やまとことばという日本語・「とこしへ」

朝、目覚まし時計のベルが鳴る。
まだ、眠たい。
もう少し寝ていたい。
起き出すことの懲罰。
至福の二度寝
すぐに蒲団から起き出すことのできる人と、できない人がいる。
低血圧だからとか、それほど単純な問題ではない。
心が社会化していれば、すぐに起き出す。
社会化していない人は、寝覚めが悪い。子供ほど、寝覚めが悪い。
目覚めるとは、心が社会化すること。
目覚めるまでのそのあいだ、われわれは原初的な心を引きずっている。
そのとき、起き出したあとの未来をうまく思い浮かべることができなくて、いまここの「眠たい」ということだけに浸されてしまっている。いまはもう「眠たい」ということ以外に何も考えられない、という状態。しかしその「いまここ」との親密なかかわりこそ、原初的な心の動きにほかならない。
原初の人類は、「永遠」とか「未来」というようなことは考えていなかった。人の心は、ほんらいそのようなものを考えるようにはできていない。「いまここ」との親密なかかわりを持とうとすることこそ、自然な心の動きなのだ。
いまここで消えてゆきたいという衝動、それがあるからうまく起きられない。
それがあるから、「眠たい」ということに抵抗できなくなってしまう。
「いまここ」に溶けてゆくこと、それが生きた心地であると同時に、死んでゆくことでもある。
われわれは、未来に向かって死んでゆくことなんかできない。死んでゆくことはたぶん、未来に向かうことではなく、いまここの裂け目の中に入ってゆくことだ。そしてこの生のカタルシスもまた、そこにこそある。
いまここに溶けてゆくこと、すなわちいまここの裂け目の中に入ってゆくように、人は眠りにおちてゆく。
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宙返りをしたことがありますか。
それは、広い空間に飛び出してゆくことではない。
チューブの中に入ってゆくことです。
広い空間に放り出されている感覚になったら、体も心もバランスを失ってしまう。
たぶん空の鳥だって、チューブの中に入ってゆくように飛んでいる。
大空を占有することなんか、誰にもできない。
飛行機だって、チューブの中を飛んでいるだけです。
チューブの中、という「いまここ」。
「いまここ」においてしか、世界は完結しない。
宙返りの醍醐味は、「永遠」と手を結ぶことではない。「いまここ」で世界は完結しているという感覚の鮮やかさにある。
少しでもチューブの外にはみ出したら、体はバランスを失ってしまう。これ以外にないというチューブに入っていったとき、世界は完結している。そのとき、未来も過去も存在しない。果てしない「外部」の空間を忘れている。
それは、「死」のイメージでもある。
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「永遠」のことを、古代人は「とこしへ」といったのだとか。
「とこし・へ」。
「とこし」とは、「いつも」というような意味です。「とこ」は、「ここに留(止)める」、このことばこそ「ここにおいて世界は完結している」という感慨からこぼれてくることばです。完結しているから、何も変わらない、いつもこればっかり、という感慨で「とこし」という。
「へ」は、「縁(へり)」「減(へ)る」の「へ」、「方向」の語義。
「いまここ」がいつまでも続きますようにという感慨をこめて、「とこしへ」といったそうだ。しかしそれは、「いまここ」でじゅうぶんだ、もうそれ以外は何もいらないという感慨でもある。
「とこ」は、もともといまここの区切られた地面をあらわすことばだった。家の床土とか、集落の場所(ところ)とか、「永遠」とか「無限」という概念とは反対のことばだった。
「し」は、「孤独」「静寂」「終結」の語義。「死ぬ」の「し」。「とこし」とは、「これっきり」とか「こればっかり」というような意味。
「とこしへ」のことを「とこしなへ」ともいう。たぶん、「とこしなへ」が詰まって「とこしへ」になったのでしょう。「とこし・なへ」。「なへ」とは、「ずっと」という意味。いつもの「とこし」がずっと続くこと。たとえば、一晩中起きているとか、タイヤキのあんこがしっぽまで詰まっているとか、まあそんなような意味で、それは、あくまで限られた空間(=いまここ)の充実をあらわすことばだった。べつに、「永遠」という無限遠点を見ているわけではない。それを、仏教が入ってきて、宮廷の知識人や僧侶たちが「無限遠点」の意味に変えてしまったらしい。
しかし、死んだらわけのわからない「黄泉の国」に行くだけだと思っていたそのときの民衆は、なおも「永遠」を祈っても夢見てもいなかったはずです。
遠い昔の日本列島に、「永遠」などという概念はなかった。
「とこしへ」の「とこ」は、ほんらい「永遠」という意味とは正反対の言葉なのだ。それを「永遠」という意味にしてしまうことは、空を飛ぶときにチューブから外れてしまう不安をあたかも快感であるかのようにいうのに等しい。共同体の制度は、ときどきそういう倒錯的なことをする。
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人は、「いまここ」において世界が完結することを願っている。それが生きることであり、「死」もまた、「いまここ」において世界が完結する体験にほかならない。この生も死も、そういう体験であればと、われわれは願っている。
「永遠」とは、完結することの絶対的な不可能性のこと。だから、「永遠」なんか願いはしない。それは、「死」の不可能性の中に身を置くことだ。「死」が不可能だから自殺することができる。自殺とは、「死」を抹殺すること。
人は、「いまここ」において世界が完結する体験を失ったとき、「永遠」を手に入れる。
「永遠」とは、死の不可能性のことだ。死の不可能性を手に入れたから、自殺することができる。それは、鬱病などのもろもろの現代的な病理と、けっして無縁ではない。
「永遠」を手に入れたとき、「いまここ」の世界は輝きを失う。
「眠る」とは、「死を眠る」こと。過去を忘れ、未来を見失ってしまうこと。眠ることによって、今ここにおいて世界が完結する。
「永遠を夢見よ」と迫ってくるのは、いったい誰なのだ。何ものなのだ。
「いまここ」にもぐりこむ二度寝のよろこびを知って、何が悪い。
僕は、自分の子供をいとしいと思ったこともあまりないが、幼い彼らが二度寝をしようとする態度を見るのは、何か胸に詰まるものがあった。そのよろこびを知ってしまうことが彼らのこの先の人生を生きにくいものにするだろうと思っても、無理に起こすことができなかった。