やまとことばという日本語・「いのち」

ほんというと、僕自身「カタルシス」ということばの意味がよくわかっていない。
「もう、死んでもいい」というような感慨に浸されること、というくらいの気分でこのことばを使っている。
それがたぶんいちばん大切な感慨で、それこそが「生きた心地」の正体だろうと思っている。
僕には、自分も人も幸せにしてやれる能力がない。
女房が、「わたしの青春を返してよ」というのなら、「そんなものはおまえの人生の成り行きだろう。おれがどうすることもできない」と答えるしかない。
自分の人生だってただの「成り行き」だったのであって、自分でつくり上げたものだなんて思っていない。
自分の人生が自分のものだという実感も、あまりない。
僕が生まれてきて死んでゆくのではない。「この世界」が生起して、消滅してゆく。それだけのことさ。
ある人によれば、そういうことを関西弁で「……てなもんや」というのだそうです。「てなもんや人生」。
自分が死んでゆくとき、「これでいっちょ上がり、てなもんや。はい、さようなら」と自分にいってやることにしよう。
僕のいう「カタルシス」とは、まあそんなようなことです。
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深く幻滅すること、深く絶望することは大切だと思う。
自分自身の「希望」に対して幻滅し、絶望すること。
「死にたい」なんて、その「希望」は、いったい何なのだ。
「死にたい」という希望を捨てないと、死んでゆくことができない。
お願いだから、「再生」とか「永遠」ということばをもてあそぶのはやめてくれ。
そんなみすぼらしい概念で「やまとことば」を語るのはやめていただきたい。
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僕は、自分は「生(い)きる」とか「命(いのち)」という概念にほんとに疎い人間だと思っている。
何しろ「てなもんや」ですからね。そんな高尚な思索は苦手です。
しかし中西進氏が『ひらがなでよめばわかる日本語』の中で「いきる」とか「いのち」ということばをもったいぶって語っておられるから、ひとまずそれに付き合ってみることにします。
まず、「い」ではじまる音は、「祈(いの)る」「斎(いつ)く」「忌(い)む」というように神に対することばで、「どれも厳かなもの」であるのだとか。
じゃあ「忌み嫌う(いみきらう)」とか「居丈高(いたけだか)」とか「意地汚い(いぢきたない)」とかということばは、「厳かなもの」をあらわしているのか。
「忌(い)む」の「い」は、「いらう=いじる」の「い」。「干渉する=まとわりつく」こと。「む」は、息が詰まるような発声。苦しんだり怖がったりする感慨の表出。「忌(い)む」とは、ネガティブな思いがまとわりつくこと。中西氏は「つつしんで穢れを避けること」と説明しているが、こんないい方は見え透いたこじつけ以外の何ものでもない。それは、「忌みを祓(はら)う」という。「忌(い)む」ということそれじたいは、「厳かなもの」でもなんでもなく、うっとうしくていやあな気分のことです。「穢れ」の状態にあることを「忌(い)む」という。
「居丈高」「居座る」の「い」は、「居る」の「い」。ひとつの場所に「まとわりつく(くっつく)」ことを、「居る」という。「居座る」とは、まとわりついてはなれないこと。「居丈高」は、上から乗っかってくること。
「意地」の「ぢ=ち」は、「血」「乳」の「ち」、「あふれ出る(ほとばしり出る)もの」。「いぢ」とは、勢いよくあふれ出る心(意欲)。
中西氏は、「ち=血=乳」を「霊」とか「生命の根源」のことだといっているが、これも、よけいな思い入れが過ぎるいい方です。そして「父(ちち)」とは、「生命力を供えた威厳に満ちた存在」のことなのだそうです。あほらしい。「通い婚」であった古代の「父(ちち)」は、いつもふらりと家を出て行ってしまう存在だったからです。それだけのこと。
「ち」とは、あふれでるもの。ほとばしり出るもの。「ち」と発声するとき、息が口から勢いよく飛び出してゆく。
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「い」は、「ゐのいちばん」の「ゐ」。あとのことばにまとわりついて、そのことばの意味を強調する音韻です。
「忌(い)む」の「い」は、「む」というネガティブな気分を強調している。
「息」とは、あからさまな「気=空気」というようなことでしょう。吐き出す息は、普通の空気とはまた別のもののような気がする。とくべつな「気(き)」だから「いき」という。それだけのことで、べつに、中西氏のいうように、「人間の命の尊厳」をあらわしているわけではない。
古代人が、「人間の尊厳」などという現代人のごとき意地汚い価値意識にしがみついていたはずがないじゃないですか。
そんな意地汚いスケベ根性などもっていなかったこらこそ、無心に神にひざまずいてゆくことができたのだ。
「人間の尊厳」などと思い上がっているやつに、古代人の無心な祈りはわからない。やまとことばの心の動きはわからない。
「生きる」とは、たぶん「息する」が詰まっただけでしょう。それだけのことさ。
そして「いのち」とは、「ゐ・の・ち」。「ゐ」は、あとの「ち」を強調する音韻。「いのち」とは、「息」とか「血」とか「汗」とか「おしっこ」とか「よろこび」とか「なげき」とか、もろもろのものが「あふれ出る」ものだからでしょう。
べつに命や生きることが「厳かなもの」であるとは、古代人は思っていなかった。
ただもう、何はさておいても「命」のはたらきとは「あふれ出る」ことだと思っていた。
「てなもんや」で「あふれ出る」だけのこと。
しかし、「まとわりつくもの」の「物性」と「あふれ出ること」の「空間性」に対しては、われわれ以上に深い感慨があったわけで、そこかから「もの」と「こと」ということばがうまれてきた。
古代人の心の動きに推参しようとするのなら、中西先生、「人間の尊厳」などという安っぽい概念よりもそういうことのほうがずっと大切なのですよ。