祝福論(やまとことばの語源)・「かなし」1

多くの人にとって、仕事はひとつのプレッシャーであり、少なからずストレスをともなっている。
そこで「仕事なんかいやだ」と嘆くことは、ささやかな解放をもたらしてくれる。
アフターファイブの居酒屋で、上司の悪口や仕事のわずらわしさをぶつけ合う。
嘆くことによって、ストレスが吐き出される。
嘆かないで耐えたままでいると、どんどんストレスがたまってゆく。
嘆くことは、ひとつの解放なのだ。
つまりそれは、自分にまとわりついている意識を外に吐き出すことであり、そうすれば、外部の世界や人に反応する心の動きを取り戻すことができる。
世界や人にいきいきと反応できる人は、心に「嘆き」を持っている。
自分に執着してゆく心と、自分にまとわりついてくる「もの」を嘆いて外部に反応してゆく心がある。
自分に執着してストレスをため込んでいると、いつかそのツケがまわってくる。何かの出来事をきっかけに、一気にストレスが表面化してきて、パニック症候群になったり、強迫神経症になったり、鬱病になったりする。
用心深くいやなことは避けて生きているつもりでも、自分に執着しているかぎりそれは、ストレスをため込んであるのと同じなのだ。
このごろ、「世界ウルルン」なんとかというような視聴者を泣かせるテレビ番組が流行っているのも、現代人は「嘆き」を必要としているからだろう。
他人事ではない。現代人は、誰もがそういう瀬戸際で生きている。
誰もが、薄い氷の上で踊らされている。氷は、いつ割れるかもしれない。
嘆いたほうがいい。そうすれば、世界や人にいきいきと反応できる。
嘆かないで、自分に執着していってもろくなことにならない。クレーマーになって他人を責めてゆくことによって、自分に対する執着を確保してゆく。また、たがいの俗物根性を許しあい、たがいに自分を肯定しあいながら仲良しの輪をつくってゆくことだって、けっきょくは自分の中のストレスや嘆きを隠蔽しているのと同じで、「嘆き」がないということにおいて、クレーマーもいわゆる「いい人」たちも、つまるところは同じ穴の住人だろう。
それでいいのか。そんなことばかりしていると、いつかそのツケがまわってくる。
「世界ウルルン」の涙で、それは解決するのか。
安いチューハイで、上司の悪口や仕事のわずらわしさをぶつけあって嘆いている愚かさのほうが、さかしらげに人を責めてばかりいるクレーマーや、空々しく「いい人」ぶっているよりなんぼかましではないのか。
このブログだって、まあそんなようなことです。誰かを責めているのでも、「いい人」ぶりたいのでもない。
中西への批判も、まあ「上司の悪口」みたいなものです。
愚かしく嘆いているだけです。