祝福論(やまとことばの語源)・「婚活」拝啓 内田樹様

「婚活」ということばが流行っているそうですね。
内田先生、あなたは、自分を肯定し(愛し)、人生や命の価値を肯定してゆく。
あなたは、奥さんや、せっかく男手ひとつで育て上げた娘さんに逃げられた。
そしてそれでもあなたは、自分を肯定し、家族とやらの価値を勝ち誇ったように主張している。
われわれがもしあなたの立場になったなら、自分なんか人間のくずだ、自分にはもう家族の価値を語る資格はない、と落ち込んでしまうほかない。
あなたとちがってわれわれは、いつだってそんな思いを胸の底に抱えながら生きている。
人は、人生につまづけば、自分の無力さや愚かさやを嘆く。それは、人としての自然な感情でしょう。そんなふうに思ったらいけないのか。そんなふうに思わないことのほうが人間として上等で、心が清らかであることの証しなのか。
そんなふうに思わないあなたは、われわれより人間として上等で、心が清らかなのか。
われわれは、この世に生まれてきたということがすでに自分の躓(つまず)きだと思っている。どんなに生きていたいと思っても、やがては老いて死んでいかねばならない。
われわれは、あなたのようになんか、よう思わない。われわれは、老いて死んでゆかねばならない。自分を肯定し、人生や命の価値などというものにしがみついていたら、死んでゆくことができなくなってしまう。
自分が老いて死んでゆくということと和解するためには、そんなこととは関わっていられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田さん、あなたが奥さんや娘さんに逃げられたということは、あなたの存在が彼女らを息苦しくさせた、ということですよ。
それは、彼女らがわがままで自分勝手で家族の価値(あるいは、家族への愛)とやらに鈍感だったからとか、ひとまずそういうことではない。そういうふうに問題を処理しようとするのは、卑しい思考だ。下種な人間の考えることだ。
しかしあなたは、問題をそのように処理して自分を納得させている。あなたの家族論は、どれもこれも、そういいたげな下心がぷんぷん匂ってくる。
自分を否定できないのは、さびしいことだ。みすぼらしいことだ。人生がうまくいっているときはそれでもいいが、つまずいたたとき、とたんに大騒ぎして醜さをさらけ出す。
ごめんなさい、とひざまずいてゆくことができない。
何がなんでも、自分は間違っていなかった、という結論にしがみつこうとする。
みっともないから、自分の愛の豊かさなんか語ろうとするな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたは、自分を肯定するカードを、何がなんでも手離したくないのだ。だから、つまずいたときでも、自分を肯定するカードでむりやり処理してしまう。相手のことなど知ったこっちゃない。
あなたの、そんな態度が、奥さんや娘さんを息苦しくさせたのですよ。
あなたは、奥さんや娘さんをいたぶって生きてきたのですよ。
いや、この世のすべての亭主が、女房子供をいたぶって生きているのだ。自分だっていたぶられているかもしれないけど、自分だっていたぶっているのだ。
家族とはもともとそういうものだし、そういうことに気づかないなんて、鈍感すぎるし、傲慢すぎる。
そのとき奥さんや娘さんがどうしようもなく息苦しくなってしまった、ということなのですよ。問題はそこにしかない、とわれわれなら思う。そうして逃げられたら、自分が世界中でいちばん愚かで醜い人間になってしまったような心地でひたすら身もだえするしかない。
われわれは、この世に生まれてきたということじたいが決定的なつまずきだと思っているから、自分の卑小さに対する「なげき」からは、けっして逃れられない。
あなたは、われわれと違って、そんな「なげき」を心の底に抱えていない。それはときにうらやましい心の動きではあるが、傲慢だとも思う。
そしてそんなふうに傲慢だから、あなたは心から人に慕われるということがないのだな、またあなた自身も心から人にときめくということがないのだな、と思う。
そういうことを、奥さんや娘さんが逃げていったという事実が証明している。
あなたに、心から人にときめくという心の動きがあるのなら、そして奥さんや娘さんがそのことに気づいたなら、彼女らはきっと逃げていかなかった。きっと逃げてくことができなかったでしょう。あなたにそんな心の動きがあるのなら、それに気づくことができないほど鈍感な奥さんや娘さんでもなかったのでしょう?
