やまとことばという日本語・万葉の恋「1」

恋なんか、犬や猫でもする。そのことを考えるなら、どんなに遠い昔の原始人にだって、犬や猫よりもっとややこしくせつない恋心はあったはずです。
いや、犬や猫のほうがずっとせつない恋をしているのかもしれない、とふと思う。
1500年前の万葉の恋があったのなら、5000年前の縄文の恋もあった。5万年前のネアンデルタールの恋もあった。500万年前の直立二足歩行をはじめた原初の人類にも、せつない恋があった。
戦争や政治に恋をする人もいれば、金や仕事に恋する人もいれば、人生論や宗教や哲学に恋する人もいる。
人間の歴史なんか、つまるところ恋心の歴史かもしれない、と思わないでもない。そのことを語ることができるのなら、世の人類学者の知能の発達がどうのこうのといってばかりいる程度の低い言説より、ずっと気がきいているし、ずっと本格的な歴史認識になることだろう。
マムシみたいに執念深いルサンチマンにこりかたまったやつにも恋心はあるんだってさ。しかも、誰よりも純粋で清らかな恋心を持っているつもりでいやがる。
まったく人間は、恋心の生きものだ。
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山姥さんや杉山巡さんが、この世界のどこかにいる。顔や姿を見たこともないが、「どこかにいる」と思えることで安らげるなら、それはとても貴重な心の動きかもしれない。それによって心が、「自分」という世界から解放される。
心が「自分」に対する関心でこりかたまってしまうこと、つまり「自分」に「まとわりついて」しまうのは、うっとうしいことだ。それは、精神の病理だ。
満員電車で見知らぬ人と体をくっつけ合うのは、うっとうしい。そういううっとうしさから逃れようとして、人は直立二足歩行をはじめた。うっとうしさから逃れながら、それでもなお集まっていようとして直立二足歩行をはじめた。
心を「自分」から引き剥がす手続きを持っていないと、人は、群れの中で生きてゆくことができない。
そのもっとも有効な手続きが、恋をすることかもしれない。恋をすれば、相手のことばかり思っている。
それは安らぎではないが、安らぎよりももっと充実した「自分」からの解放かもしれない。
苦しい恋の苦しさに耐えられるのは、それでも「自分」からの解放という充実があるからだろう。
抱きしめあうのが心地よいのは、それによって自分の体のことを忘れて相手の体ばかり感じていられるからだ。
満員電車がうっとうしいのは、それが、相手の体にくっついている自分の体に対する関心だからだ。
「うっとうしい」とは、「自分」に対する関心のことにほかならない。
「自分」のことなんかかまいたくないのに、それでも相手が「まとわりついて」くれば、心は、まとわりつかれている「自分」から離れられなくなってしまう。
「まとわりつくもの」から解放されようとして、人は直立二足歩行をはじめた。すなわち「まとわりついてくる相手」と「自分にまとわりついてしまう自分」からの解放。そういううっとうしさが共有されたとき、その群れで誰もが二本の足で立ち上がるという事態が生まれた。
自分は他人から嫌われている、ばかにされている、差別されている、という強迫観念から逃れられないと、心は病んでゆく。そこから逃れようとしてマムシみたいに憎み返しても、それは、心を「自分」から引き剥がしていないのだから、根源的な解決にはならない
相手にまとわりつかれ、自分もまとわりついてゆく、そんな行き詰まった恋のような心の動きが解決になるはずがない。
そのときたぶん、他者の「存在」そのものに対する関心と、他者の「心」に対する無関心が必要になる。
ほんらいの恋心とは、もしかしたらそういう心の動きかもしれない、と思わないでもない。少なくとも古代人の率直な恋心とは、そういうものだったのではないだろうか。
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「恋(こ)ふ」あるいは「恋(こ)ふる」という動詞がはじめにあった。
「ふる」とは、「触(ふ)る」だろうか、「震(ふ)る」だろうか、「経(ふ)る」だろうか。
「あなた」の体に触れば、心はときめいて震える。会えないつらさにも震える。いっしょにいる時間は、あっという間に経ってしまう。
「こ」は、「ことん」とか「ころり」の「こ」。あっけない感じ。「こぼれる」の「こ」。たわいない感じ。恋をすれば、たわいなく心が弱ってしまうから、「こ」という。途方に暮れた子供のような心になってしまうから、「こ」という。そういう心に「なってしまう=ふる」から「恋(こ)ふる」という。
「恋」の「こ」は、「こぼれ出る」の「こ」であり、「子供」の「こ」であり、「小さい」の「こ」でもある。
想いが「自分」の外にこぼれ出てゆき、子供のようにたよりなく小さな生き物になってしまったような心。それが恋心らしい。
折口信夫が、「恋(こひ)」の語源は「魂(たま)乞ひ」にある、というような解説をしているのだが、もったいぶって何を陳腐なこといってやがると思うばかりだ。
胸がきゅうんとなるから「恋(こ)ふる」といっただけのことさ。