やまとことばという日本語・「どうせ……」という美意識

ジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、大好きな映画のひとつです。
五つの短編を集めたオムニバス形式で、ある夜の、それぞれ別の場所で生まれたタクシーの運転手と客の会話、という構成です。アメリカ西海岸から始まって、ニューヨーク、パリ、ローマ、スエーデンのストックホルムと移ってゆきます。
僕はミーハーだから、出だしの、ウィノナ・ライダーが下町の少年のような格好をしてくわえタバコでタクシーを運転している、という絵を見ただけでもう得した気分になったのだけれど、どの短編も、それぞれも興味深くてキュートなエピソードになっていました。
僕がジム・ジャームッシュのどこが好きかというと、「人間なんてどうせ……」というちょっとやくざでキュートな視線を持っているところです。彼は、人間の美しさも醜さも描かない。「人間なんてどうせこんなものさ」というところを、とてもキュートに描き出してくれる。
その「どうせ」という感覚は、皮肉でも絶望でも怒りでもない。彼は、そうやって人間を祝福してみせる。
それは、小津安二郎の映画と共通するタッチです。
彼は、小津映画の信奉者で、そこから多くの影響を受けている。
たとえば、「ナイト・オン・ザ・プラネット」におけるフランスの夜のタクシーでのエピソード。そのタクシーに乗り込んだ二人の黒人はパーティー帰りで、アフリカのどこかの国のお役人らしい。ふざけ半分で運転手の黒人をからかいばかにする。最初は我慢して相槌を打っていた運転手もとうとう怒り出して、その二人を車も通らないような場所の深夜の路上に放り出してしまう。
このシーンは、笑えました。
笑えたのはしかし、そこにどんな政治的主張も道徳観も盛り込もうとしていないからです。ただもう飄々と、「人間なんてこんなものさ」というちょいととぼけたタッチで描いているだけです。
これは、小津映画の視線です。小津映画は、ほとんどが、ありふれた庶民生活のありふれたストーリーの喜劇仕立てです。それでもそれが、いわゆる芸術映画になっているのは、彼の美意識の上に成り立っているからです。
チャップリンヒューマニズムで喜劇を撮ったとすれば、小津安二郎は、美意識で喜劇を撮って見せた。そこが、外国人にとってはとても新鮮に映るらしい。
日本列島には、ほんらい人間中心主義のヒューマニズムなどというものはないのですね。そしてそれは、この島国の限界ではなく、可能性なのです。少なくとも、ジム・ジャームッシュをはじめとする外国人はそう評価してくれている。
そうして現在のこの国の若い映画人がジム・ジャームッシュから何かを学ぼうとしているのは、この国がいささか西洋かぶれしすぎてしまっているからかもしれない。
それは、日本人が日本的感性を学ぼうとする、逆輸入の現象なのだ。
「どうせ……」という美意識。
小津映画にヒューマニズムや日本的道徳を見ようなんて、邪道です。『晩春』の中の原節子は、父親の前では、一度も正座していない。父親の対して、じつはまるで女王様のように振る舞っている。それでも原節子が演じれば美しいし、小津安二郎が撮れば美しい。彼は、人間の絆なんか描いていない。『東京物語』は、たとえ家族であっても一人一人がみな孤立している、というところを描いて名作たりえているのだ。それを、幸せとも不幸ともいわないで、「人間なんて<どうせ>そんなものさ」というタッチで描いている。
小津安二郎がなぜ、自分の墓碑銘に「無」という一字だけをしるしているのか。それは、「人間なんて<どうせ>そんなものさ」という美意識なのだ。
すなわち、「細(くは)し」、という日本列島の美意識。
それは、ただ「あきらめる」ということではない。先が細くなって「消えてゆく」かたちの、その「何もない」ところから「美」を掬い上げてゆく意識なのだ。
「どうせ……」というやまとことばには、そういう感慨がこめられている。
また、「ナイト・オン・ザ・プラネット」のパリの夜の場面。例の黒人運転手のタクシーに乗り込んだ若いめくら女は、かっと目を見開いているが、瞳がなく、白目をむいている。その一歩間違えればグロテスクになってしまう表情をいかにキュートに撮って見せるか、そこでジム・ジャームッシュは勝負したのだと思う。そしてみごとに成功させている。その孤独と孤立性、「セックスの良さはあんたなんかよりも私のほうがずっとよく知っているわよ」と運転手に向かってあたりまえのように言い放つその態度は、怒ってもいないし、ひがんでもいないし、あきらめてもいない。運転手はさっきの不愉快な一件があったから、今度は自分がからかって気晴らししてやろうかという気になっているし、女は、こんなやつにばかにされてたまるものかとけんか腰の受け答えをする。しかしその不協和音がどこかおかしくて、しだいにそこはかとない連帯感のようなものが芽生えてくる。そういう絶妙のタッチは、きっと小津映画から学んだものだ。
ジム・ジャームッシュもまた、人間の孤立性を幸せとも不幸ともいわないで、「どうせそんなものさ」といっている。
古代の日本列島の住民が、「くはし」といったその美意識が、万葉集研究の権威である中西進さん、あなたにわかりますか。
末広がりで先が細くなってゆくかたちに美を見出してゆくということは、そういうことなのですよ。
それが、「くはし=くわしい」の語源だと思いますよ。
「くはし」は、ただ「小さい」とか「こまやか」とか、そんなことじゃない。
消えていった先の「無」から「美」を掬い上げてゆくという心の動きなのだ。
「くはし」に関しては、日本列島の美意識の原型だから、ただの蛇足かもしれないが、もう少し書きたいことがあります。