内田樹という迷惑・醜悪な身体論

このごろ、どうしても内田氏のブログを見てしまいます。それは、内田氏よりも「イカフライ」氏の発言を追跡したいという気持を抑えられないからだが、そうすれば、内田氏の書いている部分もつい見てしまう。
昨日は、山折哲雄氏と対談し、「身体論」では何から何まで話が合って楽しかった、と書いていました。
しかしねえ、それはただ、山折氏が話を合わせてくれただけかもしれない。
つまり、のうのうと「話が合った」といえるその厚顔無恥で自慢たらしいところが、僕には耐えられない。
悪いけど、僕ならこんな言い方はぜったいしない。恥ずかしいもの。あくまで「話を合わせていただいた」という。あの高名な研究者を自分ごときと同じレベルに見積もるような言い方をするのは、その人を辱めているのと同じだ。礼を失している。恥知らずだ。
だいたい内田氏のごとき鈍臭い運動オンチに「身体論」の何がわかるというのか。僕が読んだ範囲では、ただの観念的な言葉遊びの域から、一歩も出ていない。なんにもわかっとらん。このていどのへりくつに感心している人の気が知れない。そのことは、「武道の極意」や「相撲」のテーマで多少は感想を書きました。
それにしてもこの人は、どうしてこうも自慢たらしいことばかりいうのだろう。こういう態度は、下品で野暮ったい。自他ともに認めるご立派な大学教授の身で、どうしてそこまで見栄を張らなきゃいけないのか。
そういう自慢は、下々の者たちの虚勢や強がりに譲ってやればいいじゃないか。
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先日も、自分が所属している武道の流派のお披露目会が武道館であって、それに出演したことをさも得意げにくだくだしく書いてありました。今まで30年休みなく出てきたからあと10年は記録を伸ばしたいのだとか。しかしそば屋のご隠居の茶飲み話ならともかく、哲学教授ともあろう人が軽々しく「未来」の時間を口にするものじゃないだろう。来年の話でもっとうしいのに、10年も先のことをよく照れもせずしゃべりちらすことができるものだ。
あなたなんか三流の武道家なのだから、少しはつつしめよ。俗物め、「今ここ」と対峙して生きるほんものの武道家は、10年先のことなんかむやみに口にしない。
で、そのあと二人の人気作家とホテルで一緒に食事したり飲んだりして盛り上がって楽しかったとか、まるでアイドルタレントが私生活を語るような調子ではしゃぎまくって書き散らしている。
夏休みの絵日記じゃあるまいし、そんなことは、「今日はいろいろあって疲れた、以上」と書いておけばすむことだろうが。それでこそ男の渋みというか、大人のたしなみというものだろう。わざわざ他人にひけらかして自慢し、他人のひがみ根性を逆撫ですることもないじゃないか。
1日1万もアクセスがある人気ブログで、ブロガーはぜんぶ自分の信奉者だと思っていやがる。他人なんか、自分の自己顕示欲の道具だとくらいにしか思っていないらしい。たぶんいろんな立場の人が見ているのだ。中にはひがみ根性を逆撫でされて不愉快がったり、あほかと軽蔑したりする人もいるにちがいない。そういう「他者」に対する畏れというものがまったくない。
「弱者につばを吐きかけるようなことばかり書いている」と「イカフライ」氏は言っているが、まったくその通りだと思う。そんな傲慢なことばかり書いているから、「イカフライ」氏とか僕のような弱者につばを吐き返されるのだ。
ひがみ根性を持つほうが悪い、とは僕は思わない。ひがみ根性はせつなくつつましやかな感情だ。それに比べたら、はしゃぎまくって自慢話を垂れ流す自己顕示欲の方がはるかにたちが悪いし、醜い。
そういう態度は、あなたの人間性のみすぼらしさが浮かび上がるだけで、少しもセクシーじゃないんだよ。このイモが・・・・・・。
人間もここまで醜くなったら無残だな、と思うけど、それが一流づらしてのさばっていやがる。いったいこの世の中は、どうなっているのか。