この世の多くの離婚や家出が、逃げてゆくもののわがままによるというよりもむしろ、逃げられたものの薄情さや鈍感さや傲慢さによって起きている。
逃げようとする心の愚かさをあげつらったり責めたりするのは、考えることが薄っぺらで愛が薄いからだ。そのことを内田さん、あなたはわかっていない。
何かが欲しくて逃げようとするのではない。逃げずにいられない「なげき」があるからだ。
あなたたちのような「精神の志向性」がどうちゃらこうちゃらとわめきちらしているご立派な人格者にはわかるまい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分をたえず肯定して、自分を確認し、自分への愛などというものにしがみついているから人に好いてもらえないのだ。
仲良くしているから好いてもらっていると思っていても、もっと関係が濃密になってくると、内田先生のようにあっさり逃げられてしまう。
内田先生だけの話ではない、あなたにだって身に覚えがないわけではあるまい。
近すぎる濃密な関係だからこそ、自分を否定しなげくということが必要になってくる。そんな関係においても、あなたはまだときめいていることができたか。
「なげき」がないのなら、ときめくこともできない。
仲良くしているというよろこびや、そうした関係に対する執着だけでときめいてゆくことができるか。
それは、ときめいているのではない。執着しているだけだ。
仲良くするためには、相手を幸せにしてあげなければならない。
幸せにさえしてあげれば、仲良くしてもらえる。
しかし昨日まで仲良くしていた相手がある日突然目の前からいなくなるということは、よくある。そのときあなたは、内田先生のように、幸せにしてあげていたのに、仲良くしていたのに、と恨みごとをいうのか。
仲良くしていたって、ときめくことができなければ、ときめいてもらえないのなら、相手は逃げてゆく。
仲良くしている自分、幸せな自分、幸せにしてやっている自分、そんな自分への執着に居座って生きてきたから、逃げられたのではないのか。子供や女房が精神を病んでしまったのではないのか。
引きこもりとかDVとか精神分裂とか鬱病とか認知症とか、あなたのその「自分への愛」が、相手をそんなところに追いつめたのかもしれない。そういうケースは、ずいぶん多いと思う。
そんなことに頬かむりして、そんな相手の面倒を見ている「自分」への愛に執着し、「愛している」とか「いとしい」とか「かわいそうだ」とか「不憫だ」とか、そんな感情におぼれているなんて、やっぱりどこか傲慢だし、けっきょくそれはただ薄情なだけだと思う。
われわれは、そんな美談を信じない。
相手がそんなになってしまったということは、あなたの愛が薄かったということかもしれないんだよ。あなたは、ほんとうに心から相手にときめいていたか。あなたにときめいてもらえなかったからそんなになってしまったのかもしれないんだよ。
その事態はもう、相手に対してあなたが心からときめいていなかったということの結果かもしれないんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人にときめくことができるものは、心の底に「自分へのなげき」を抱えつつ、「自分への愛」など忘れてうわのそらで生きている。
それは、人が存在するということを前提として持っていないということだ。
「空(くう)」の問題ですね。
僕のことではないですよ。たとえば、すでに死と和解して病院のベッドで静かに微笑んでいる臨終間近の人の顔を思い浮かべてみれば、という話です。
彼は、人が存在しない世界に旅立とうとしている。
しかし、人が存在するという前提をすでに放棄しているから、人と出会うと、奇跡を体験したようにときめく。
それにたいして、この世界に人が存在するという前提を持っている人間のその信念とやらは、「自分への愛」の上に成り立っている。そんなことに執着している人は、自分も人も「すでに存在している」と思っているから、出会ってもときめかない。自分も人もすでに存在していると思っていれば、「出会う」という体験はない。
「すでに存在している」と思っているから、その「すでに存在している」ものどうしいかに仲良くしてゆくか、という問題があるだけだ。
