祝福論(やまとことばの語源)・「けもの」

あるブログでその文章を読んだとき、その不思議な書きざまから、ふと、むかし読んだことのあるボードレールの「巴里の憂鬱」という散文詩集のことを思い出しました。
その中の、たしか「人みな噴火獣(シメール)を負へり」というようなタイトルの散文詩だったと思う。
そこで描かれている街を行く人たちは、誰もが背中に凶悪でグロテスクな顔をした奇妙な獣(けもの)を背中に負っており、そんな姿で同じ方角を目指してぞろぞろ歩いてゆくが、その行き着く先はいったいどこだろうか……というような内容だった。
ボードレールが描写したそんな19世紀ヨーロッパの都会人は、そのままこの国の現代人の姿と重なる。
高度資本主義経済に食い殺されて奇妙で凶悪な生きものに変身してゆく現代人の姿を、彼はすでに予見していた。
このブログも、そんな、マムシみたいに執念深くてどす黒い殺意に満ちた「けもの」を背負ったある人間につきまとわれています。もしかしたら、このブログをやめるまでつきまとわれるのかもしれない。
いってることの内容は低俗でステレオタイプなだけなのだけれど、相手を抹殺しようとする衝動の激しさは、並大抵じゃない。コメントが入るたびに消してはいるが、その殺意のすさまじさと持続力は、背筋も凍るほどです。
超人的なネット社会のクレーマーであるその人間は、嘆かない。ひたすらマムシのように恨み、ひたすら怒って相手に噛み付いてゆく。
まさに、現代人のゆがんだ精神の病理を一身に背負っているかのようなその振る舞いは、現代社会の「欲望」のいけにえとなったひとりの殉教者の姿であるのかもしれない。
「あの日炭鉱で働いていた父が落盤事故で死んだとき母と私は……」などと書くとなんだか寺山修司の世界みたいだが、この体験こそ、戦後日本が廃墟から現在の繁栄へと突き進んでくることによって生み出した精神の悲劇を象徴している。
そんな体験を契機にして犯罪者になった人間もいれば、歌手や詩人になったものもいる。結果などたいしたことじゃない。どちらもそこで、あの奇妙で凶悪な「噴火獣(シメール)」という「けもの」を背負わされてしまったのだ。近代=高度資本主義経済という「神」もしくは「悪魔」によって。
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「けもの」ということばは、悪霊・妖怪をあらわす「もののけ」ということばからきているらしい。
だから比較的新しいことばで、「獣」と書けばなんだかライオンや象を想像してしまうが、もともと自然の動物を指すことばではなかった。
「け」は、「分裂」「変異」「別世界」の語義。
「もの」は、「まとわりつくもの」。
つまり「けもの」とは、怖い「ばけもの」のこと。
現代万葉学の権威である中西進氏は、「け」は「気配(けはい)」の「け」で、「ぼんやりと漂うもの」をあらわす、といっておられる。
しかし「ぼんやりと漂うもの」は「けはひ」の「はひ=這(は)ふ」によってあらわされているのであり、その「ぼんやりと漂うもの」が何であるのかということが「け」の語義なのだ。
学者の世界というのは、こんな薄っぺらでナイーブな思考で「権威である」といばっていられるものらしい。
『ひらがなでよめばわかる日本語』という著書で、彼はこんなことばかりいっている。このていどの凡庸な解釈がやまとことばの語源解釈のスタンダードになっているなんて、変だ。
そしてその延長で「もののけ」の「け」も「髪の毛」の「け」も「ぼんやりと漂うもの」であると安直にこじつけてゆくのだが、「もののけ」は「ぼんやりと漂うもの」だから怖いのではなく、それがあたかもありありとした現実であるかのように錯覚してしまうから怖いのだ。「髪の毛」だって、ありありとそこにあるものであり、それは女であることの目印であるとともに女の命の象徴ともなっていたものだ。また、たしかな目印として、その人の身分や職業をあらわすものになっていた。
もののけ」の「け」が「分裂・変異・別世界」をあらわしているのは説明するまでもないことだし、「髪の毛」の「け」にしても、それが体を覆う皮膚とは「異質」なものだからだ。
やまとことばにおいては、同じ音声のことばはその根源において同じ意味を共有している、というのが中西氏の持論であり、それが、「ひらがなでよめばわかる」ということのコンセプトです。
だったら、「蹴(け)る」の「け」、「消(け)す」の「け」も、「ぼんやりと漂うもの」と解釈できるのか。
「蹴(け)る」ことは、「ぼんやりと漂うもの」とは異質な行為であり、たとえばボールを蹴ることはボールと足が勢いよく「分裂」するような動きだからだ。「けっ」といってふてくされることは、蹴り飛ばすような感情のことでしょう。
「消(け)す」とは、「ぼんやりと漂う」を通り越して消えてしまうことであり、つまり「ぼんやりと漂っていない」ということですよ。
