閑話休題・サッカー観戦の醍醐味って何?

もう一回だけ、サッカーのことを書きます。
サッカーに関しては、僕はまったくミーハーなファンです。
サッカーの本質を語る能力も考える能力もないし、そんなことにこだわるほどのオタクでもない。
僕が柳沢を好きなわけは、日本で走る姿がいちばん美しいフォワードだからです。
こんなセンチな言葉を使うべきではないのはわかっているのだけれど、その姿には、ただ早いだけじゃなく、なんというか、無心でひたむきで、しかもどこか傷つきやすくせつなくて、そんな無垢の魂みたいなものを感じてしまう。
彼はフォワードでも、サイドラインまで走っていって球を受けたり、ウイングの選手をサポートしたりすることもひんぱんにする。しかもポストプレーの球離れがいいから、マークに着いた相手の選手はあっちこっち一緒に走らされたあげくに、ついレイトタックルの反則なんかをしてしまう。柳沢に着いた選手は、柳沢と一緒に走っているだけで、何もサッカーさせてもらえない。味方の攻撃のときに自分がボールに触ってプレーしていると、柳沢は、ピッチの反対がわのいちばん遠いところまで行ってしまっているから、味方のボールが奪われたときは必死になってそこまで走っていかないといけない。
だから柳沢は、相手選手に、必要以上に小突かれたりされてしまう。相手は、いつも柳沢に嫌がらせしていないと不安なのだ。気を抜くと、すぐ置き去りにされてしまう。
マーカーは、フォワードにサイドラインのところまで来てプレーされるのは、ほんとにいやなのだ。ピンチになれば、柳沢より先にゴール前まで戻らねばならない。僕がスタンドに行っていたころの柳沢は、いつもサイドライン付近で相手選手に小突かれたり蹴られたりしていた。
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しかし今の柳沢は、弱小チームにいるから、相手もあまり嫌がらない。柳沢がサイドライン付近でいいポストプレーをして中央に走りこんでいっても、そのときはもうボールを奪われていたり、味方が勝手なロングシュート打ってしまったり、相手はちっとも怖くない。
柳沢からすれば、サッカーの喜びはここからだろう、という攻撃の場面になっても、誰ともイメージを共有できない。
そのとき柳沢は、例えばいま自分が右のサイドライン付近でボールをはたいたら、そこから逆の左サイドをえぐっていくチャンスが生まれると思う。ところが、味方は、なんだかわけのわからないことをもちゃもちゃしているだけで、ボールを奪われたり、ばかなロングシュートを打ったり、そんなことばかりを繰り返している。
たとえ左のサイドをえぐっていったとしても、自分は最後の最後まで我慢をして一気に中央に走りこもうとしているのに、誰も見ていてくれない。けっきょく中央で相手のマークに囲まれながら立ち往生している選手のところに蹴ってしまう。そんな選手が自由にシュートを打たせてもらえるわけないだろう、という話。
というか、パスやクロス(センタリング)の精度があまりに低すぎて、柳沢の早い動きに合わせるというレベルのサッカーになっていない。
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柳沢は、蹴るのはちょいとうまいていどだが、走りこみながらヘディングシュートをする姿の美しさとうまさは天下一品だ。きざな言い方をすれば、味方の思いのこもったボールに対する彼の少年らしいときめきが、その姿にあらわれている。
JOMOカップで柳沢がハットトリックをした試合があった。その最後の三点目は、小野が左サイドをえぐって上げたセンタリングに合わせたヘディングシュートだった。そのフォームもボールのコースも勢いも完璧で、そりゃあもう美しいゴールだった。キーパーはパラグアイチラベルトだったが、手も出せないまま、左隅にきっちり吸い込まれていった。
けっしてかんたんなシュートではない。ニアポストのここしかないというところに放り込んでみせたのだ。きっちりタイミングの合ったいいセンタリングでなければ、柳沢だってあそこまで完璧なヘディングはできない。
あのとき雨でボールが濡れていた。しかも右利きの小野はそれを左足で蹴って、走りこんだ柳沢にピンポイントで合わせてみせた。柳沢は、小野が蹴る前にゴール前の密集を縫うように走り出していた。そうして抜け出していった先にボールが来た。そのとき小野は、蹴る前に柳沢を見たのだろうか。いや、見ていないような気がする。だったら、柳沢の声を聴いただけで、彼がどこからどこに向かって走ろうとしているのかがわかったのだろうか。プロというのは、どうやらそういうものらしい。「声だけでだいたいわかります」と小野が言っていたことがある。
ゴールを決めて小野に駆け寄ってゆく柳沢は、すごく照れくさそうだった。小野の上げたセンタリングや自分のヘディングの完璧さ、今起こったことの「奇跡」にとまどっているような表情だった。
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しかしサッカーは、せつないスポーツだ。そんなふうに味方とイメージを共有できる瞬間なんて、めったにない。だからこそできたときのよろこびも大きいのだろうが、けっきょく一度もそんな瞬間を体験することのないまま試合が終わってしまうことの方が多い。
去年のレッズは弱いチームではなく、それぞれの選手がそこそこの技術を持っていたから何とか優勝争いができたものの、悪いけど、ほんとにイメージ貧困なサッカーばかりしていた。
小野が気の毒でしょうがなかった。小野のレベルでサッカーをイメージできる選手なんかひとりもいなかった。というか、なまじ自信があるから、ゴール前に行くと小野のことなんかほったらかしでイメージ貧困なプレーに走ってしまう。それで何とか勝ってしまう。
しかしプレーが中断するたびに小野は天を仰いでいた。小野が中盤でゲームメイクして上がっていっても、誰も小野のことなんか見てくれない。自分たちでなんとかできると思っているプレーばかりしていた。
そのつけが、最後のACミランとの戦いにはっきりあらわれていた。見ていて僕は、日本人として恥ずかしかった。向こうがプロなら、こちらは中学生のサッカーをしていた。ACミランがうまかったというより、レッズのサッカーのレベルが低くてそう見えただけだ。下手だったとはいわない。しかし、めちゃめちゃイメージ貧困だった。しかもあのときは小野がいなかったから、中盤でボールを落ち着かせることのできる選手もいなかった。なのに監督は意地を張って小野を使おうとしない。僕はもう、「やめてくれ」と悲鳴を上げそうになった。
だから鹿島にも逆転されてしまったのだ。
味方選手とイメージを共有できなくて、サッカーをする楽しみがどこにあるというのか。ボールを蹴る喜びだけですむのなら、試合なんかしないで練習ばかりやっていればいいのだ。去年一年、小野はほんとにせつなかったろうと思う。そして今、それを柳沢が味わっている。
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もう言っちゃいますよ。小野は、世界でいちばんボールタッチの美しい選手です。だからヨーロッパ(オランダ)に行って、一試合だけで、そのボールタッチを「ベルベットパス」なんて表現されてしまった。
僕は、小野が活躍してもしなくても、彼がボールに触っているのを見るだけでお金を払う価値がある、と思っている。何しろミーハーですからね。それだけで、胸がきゅんとなってしまう。
僕は、世界中で小野以上にボールタッチの美しい選手を知らない。
同じように、柳沢がピッチの上を駆け回っている姿は、なんだか「風の又三郎」という童話の世界のようなものを感じさせられる。
柳沢は今、大人のプレーに脱皮しなきゃ、と考えているのかもしれない。しかしそんなことは無用だ。大人になんか、サッカーをやめればいつでもなれる。サッカーは、少年のスポーツだ。少年でいられないのなら、小野も柳沢も今すぐサッカーをやめちまえ。