仲良くできない相手をいかに排除してゆくか、という問題があるだけだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うわのそらで歩いていていきなり目の前に人がいるのに気づいたら、誰だってびっくりするでしょう。ときめきもするでしょう。
そんなようなことです。
そして、うわのそらで歩いている人は、ぶつかりそうになったらたいてい相手のほうが微笑んでよけてくれる。
「ぼやぼやして歩いてんじゃねえよ!」と叱られるのは、そのとき、思い切り自分に執着しているように見えたからだ。
自然に相手のほうが微笑んでよけてくれる気配を持っている人がいる。そういう人は、人に好かれる。
内田氏は自分がいかに魅力的な人間であるかをさかんに吹聴しているが、魅力的な人間である必要なんかないのです。人にときめくことのできる人間であれば、たぶんどんなつまらない人間でも人に好かれる。いや、そんな人間のことを、誰もつまらない人間だとはいわない。
目を血走らせて人の目ばかり気にしている人間は、嫌われる。ほら、どこかに約一名いるじゃないですか。
内田氏も、まあそういう人種だ。すでに人が存在しているという前提で生きている。そういう人は、人を攻撃することや、人と仲良くすることが上手だ。しかし、人にときめくということがない。だから、女房子供や恋人との近すぎる関係になると、あんがいそのマネージメントに失敗する。しかし自分じゃマネージメントの天才だと思っているから、これは相手が愚かで愛が薄いせいだと納得しようとする。
そんな理屈で「愛」を語られても、われわれとしてはやっぱり、「何いってやがる」と思うしかない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太平洋のまっただなかを泳ぐ一匹のウミガメは、この世に自分と同じウミガメがいるという前提を持っていない。
だからこそ、あるとき同じウミガメと出会ったとき、思い切りときめく。
この世に人が存在しているという前提を持っていない人間は、人と出会うことに思い切りときめく。
この世は、人がすでに存在しているのではない。なぜなら、過ぎ去った過去の時間などないも同じだし、未来の時間もまた存在するのかどうかわからないからです。
われわれには「いまここ」しかない。「いまここ」には、「あなた」も「あなた」も、「私」すらも存在しない。
「いまここ」には、「世界」は存在しない。
したがってわれわれは、「精神の志向性」などという心の動きなど、基本的原理的に持つことなんかできない。
あるとき突然、奇跡のように「世界」や「あなた」が目の前に現れるだけなのです。
そして、自分の卑小さや生きてあることの困難さをなげいているものだけが、そういう「奇跡」を体験できる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏のように「結婚して家族をいとなむことは人間として大切なひとつの修行である」なんてしゃらくさいことをいっているやつは、あんがいたいていいつまでたっても結婚しないでぐずぐずしている。結婚したいくせに、ぐずぐずしている。内田さん、あんただって結婚の何たるかかがわかっていてしたくてうずうずしているのなら、さっさと再婚しろよ。相手なんか、誰だっていいのだ。誰としたってたいして違いやしない。それは、きっとそうだ。
あんたがしないのは、前の奥さんを今でも深く愛しているからでもなんでもなく、ただ人に「ときめく」という感受性が欠落しているからだ。それだけのことさ。
それとも、ちんちんが勃起する自信がないのかい?
しゃらくさいことを考えているやつにかぎってぐずぐずしている。したけりゃ、しろよ。相手なんか、誰だっていいのだ。女(男)なら、誰だっていいのだ。
したくない、するわけにはいかない、という考えは尊重しますよ。
したくてもできない、という事情もあると思いますよ。
しかし、したいくせにぐずぐずしてしゃらくさいことばかりいってるなんて、ほんとにくだらないと思う。
結婚することだって、誰かと「出会う」という「奇跡」なのだ。それ以上でも以下でも以外でもない。鬼が出るか蛇が出るか、わかっていることなんか、何もない。
やはり、自明の大地自然などというものはないのだ。
わかっているつもりでいるから、自分をなげいていないから、内田さん、あなたはそんなふうにぐずぐずと自分をかわいがってばかりいるのだ。