「まれびと論」・10 強引なシュートは正義か

縄文時代にレイプなどなかった。「ツマドイ」をする縄文の男たちは、女の家にずかずか入り込んでゆくことができなかった。戸の前に立って、けんめいに口説きつづけた。われわれは「訪(おと)なふ」という言葉にその痕跡を見ることができる・・・・・・ということは前回書きました。
日本サッカーは得点力がない、強引にシュートすることができない、などとよくいわれるが、それは縄文以来の伝統かもしれない。
サッカーのゴールなんて、強姦みたいなものですからね。
うまく誘惑されて気がついたらやられていた、なんておしゃれなゴールは、そうめったにない。そういうゴールを演出できる日本サッカーの司令塔は、今のところ小野伸二しかいない、と僕は思っている。
日本サッカーは、ゴール前までボールを持ってゆくことはできても、そのあとのシュートがしょぼい。シュートすらできないことも珍しくない。そんなことばかり言われています。
できないなら、しかたないじゃないですか。上手に誘惑できる口説き方を覚えた方がいい。
そういうコンビネーションプレーのセンスにおいては、たぶんほかの国を追い越すだけの伸びしろを持っている。伸ばしきれないのは、コーチや監督やサッカー協会やOBや評論家やファンまで、みんなへぼだからでしょう。
ちょっとくらいドリブルがうまいとか足が早いとかいったって、外国相手じゃ通用しないって。
オシムが、ある司令塔の選手に、「そうじゃないだろう」と言ってもわかってもらえなかったんだってさ。
柳沢敦小野伸二が近くのポジションでプレーできる機会は、とうとうなかった。それが残念です。
いや、一度だけ、札幌でベネズエラと戦ったときがあった。二人のコンビネーションがうまく機能し、2点取ってヒーローインタビューされた柳沢が、「伸二のパスがすべてです」なんて、泣かせることをいっていた。
2点とも、柳沢は、小野が蹴る前に動き出していた。小野はその先へ正確に蹴ってやった。柳沢は小野のパスをもらいたがっていたし、小野は柳沢に出したがっていた。そういうことを、相手チームの選手は知らない。だから、かわいそうなくらい柳沢に置き去りにされていた。
あの試合を生で見ていた人たちは興奮しただろうな。まさしく、これがサッカーだ、という点の取り方だった。一瞬風が吹き抜けるように幻惑的で・・・・・・いまや遠い思い出だけど。
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今日はもう、サッカーの話をします。
世間では、柳沢のプレーのことを「へたれ」だのと批判する人が多いけど、僕は支持します。
たとえば、日韓ワールドカップ直前の親善試合のことです。
そのとき日本チームは、中田ヒデが真ん中の司令塔で、柳沢がフォワード、小野は右サイドバックをやらされていました。
中央でボールを持った中田は、そのままドリブルで、やや右よりのペナルティエリア近くまで上がって行きました。
それを見て小野は、中田を追い越しながら、フリーで右サイドをけんめいに駆け上がって行った。
攻撃の定石でいえば、中田が駆け上がってゆく右の小野の前にパスを出し、そこから折り返しのセンタリングを上げてフォワードが合わせる、まさにこのかたちでした。
しかし中田は、ライバルである小野にパスを出したくなかった。
できれば直接柳沢に出したかった。そして柳沢がゴールすれば、自分の手柄にもなる。
では、そのときゴール前の中央にいた柳沢はどういう動きをしたかというと、自分をマークしている相手ディフェンダーを引きつれて右の方に流れてゆきました。そして流れていった先にももうひとりディフェンダーがいたから、けっきょく2対1ではさまれてしまっていた。
これでは、パスの出しようがない。
しかし、柳沢が流れていったから、中央に選手のいないスペースが少しできた。だから中田は、そこに向かって強引にミドルシュートを放った。
ボールは、あいまいな軌道でゴールポストの上を越えていっただけだった。
そのときです。柳沢が、すごい顔をして中田をにらんだのです。柳沢のあんな顔を見たのは、はじめてだった。彼は、相手チームの選手にカッカすることはときどきあるけど、チームメートにはぜったいそんな顔は見せない。おまけにその対象が、チームの王様である中田だったのです。
よほど腹がたったにちがいない。
もちろん、自分にパスを出してくれなかったからではない。
そのとき彼はすでに、右サイドの小野にボールが渡ることを見越して動き出していたのです。
彼が右の方に流れてゆけば、ゴール前中央のディフェンスが甘くなる。そして今、二人のディフェンダーに張り付かれていることは、たいした問題じゃないのです。
中田から小野にボールが渡り、そこから折り返しのセンタリングが入ってくるのを待ち構えていた。彼は、小野が蹴る前に、すかさず中央にとって返して、そこで小野からのボールに合わせるつもりでいた。
ここが問題です。
そのとき相手のディフェンダーの選手は、どこに向かって折り返してくるのかと、小野のほうに視線が行きます。つまり、柳沢の姿が一瞬視界から消える、ということです。
で、柳沢は、そのすきに相手を振り切って中央に走りこむ。
小野は、柳沢がもらいたいところをちゃんと知っているし、ボールを受けて、止めて、さあどこに出そうかと見回すようなことはしない。ダイレクトで柳沢の動きに合わせて蹴ってやれる。柳沢にすれば、小野は、蹴る前から自分がどこに動き出そうとしているのかわかってくれている、という信頼がある。また、だから小野にしても、止めてから出すところを探す必要なんか何もない。
ダイレクトキックにかけては、世界中を見回しても、小野以上の選手はそうはいない。先日来日したA・Cミランピルロやカカよりも、小野の方がずっとうまい。これは、断言したい。もちろん、中田ヒデよりもはるかにうまい。
柳沢も、小野も、そういうイメージで一体になっていた。
柳沢にすれば、本場のサッカーを知っている中田だってとうぜんそうだと思っていた。
ところがそうではなかった。
だから、怒った。ふだんから小野にパスをだしたがらない中田のプレーに不満を抱いていたこともあったのかもしれない。
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ジーコほどシュート練習に熱心な監督もなかったと思うけど、それで選手にシュートする癖やシュート力がついたかといえば、ドイツ大会で見ての通りです。ジーコは、余計な練習ばかりして、本当に必要な練習をすることも作戦を立てることも、何一つしなかったのです。
三人の選手が連携してゆくことを、トライアングルというらしい。そういう関係のプレーがスムーズにうまれたとき、選手はプレーのよろこびに浸る。柳沢は、誰よりもそういう関係を欲求している選手なのです。彼は、ボールとの出会いよりも、味方の選手との出会いの瞬間のよろこびを求めてプレーしている。
小野だって、そうです。蹴ることなんか、体が勝手にやってくれる。ボールを処理することなんか、なんにも心配していない。気になるのは、味方の選手とイメージを共有できるか、ということだ。どこに動いてゆこうと、どこにだって出してやる。小野のそういう自信とサービス精神が、俺の蹴るところに動けと要求する中田との違いです。
小野に比べると中田は、まだ蹴ることを心配している。
日本人のくせに、強姦するサッカーをめざしてもしょうがない。俺が俺がでどうやって蹴ろうかということばかり心配してないで、人との出会いについときめいてしまう「やらせ女」のサッカーをすればいいんだ。プロなんだから、蹴ることの心配なんかするなよ。
僕は、柳沢のプレーを支持する。
ゴール前での出会いのときめき、柳沢と小野は、そういうことを体験しながらサッカーをやって来た。それがなければコンビネーションプレーなんか生まれてくるはずがないのだし、この国には、そういうプレーが生まれてくる「まれびと」の文化がある。