。
「ホーム=家庭」という概念は、いちはやく一夫一婦制の家族制度を持った大陸で発達してきたものであって、日本列島の古代にはなかった。だからそれを表すことばは、やまとことばにはなく、「家庭」という外来語を使うしかなかった。
やまとことばの「いへ」は、「ホーム」ではない。何をステレオタイプなことをいってやがる。
ただ、やまとことばの「いへ」は、「ハウス」でありながら、「建物」という外側のかたちよりも、「人が住んでいる」という内側のかたちを表している。「ハウス」であって、「ハウス」ではない。しかし、「ホーム」では、さらにない。
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そして、「やど」ということばもまた、中西氏のいう、たんなる「ハウス」というような意味ではない。
「や」は、「やっと」の「や」、「ヤッホー」の「や」、「たどり着く」ことを表す。
「と」は「止まる・留める」の「と」だから、「ところ」でもかまない。ただ、「やど」というときの「と」は、「戸(と)」がイメージされている。
「やど」とは、たどり着いた場所のこと。たどり着いて戸の前に立っており、そこから見た家のことを「やど」という。
引越しすることを「宿替(やどが)え」という。「家替え」とはいわない。このときは、家を外から見ているからだ。「ヤドカリ」は、外から入ってゆくからそういうのであって、「イエカリ」とはいわない。
だいたい中西氏のいうように、「やど」いう名詞から「やどる」という動詞が生まれてきたとはかならずしもいえない。意味の伝達よりも感慨表出の機能が勝っているやまとことばはたぶん、動詞や形容詞のほうが先にあったのだ。
家の中にいて静止しているときは「いえ」といい、旅をしてたどり着く家のことを「やど」といった。内側から見れば「いえ」で、外側から見れば「やど」になる。そういう違いであって、「ホーム」と「ハウス」ではない。
またこのことは、古代人が、いかに深く「旅」に対する愛着を抱いていたかということでもある。
中西先生、わかりますか。あなたの考えることは、薄っぺらで、通俗的だ。それじゃあ、古代人の心の動きには推参できない。
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万葉集から「いえ」と「やど」の用例を見てみよう。
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家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
訳・家にいたら食器に盛って食べるのに、わびしい旅空の下では椎の葉に盛るしかないことよ。
ここにして 家やも何処(いずち) 白雲の たなびく山を 越えて来にけり
訳・ここから見て家はどちらの方角だろう。それもわからないほどに白雲のたなびく山をいくつも越えて来てしまったものだ。
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上の歌は、家の中での食事のことを懐かしんでいる。
そして下で詠まれている「家」は、中西氏がいうように「ホーム」のことだろうか。そうじゃない、具体的な建物としての「ハウス」のことであり、しかしその家は「たどり着く」対象ではなく、すでに「遠く離れてしまった」対象なのだ。その離れてきた現在と家の中にいたときとの対比として、「いえ」ということばが使われている。
つぎに、「やど」の用例。
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わがやどの 花橘(はなたちばな)に ほととぎす 今こそ鳴かめ 友に逢へるとき
訳・わが家の花橘に止まっているホトトギスよ、今こそ鳴きなさい。懐かしい友に逢えたことを祝福して。
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この友は、きっとはるばる旅をして逢いに来てくれたのだ。だから「わがやど」という。この「やど」ということばには、そういう邂逅の深いよろこびがこめられている。
ところが中西氏は、これを、ただの物理的な「ハウス」というだけの意味だという。であるのなら、この歌の情趣は半減してしまう。万葉学者のくせに、そのていどにしか歌を味わえないのか。
「やど」ということばにこめられた古代人の感慨を、あなたは何もわかっていない。
そりゃあ、そうだろう。古代人にとっての「旅」がただ苦しくつらいだけのものだといっている人にはわかるはずがない情趣だ。
旅館のことを、なぜ「やど」というのか。ただの「建物」という意味ではないからだろう。それは、旅人がたずねてきて戸の前に立つところだからだ。そういう「邂逅(=出会いのときめき)」が体験される場として「やど」といったのですよ、中西先生。お願いだから、あんまり安っぽいことばかりいわないでいただきたい。悲しくなってしまう。