「まれびと論」・9 「ほと」

どんなタイプの女が好きかと聞かれたら、女なら誰でもいい、と答えることにしています。
はんぶんは、本音です。
ぜんぶ、と言えないのは、やっぱりいやな女というのはいますからね。
ジェンダー」という言葉がよく聞かれます。そして、基本的には「性差」などというものはない、という人もいます。いや、けっこう多い。
「性差」がなくて、美しい人間と美しくない人間、正しい人間と正しくない人間、頭がいい人間とおばかな人間がいる、というわけですか。
美しい女なんか世界中にいくらでもいるから、そんなものにいちいち憧れていても空しいだけだ。性格がよかろうと悪かろうと関係ない。ブスでおっぱい小さかろうと、女は女だ。女が女であることは、とても感動的なことだ、と思う瞬間はないわけではないです。
男が男であることの本質的な欲求不満は、この世のすべての女に癒す能力がある。
だから、アメリカでは、八十歳のおばあさんでもレイプされる。
僕は女房にうんざりしているけれど、自分の結婚が失敗だったとは思っていない。だって、誰と結婚しようと、一緒に暮らせばいずれそうなるに決まっているのだから。そうして、もう女房以外の女なら誰でもいい、と思ってしまう。
僕もそう思われているのかもしれないし、おたがいいい面の皮です。
性差がなくなるときというのは、あります。「女」じゃなくて、女房だと思ったり、子供の母親だと思ったり、同じクラスの生徒だと思ったり、同じ会社の社員だと思ったり、同じ日本人だと思ったり、同じ人間だと思ったり、同じ地球上の生物だと思ったり、そりゃあ、誰もがたくさんの「同じ」を共有していますよ。
しかし、「同じ」であることなど、ぜんぶどうでもいいことです。そんなものが僕を癒してくれるわけでもない。
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性差がないといわれたら、僕は、どうやって世界に反応したらいいのかわからなくなってしまう。僕が青い空を見て胸がしいんとなるのは、町でミニスカートの白い足を見て不覚にもときめいてしまうこととけっして無縁ではない。僕が世界を美しく見えるのは、僕が僕でしかないからであり、男でしかないからだ。僕は両性具有の存在になれないし、この身体でこの生を完結できない。べつに男としてどんな身体的な特徴を持っているかとか、そういうことではない。この身体でこの生を完結できないという欠落感からは、どうあっても逃れられない、ということに問題がある。自分の生は欠落している、という自覚なしに世界に反応することは、僕にはできない。もしも性差がないのなら、僕の生はこの身体で完結している、ということですよ。そしたら、世界に反応する契機はどこにもなくなってしまう。
また、この世に男と女以外のYやZという性がないということもありがたいことで、もしあったら、反応の仕方も切実さがなくなって、世界はぼんやりしたものになってしまうだろう。
相手が男であろうと女であろうと、われわれの「他者」や「世界」に対する反応は、この世にもうひとつの性がある、という与件の上に成立している、と僕は思っている。
女が男としての自分を癒してくれるとか、そういうことじゃなくて、自分のこの生は欠落しているという与件が、われわれの世界に対する反応を可能にしているのではないだろうか。
男と女がいる、ということじゃない。それはXとYでもいいのです。とにかくふたつの性がある、ということが、この生を可能にしているのではないだろうか。
僕が息苦しくて息をするという行為は、ミニスカートの足にときめいてしまうこととどこかでつながっているような気がします。
ほんとは「気がします」ではなく、「そのはずだ」と言いたいところなのだけれど、本気でそれを言おうとしたら「まれびと論」どころではなくなってしまう。
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「国文学の発生・まれびとの意義」の中で折口信夫は「ほとほとと戸を叩く」というような言い方をしているのだが、どういうつもりで彼は「ほと」という言葉を使っていたのだろう。
「ほと」とは、女性器のことでしょう。男の「まら」に対して、女の「ほと」。
ここにも「と=戸」という言葉が隠されている。
「と」は、停滞と充足の両義的な感慨を含んだ音韻です。「と」と発声するとき、口の中に息が満ちるような息が止まるような感覚がある。
家の中にいるものにとって、「戸」は、停滞を思い知らされる対象であると同時に、人を迎え入れる充足の予感を与えてくれる対象でもある。家の中で「待つ人」は、戸を前にして、落胆と予感のあいだで揺れている。
「犬と猫」というときの接続詞の「と」は、「予感」や「期待」を表象している。
たぶん「戸」には、それらのすべての感慨がこめられている。
「ほと」は、そういう女の「戸」です。
「ほ」は、「ほほう」と感心したり、「ほっ」と安心したり、体の力が抜けてゆく感じの発声です。その脱力感が、充足でもある。「ほかす」は、捨てること。だから、「ほか=他」という意味にもなる。これらの「ほ」も、力が抜けてゆく感じから発声される音韻です。
「ほとほと」といえば、力が抜けきってゆく感じです。
「ほと」に「まら」が入ってきて気持よくなれば、体の力が抜けてゆく。そして女にとっての「ほと」は、自分ではコントロールできない無力感を知らされる存在なのでしょうか。女になったことがないから、よくわからないけど。
「ほと」の「ほ」は、力が抜けてゆく感慨を表現し、「と」は、停滞と充足と予感いう概念を説明している。たぶん、「ほと」も「まら」も、女がつくった言葉なのでしょう。男は、概念的に言葉を使いこなす能力はあるのだろうが、ある感慨とともに言葉を生み出してゆく能力はない。
いずれにせよ、「ほと」は女の「戸」でもあり、女はそれを自覚していた、ということになる。そして「戸」は、来訪の場を意味するのだから、男の「まら」が入ってきたときの感覚から生まれてきた言葉にちがいない。
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日本列島で暮らす人間にとって「戸=間(ま)」は人と人が出会う場であり、すなわちそれは、あの世とこの世の「間」でもあった。古代人にとって、人が来訪することは、生活の場に沁みこんだあたりまえのことだった。だから、あらためて「来訪する」というような言い方はしなかった。それらの表現や説明は、すべて「おと」や「ほと」や「まれ」や「まら」や、さらには「戸」という言葉それじたいに含まれていた。
折口氏の言うように、「まれびと」という概念が生まれてきたのは「神が来訪する」という宗教のイメージを持ったからではない。もともと人が来訪することが生活の場に沁みこんでいたから、「神が来訪する」というイメージが紡ぎ出されていっただけなのだ。
「戸」は、日本列島で暮らす人間の「実存」のよりどころであった。