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山折氏と対談したときに内田氏が得意満面になって吹聴したのは、こういうことらしい。
今の子供たちは、身体の働きが鈍くなっているから、妄想したり夢見たりする力が足りない。そうしてお定まりのように、自分がいかに夢見る(妄想する)少年であったかを、ブログの中でとくとくと自慢している。大人になったらきれいな奥さんを持って大学教授になることまで想像していたそうです。
内田さん、身体の働きが活発であるとか鈍いということは、そういうことじゃないのですよ。あなたのそのりくつは、妄想癖が強かった自分を正当化するための理路をこねくり上げているだけのことにすぎない。
妄想する(夢見る)ことは、制度的な観念なのだ。純粋で無邪気な子供らしい憧れとは別のものだ。子供らしい憧れは、つねに「今ここ」に現れた世界に向かってはたらいている。
身体が活発に働くとは、身体(=自己)にたいする意識が消えて、「今ここ」の世界にいきいきと反応している状態のことをいうのですよ。妄想して自分の世界に浸ることじゃない。意識は、世界と身体(=自己)の両方を同時に意識することはできない。したがって意識が世界に反応して身体が活発に働いているときは、身体や自己に対する意識は消えている。身体が活発に働くということは、そういうパラドックスの上に成り立っているのですよ。
走るとは風になることだというじゃないでですか。体(自分)のことなんか忘れているときにこそ、体はいきいきと動く。「今ここ」の目の前の世界に反応しているから、夢見たり妄想したりしている暇なんかないのですよ。
すなわち、内田氏がひといちばい夢見る(妄想する)少年であったということは、体の動きがものすごく鈍臭い少年だった、ということを意味する。
語るに落ちるとはまさにこのことで、もしかしたらけっこう根性悪でひねこびた少年だったのかな、という想像さえしたくなる。
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1950年代から60年代にかけての内田氏の子供のころは、社会がつねに未来の豊かさを夢見て(妄想して)いた。そして実際に、右肩上がりの経済成長によって、それらの夢(妄想)をつぎつぎ実現していった時代だった。
夢見る(妄想する)ことは、時代の意識だったのです。つまり内田氏は、いともやすやすと時代に飲み込まれてしまうというか、時代の尻馬に乗ってしまう少年だったのですね。
僕は、小学校の6年のときに田舎から都会に転向してゆき、都会にはそういう軽佻浮薄でお勉強のよくできる子供がいっぱいいるのに驚いた経験がある。彼らは、お勉強以外の社会の情報などもじつによく知っていたし、人生について語る言葉も持っていた。それが、とても不思議だった。僕には、学校で習った知識しかなかったし、人生のことなど考えたこともなかった。
都会では、みんなが夢や妄想を語り合っていた。そういう社会=時代だったのだ。社会=時代に簡単になついていってしまう、それがあのころの都会っ子であり、内田氏もそのままの少年だったのだろう。そこに内田氏の強みと限界がある。
僕は田舎では勉強がいちばんだったが、都会に来て普通の子になってしまった。しかし運動神経は田舎では普通だったが、都会に来てからは誰も僕の前でそれを自慢できなかった。
だから、内田氏のごとき運動オンチに薄っぺらな「身体論」を語られるのは、めちゃめちゃむかつくのですよ。
あのころ、田舎の子と都会っ子では、運動能力に著しい差があった。田舎の子のほうがずっと体は貧弱だったのに、運動能力ははるかに勝っていた。なぜなら田舎の子には「情報」が不足している代わりに、「今ここ」に反応して生きる力とメンタリティがあったからです。
