祝福論(やまとことばの語源)・「ふぢ」

藤の花の季節です。
「ふぢ」と書く。「富士・不二(ふじ)の山」の「ふじ」とはちがう。
「ふ」は、「ふるえる」の「ふ」。あるいは「伏(ふ)す」の「ふ」。
「ち」は、「血(ち)」「乳(ち)」の「ち」、ほとばしり出るもの。
「藤(ふぢ)」とは、ひとつのところからたくさんの花びらがほとばしり出て五月の風に揺れながらきらきら輝いている(=ふるえている)美しい花のこと。
もしくは、這う(=伏す)ように成長しながらどんどん広がってゆく(=ほとばしり出てゆく)植物のこと。
藤田、藤野、藤原、藤木、藤山等々、「藤」がつく苗字が多いのは、そのような藤の生命力にあやかり、家系の繁栄を願って名乗っていったのでしょう。
じゃあ、語源の解釈もそれで決まりなのか。
学者たちはきっと、これで決まりだと口をそろえていうことでしょう。
しかし、「藤紫(ふぢむらさき)」ということばには、どんな感慨がこめられているのか。
「藤娘(ふぢむすめ)」とは、生命力が旺盛な娘のことをいうのですか。
遠い昔の語源の体験においてどうだったかといえば、どちらともいえないのではないか。
きっと、あの可憐な薄紫色に咲きあっている花群れとの出会いの体験があったはずです。その現場において、誰も家の苗字など持たなかった時代の人びとがどんな感慨を抱いたかは、単純に「生命力への憧憬」などという解釈ではすませられない。
あなたは、どちらだと思いますか。
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たとえば子供に「あの花は<ふぢ>というんだよ」と教えたとき、子供は、そのことばの語感からどういうイメージを思い浮かべるだろうか。
その花の名は、百年眺めつづけたのちにその「生命力」に気づいて名づけられたのか。それとも、出会いの瞬間の感慨からこぼれ出たことばなのか。
あなたは、どちらだと思いますか。
それが古いやまとことばだということは、その語源は、決して「生命力」などというが概念的な意味付けだけではすませられない。
「木(き)」ということばは、おそらく、その木の真下に立ったときの感慨からこぼれ出た言葉です。たくさんの枝を広げ、葉っぱがわさわさと群がっている。その空間は、なんだかもう別の世界に迷い込んでしまったような心地にさせる。だから、「空間」という意味で、「木(き)」は「気(き)」でもある。
完結した空間のことを「き」という。それはもう「木」でも「気」でも同じなのです。
だから、過去完了のニュアンスで、「むかし男ありき」の「き」にもなる。
満ち足りた、あるいは圧倒される気分(感慨)から「き」という音声がこぼれ出る。だから、驚いたときに「きゃっ」といったりするし、息(=気)を吸い込んだらほっとしていのちが満ち足りる。古代人のそういう感慨に推参しなければ、「木(き)=気(き)」ということの説明はつかない。
「ふぢ」ということばは、「生命力」という意味に気づいたところから生まれてきたのか、それとも何かその花との出会いの瞬間のときめきがあったのか。
もう一度考えてみたいのですね。
僕は、その花を間近にすると、そのあでやかさに圧倒されるような心地で、けっこうときめいてしまうのです。胸がどきどきしてしまう。もしかしたらそれは原初的な感慨かもしれないわけで、なんだか知れないけど、それはもう、子供のころからそうだった。
でも、個人的な主観だけで判断できることでもない。そこがやっかいなところです。