同じ音韻であればみんな「仲間」のことばだといいながら、適当なところでつなげてしまって、都合の悪いところは頬かむりしてしまおうなんて、考えることが薄っぺら過ぎるし、やることがけちくさい。
灯りを消せば、闇という「別世界」になる。「ある」の世界が消えて「ない」の世界に変わる。それを、「消(け)す」というのだ。
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もののけ」とは、この世界の「もの」が「変異」して「別世界・別次元」の存在になったものであるのなら、この場合の「け」が何を意味するかはこれ以上くどくどいうこともないはずです。そしてこの場合の「もの」には、「まとわりつくもの」というニュアンスがある。そういううっとうしさと気味悪さを持った対象を「もののけ」という。
それが「けもの」になり、やがては自然の大きな生き物や凶暴な生き物のことをいうようになっていった。
狐や狼が変異すれば「もののけ」だが、そういうもとになるかたちがなくて最初からわけがわからない不気味なものを「けもの」といったのかもしれない。
ただ単純に、「けがれたもの」を「けもの」といっていただけかもしれない。
着るものが古くなって、「けもの」になってしまった、とか。死体もまた、けがれた「けもの」であったに違いない。それが仏教思想とともに動物のことを「四つ足」などいって差別するようになり、やがて動物全般のことを「けもの」というようになってきたのかもしれない。
現代人がその背中に背負っている凶悪な「噴火獣(シメール)」もまた、語源に照らしていえば、やはり「けもの」だろう。
自分の中に「けもの」が棲んでいる……などという。
自分の中の何か「わけがわからないもの」、「凶悪なもの」、それはきっと「けもの」だ。
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誰もがたぶん、自分の中に、何やらわけのわからない凶悪な衝動を抱えている。
ふだんは穏やかないい人が、酔っ払って、突然凶悪な人間に変身する。
ふだんは穏やかないい人が、ある日EDになって、SM趣味に走る。彼はもう、自分の中のサディズムと一緒でなければ勃起できない。
西洋人の中にサディストが多いのは、階級差別社会だから、そのルサンチマンが鬱積してしまうのだろう。そうやって世界に対して差別し返そうとする。そしてそれは、「正義」を手に入れることでもある。
サディズムは、正義を手に入れようとする衝動なのだ。
一人っ子は、サディストになりやすい。それは、つねに両親の監視にさらされて、悪い子になったり、家族制度から逸脱することが許されないまま育ってきたからだ。彼らは、どんなにかわいがられて育っても、その心の底には、両親にいたぶられて育ってきたというルサンチマンを抱えている。そうして、ベッドで裸になったとき、いたぶり返そうとする衝動が吹き出す。
もう少ししたら、一人っ子政策の中国でSMが大流行するかもしれない。
いや、すでにもう流行していたりして。
一人っ子は、EDになりやすい。
嫌われものは、人に監視され差別されて生きてきたというルサンチマンがつよい。だから、サディストになりやすい。
いや、そうした衝動はいま、誰の中でも培養されている。
この国は、高度経済成長とともに、いつのまにか人々の中のサディズムが肥大化してきた。
人類の人殺しの歴史は、共同体の発生とともにはじまった。
共同体は、サディズムを培養する。現在の「いじめ」や「クレーマー」の隆盛も、人びとが背中にあの凶悪な「けもの」を背負っているからだ。
それは「排除の衝動」であり、サディズムとは、相手に「排除の衝動」をぶつけることだ。
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現代人が背中にしょっている気味悪い凶悪な「けもの」とは、「排除の衝動」ともいう。
権力者から庶民まで、金持ちから貧乏人まで、大人から子供まで、誰もが、あの凶悪な「けもの」を背中に負っている。
古いものを捨てて新しいものを買おうという気にさせる。そんな戦略によって資本主義は高度化してきた。消費の衝動とは、古いもの入らないという排除の衝動にほかならない。
スーパーマーケットの売り場が形の悪いきゅうりを廃棄処分にするのも、タバコのポイ捨てはいけないと正義を叫ぶのも、あなたが背中にしょっている「排除の衝動」というあの気味の悪い「けもの」から発している。
それはたしかに正義だけれど、そんな心の動きが清らかであるとも思えない。
自分が背負っているそのグロテスクな「けもの」に気づかないまま、そうやって正義ぶっているがいい。この社会はあなたたちのものだ。それは、たしかにそうだ。
僕のものではない。
