祝福論(やまとことばの語源)・もう一度雑感

前回、人の心の動きの三つのパターンについて書きました。
えげつない「クレーマー」になること、自分の俗物根性に居直って「いい人」になること、そして生きてあることを「嘆く」こと。
「その三つの心の動きは誰の中にもあるじゃないか」というひとがいるかもしれない。
そんなことくらい、僕だってわかっています。そんなけちな心理学はたんなる前提であって、結論ではない。考えることは、そこから始まるのだ。
そりゃあ誰れだって、そんな心の動きをすべてもっているでしょう。しかし、人の人格は、不可避的にそのどれかが突出してしまっているのだし、そのときその場ではそのどれかの心の動きが突出したかたちになるほかないのです。「いまここ」のこの瞬間において、その三つの心をていさいよく並べて見せることなんかできないし。並べたからそれですべてが許されるというものでもない。三つ並べることじたいが卑しいのだ。
すべての心の動きをもっているから、えげつないクレーマーになってもいいのか。
えげつないクレーマーになって大騒ぎしながら、俺だって「いい人」なんだといっても、誰も認めてくれない。
ことばの暴力でさんざん人を攻撃しておいて、俺だって「嘆く人」であり「いい人」なんだ、と自分で自分を免罪してゆく。そのために「人間にはいろんな面がある」というお題目をでっち上げて、自分を慰めてゆく。
ほんとに免罪できるのでしょうかね。慰めることができるのでしょうかね。
人間にはいろんな面がある、というのは自分を許すためのたんなる詐術であり、それは、自分に執着しつつ自分を見るまいとしていることでもある。
嫌われ者が、俺にはおまえらにはわからないもっと別の面がある、といって自分をなだめる。
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「もうひとつの自分」とか「別の自分」というイメージなんか、ただの幻想だ。
今ここにおいて悲しんでいれば、「自分は悲しい心しか持ち合わせていない」ということなのです。
「悲しむ」ということは、そういうことです。「ときめく」ということは、そういうことです。そのときその場においては、その心が自分にとっての「唯一」であり「すべて」なのです。
クレーマーになったら、クレーマーであることが自分の「唯一」の人格であり、人格の「すべて」なのです。
「人間にはいろんな面がある」といってごまかしきれるなら、誰の精神も病むことはない。
誰れだって、そのときその場で、つねに、この心この人格が自分にとっての「唯一」であり「すべて」だ、という自覚と向きあわされ、そこからけっして逃れられないから、心が病んでいくのだ。
逃れられないから、ひどく恥ずかしがったり、怒ったり、泣いたり、愚かな恋に落ちたりしてしまうのだ。
「人間にはいろんな面がある」などといって自分をごまかし、すましていられるのなら、心を病む人間なんかいない。誰も悩まない。
今ここにおいて自分が愚かな人間であるのなら、それが自分の心の自分の人格の「唯一」のものであり「すべて」なのです。
まあ、僕は、そういうふうにしかよう思わない。
あの連中のように、かしこくもこすっからくもないから。
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古語としての「かなし」は、「愛(かな)し」と書かれることが多い。
古代の日本列島の住民にとっての「愛」とは、「かなし」だったらしい。「いとしい」ことも「哀しい」ことも、「かなし」といった。
現代人のいう「愛」のことはよくわかりません。
西洋的な「LOVE」と、古いやまとことばの「かなし」とは、ちょっとちがうだろう。
愛とは献身である……「LOVE」のことは、おおよそこんなふうに語られる。
愛とは「あなたの役に立ちたい」と願うことであり、「あなたのおかげで生きていける」と感謝することであり、そういう気持ちを交歓することが「愛し合う」ことだ、ということだろうか。
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仏の「誓願」とは、衆生を救済したいと願うことである……そんなようなお題目も、今となってはよくわかりません。
他人を救いたいと思う気持ちが尊いとも、べつに思わない。自分の中のそんな心の動き(誓願)に執着して自分を肯定してゆくことも、やっぱり今となってはあまり品のいいことではなかろうと思う。
そんなこと、どうでもいいじゃない。
誰もが「あなた」や「世界」にときめいて生きていれば、「結果」として救ったり救われたりということも起きてくるだろう。しかしそれは、あくまで「結果」であって「願う」ことではない。そんなことや、そんなことを「願う」ことが尊いとも思わない。
僕はもう、誰を救いたいとも、誰かの役に立ちたいとも思わない。いや、ちょっとは思うけど、そんな自分がくだらないと思う。そんなことは、人が「あなた」や「世界」にときめいた「結果」として起きてくることであって、「願う」べきことではない。
救っても救わなくてもどっちでもいい。救えばえらいというものでもない。
とりあえずは、「あなた」や「世界」のときめくということ以上のものを要求されたくはないし、そんなものを自分に要求するつもりもない。
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べつに立派な人間になりたいとも思わない。僕のことをけなしたければけなせばいいし、誰に対しても、好きになってくれとも願っていない。そんなことは、「あなた」の勝手なのだ。
ただもう「あなた」や「世界」にときめいていられたらそれでいいし、それがなければ生きていられない。
たぶん、そういう能力は誰にだってそなわっているはずで、それ以上のことを要求されても、いまはもう困るばかりだ。
「人を救いたい」とか「誰かの役に立ちたい」とか、そんな心の動きを人に要求するべきではないし、そんな心の動きをもっているからといって、それがうぬぼれるに値するものだとも思わない。
いや、そんな下品なことは願ってはいけないのだ、と思う。
人がなぜ「あなた」や「世界」にときめくことができるかというと、誰の中にも「意味」以前の原初的な心の動きがあるからだろう。
まあ、ひとこといわせていただくなら、「人を救う」とか「誰かの役に立つ」というようなことは、それを「願う」ことによってではなく、「世界」や「あなた」にときめいた「結果」としてこぼれてくるだけのことでしょう。誰もが「あなた」や「世界」にときめいていれば、そういうことは必然的に起きてくるのであって、それは願うべきことでもなんでもないのだ。そんなことでうぬぼれたり、正義づらしたり、恩に着せたりするものではない。
「意味」にとらわれているから「願う」という心の動きが生まれてくる。それは、卑しい心の動きなのだ。
「仏の誓願」なんか、くだらない。そんなものは、ただの心理学なのだ。
仏は、「誓願」など立てない。
「仏の誓願」で人が救われるのなら、とっくに誰もが救われている。人間が救われない生きものだということは、仏はそんな「誓願」など立てていない、ということだ。
誓願を立てない」という仏性がある。それは、臨終間近の、ベッドに寝たきりの人の静かに微笑んでいる顔を思い浮かべたらよくわかる。
誓願」などいうものくらい、僕もあなたも、薄汚いスケベ根性として人間なら誰だって持っている。
それは、「仏の誓願」のように見えて、じつは「制度性」という名の「共同体の誓願」なのだ。
「仏の誓願」などというものはない。
「仏の誓願」なんて、どこかのあほが安っぽい心理学で人間を語っているのと同じだ。
ああ、またまた回り道をしてしまった。
これでは、いつまでたっても「かなし」ということばの考察にたどり着けない。