やまとことばという日本語・万葉の恋「2」

折口信夫は、「恋(こ)ひ」の語源は「魂(たま)乞ひ」にあるといっているが、くだらない文学趣味だ。
「恋(こ)ふる」とは、胸がきゅうんとなること、それだけのことさ。
「ふる」は「経(ふ)る」、「なってしまう」こと。
胸がきゅんとなって、子供のように心細くなってしまうのだから、それは「子(こ)ふる」「小(こ)ふる」でもある。
やわらかいものが固まってしまうことやひとつのことに熱中することを「凝(こ)る」という。であれば、相手のことばかり思ってしまう「恋(こ)ふる」は、「凝(こ)ふる」でもある。
「乞(こ)ふる」ことだって、心細さとともにある行為でしょう。
「心細い」感慨のことを「こ」という。
胸の中がきゅうんとすぼまって、小さな丸いかたまりができる。それを「魂(たま)」といったのかもしれない。
古代の「魂(たま)」とは、せつない恋心のことだったのかもしれない。そのとき人は、胸の中に小さくてまるい「たま」を持っている。
縄文人は、ヒスイの丸い「たま」をペンダントにしていた。文明の未発達な原始人が、その硬い石をまん丸に削ってまん丸の穴をあけることがどんなに困難な作業であったことだろうか。どんぐりの実などを主食にしていたあの縄文人が、完璧なまるいかたちのペンダントを作っていたのです。そのまるいかたちにたいする彼らの思い入れがいかに深かったか。そういう一心で、そのまるいペンダントを作っていたのだ。
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縄文人は、恋する民族だった。
「出会いのときめき」「別れのせつなさ」「待ちわびることのくるおしさ」、そんな心の動きが、彼らの暮らしを彩っていた。家を持たない男たちは山野をさすらい、女たちは山の中に小さな集落をつくって男たちのおとづれを待ちつづける、そういう暮らしのそういう心の動きが生まれてくる社会だったのです。
たとえば、男たちは、毎年秋の終わりころにやってきてひと冬を女とともに過ごす。そうして、春になったら、またふらりと旅に出てゆく。出てゆけば、今年の秋もやってくるかどうかはわからない。
それでも、女たちは、ひたすら待ちつづけた。あるいは、男も女も、そのあいだに別の出会いを体験することも多かった。
そこには、たくさんの出会いと別れと待つ心があった。
彼らは、そんな恋に生きていた。
だから、食うものなんか、どんぐりでもよかった。ときに、食うものも喉を通らないようなせつない恋をしていた。
彼らがヒスイの丸いたまをペンダントにしていたことは、そういうことを意味する。
彼らは、相手の心=魂なんか乞うてなどいなかった。ひたすら「出会う」ことを願っていた。
無事でまた逢えればそれでいい、逢いたい……それが古代人の恋心だった。万葉集にも、そんな歌がたくさんある。
古代人は、相手の「魂(たま)を乞ふ」ような、そんな余裕のある恋なんかしていなかった。ひたすら「逢いたい」という想いではちきれそうになっている恋をしていたのだ。
胸がきゅうんとなるとはそういうことで、別れていれば、ただもう「逢いたい」だけで、相手が自分のことをどう思っているかとか、そんなことを考える余裕もないでしょう。
古代の「つまどい」とか「通い婚」という習俗は、そういうコンセプトの上に成り立っていたのだ。
「魂(たま)を乞ふ」ことが、古代人の率直でのびやかな恋心ですか。そうやって相手の心にまとわりついてゆくことが古代人の恋心ですか。何をくだらないこといってやがる。そんなことは、いつも一緒にいるものたちが心配することだ。
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僕は、折口信夫中西進氏の語源の解釈が現在のスタンダードになっていることに、どうしても納得できない。彼らは間違っているというのではなく、しんそこくだらない、と思う。
中西先生、「こふる」と、百回口に出してとなえてみなさいよ。そしたら、「こ・ふる」という感慨の姿が見えてくる。「魂(たま)乞ひ」とか「命の尊厳」とか、そんなことはどうでもいいのだ。ただもう、胸がきゅんとなるせつない恋心が表出されているだけじゃないですか。そしてそれはもう、古代だろうと現代だろうと同じのはずです。
折口信夫は、「魂乞ひ」と解釈することで、他者の心を支配しようとする自分のスケベったらしい欲望を正当化しようとしているだけだし、中西氏は、ただもう制度的でステレオタイプな思考を繰り返すだけで、どちらも古代人の恋心になんか届いていない。
古代人の恋心が、何かとくべつで宗教的だったはずもない。いつの時代であろうと、人間の恋心に違いはなかろう。ただ、現代においては、そんな恋心はもう若者にしか体験できなくなっている、というだけのことだ。
「まとわりつくもの(物性)」のうっとうしさと、「離れること(空間性)」の不安、そんな心の動きが絡み合って人は暮らしている。そのふたつの「なげき」のあいだに「恋心」がある。
人が成長してゆくと、まとわりつきまとわりつかれるうっとうしさが身にしみてきて、そこから離れようとする願いも切実になってくる。共同体の制度性は、人と人をくっつけまとわりつかせようとする。そういううっとうしさが身にしみてきて恋をし、まとわりつくものから離れることのカタルシスと、離れてあることのさらなる心細さを体験するようになってくる。
「逢いたい」とは、ただ「逢いたい」というだけのことだ。「魂」なんか乞うていない。魂を乞う余裕もないほど心細いのであり、相手の「存在そのもの」を乞うているのだ。
相手の存在そのものを乞うてやまない古代人のせつない恋心は、折口先生、あなたにはわからない。
「魂乞ひ」なんて、ようするに相手の心を知りたがるというだけのことでしょう。折口信夫なんか、ただの俗物なんですよ。因果なことに、俗物ほど文学的な才能がある。人をたらしこむ才能がある。そこがまあ、やっかいなところです。
僕は、あんな連中にたらしこまれたくはない。あんな連中の言説を借りてやまとことばの語源に推参しようとは思わない。