とはいえ、田舎の子だって、時代の影響からまるっきり無傷というわけにはいかない。団塊世代をはじめとして戦後20年のあいだに生まれた世代からは、世界に通用するような天才スポーツ選手は、ついに現れなかった。戦前の世代には、水泳の古橋広之進をはじめ、世界的に活躍した選手はたくさんいた。そして戦後世代のあとのいわゆる「新人類」と呼ばれる世代からもイチロー小野伸二のような天才が生まれている。
戦後世代から天才が現れなかったのは、誰もが内田氏のような未来を「夢見る(妄想する)」観念傾向を多かれ少なかれ持ってしまっていたからです。
そうやって意識がつねに身体(=自己)に向いていると、けっして運動神経は発達しない。
身体は「未来」を妄想しない。つねに「今ここ」に反応する装置として機能している。身体は、空腹の鬱陶しさに気づく装置であって、うまいものを食いたいと妄想する装置ではない。身体にとっては、めざしと味噌汁の夕食も、フレンチのフルコースも、たいして違いはない。ちょっと考えれば当たりまえのことだが、ここのところが、内田氏のように自分の身体を支配しようとし、そんな自分を正当化しようとすることに躍起になっている運動オンチには、ついにわからないのです。
「妄想力」が身体をいきいきとはたらかせるなんて、あほじゃないのかと思う。自分のその鈍くさい体のことを考えればわかるだろう。
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未来を夢見たり妄想したりしている子供が、ほんとうに健全だといえるでしょうか。小学生のくせにきれいな奥さんをもらって大学教授している将来の自分を思い浮かべるなんて、ちょっと気味が悪いと思いませんか。病気ですよ。いや、最近の子供の中にもときどきいるらしいのだけれど。
子供の時間は、ゆっくり過ぎてゆく。それは、「未来」や「明日」のことをリアルにイメージするような観念傾向(妄想)を持っていないからです。
例えば、学校帰りの道端で、しゃがみこんで蟻の行列を眺めているうちに時間の経つのも忘れてしまう。そのとき彼は、どんな未来も妄想も抱いていない。ただもう、蟻の行列そのものに心を奪われている。これが、子供が持っている精神の基本的なかたちでしょう。
教室の窓から差してくる午後の光に目を奪われてぼんやりしてしまう。子供の記憶に残ってゆくのが、そういう現実体験としての「光景」であるのと、頭の中に描いた「妄想」であるのと、どちらが健全でしょうか。
すくなくともわれわれの身体は、「今ここ」の目の前にあらわれた光景に反応して動くのであり、その能力は、じつは妄想なんかしないでぼんやりしてしまう体験によって培われてゆくのではないだろうか。子供は、「未来」を忘れて「今ここ」を生きている。
たとえば目の前に何かが飛んできて思わず身をかわした。それは、目の前にあらわれた現実の「光景」に心を奪われる体験なのだ。「今ここ」に反応してゆくことによって、身体はいきいきとはたらくのだ。
内田少年の心は、身体が「今ここ」に反応することをやめて、たえず未来や遠い世界を「妄想」していった。彼は「今ここ」を喪失して生きていた。それは、ひとつの「病理」であり、時代そのものの「病理」でもあった。だから彼は、東大に入学できた代わりに、体の動きの鈍くさい大人になるほかなかった。
世間の子供がわれを忘れて蟻の行列に見入っているとき、聡明な内田少年は「妄想する自分の世界」に潜りこんでいった。そんなスケベったらしいガキだったから、鈍くさい運動オンチになってしまったのだ。自分じゃ自慢しているつもりだろうが、第三者から見れば、彼がいかにグロテスクで病的な人間であるかを満天下にさらしているだけなのだ。
内田氏がなぜ「身体論」を語りたがり、武道に精を出すかといえば、自分の鈍くさい運動オンチを隠蔽したいからだろう。内田さん、はっきり言ってあなたの身体論なんか、スカスカですよ。未来を妄想してばかりいたその「病理」を自覚できないかぎり、あなたの身体論に「身が入る」ということは、永久にないでしょう。