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社会に排除されて生きてきたものが、排除し返そうとして、凶悪なクレーマーになる。ゲス野郎め。そうやって、自分の背中のグロテスクな「けもの」を飼いならしながら生きていろ。
おまえにも一片の正義はある。おまえはそのグロテスクな正義を社会と共有している。そのグロテスクな排除の衝動は正義であると、社会が保証してくれている。
だからおまえが反省することなんか、永久にない。
死ぬまでそうやって、薄っぺらに吠えていろ。
おまえは、ひといちばい死ぬのを怖がっている。そりゃあ、そうだ。その「排除の衝動=殺意」は、死を排除しようとする衝動の上に成り立っている。
そしてそれこそが、共同体を、この高度資本主義を隆盛に導いてきた原動力だったのだ。
死の恐怖……それこそが、おまえが飼い馴らしているグロテスクな「けもの」の正体だ。
正義づらしても、それは「殺意」なんだぞ。
正義とは、「殺意」の別名なのだ。他人を殺して生き延びようとすることだ。他人を殺せば、自分が生きてあることを確認できる。生き延びようとする衝動は、「殺意」なのだ。
正義とは、死を排除することだ。
おまえは、誰よりも死を怖がっている。それは、誰よりも自分肯定しようとする欲望が肥大化してしまっている、ということだ。
まあ勝手にそうやって生きてゆけばいいのだけれど、そんな欲望に固執しているかぎり、おまえのその思想のステレオタイプな低俗さからもけっして逃れられないだろう。なぜならそれは、つまるところ共同体の制度をなぞっているだけのことだからだ。
いや、ステレオタイプで低俗でもいいのだけれど、人としてごくあたりまえの、人にときめき反応してゆくというカタルシスもついに得られないだろう。
他人ごとながら、それはせつないことだと思うし、気味悪いとも思う。
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正義や幸せや人と人の絆を得ることは、何かを排除することであり、そうしたものを欲しがるということ自体、凶悪なあの「けもの」のしわざなのだ。
死んだ両親との愛の思い出やら、現在の子供に対するいとしさなんか、語るな。あなたは、両親をうっとうしがって生きてきたはずだ。そしていま、子供を息苦しくさせている存在になっている。自分がかつて両親とどんな関係を持っていたか、率直に思い出してみたらわかるはずだ。あなたにとって両親が生きていることは、息苦しいことであったはずだ。その思いを、いま子供に味わわせている。そういうことを思い知ることがなぜできない。
自分がいかに両親をうっとうしがっていたかということを、もう思い出せないのか。
そうやってかつての自分の率直な感慨を抹殺(排除)して、あなたの心を正義まみれにしてしまっているのは、背中のあの凶悪な「けもの」だ。
子供は、自分が親をうっとうしがっていることを知るべきだ。なぜならそれこそが君のもっとも率直な感慨だからだ。親と仲良くしているからといって、その感慨にしらんぷりするべきではない。それはそれ、これはこれだ。
親に愛されていることなんか、感謝しなくていい。いずれやつらは、君のことなんか誰かもわからないようなボケ老人になっちまうのだぞ。そのときになって、うらみごとをいうくらいなら、「ざまあみやがれ」と思ってやれ。
「ざまあみやがれ」と思えば、介護する気にもなれるかもしれない。
死んではじめて、親はいとしい人になり、神になるのだ。
生きている親なんか、ぶさいくな生き物だ。あわれんで看護してやればいい。感謝がほしいとなんか思うな。自分だって、育ててもらったことにほんとは感謝していなかったことに気づくべきだ。
わるいけど僕は、親に感謝したことなんか、一度もない。好きだったけどね。
僕は正しい子供ではなかった。そしてたぶん、人よりちょっと正直だったから、親が死んだって、悲しくも何ともなかった。
自分を肯定することなんか、他人を否定・排除することによってしか得られない。
生きてあることのすばらしさなんか、死を否定・排除することによってしか得られない。
大人たちは、自分の人生を肯定し、生きてあることの価値を語る。そう語るその顔がどんなに醜いか、そしてその背中に凶悪なあの「けもの」が張り付いていることに、君はもう気づいるはずだ。
自分を肯定せよ、愛や人生の価値をたしかめよ……そう強迫してくる「けもの」が背中に張り付いている。それで、親の介護がつらくなる。
親を看護することに、愛の尊厳なんか夢見るな。この人の最後を見届けずにおくものかという意地でやるしかないのだ。親のぶざまさを楽しんで眺めることができたやつが勝ちだ。
なんかもう、最後は勢いでいきあたりばったりに書いてしまいました。この社会のすべての人に、失礼をおわびします。