まれびと論・10 門付け

「ツマドイ」をする縄文人が女の家の「戸」の前に立つことは、サッカーでいえば、ゴールポストの近くまでボールを運んでゆく、ということです。そこでどんな芸ができるか。それが勝負です。
この国の芸能は、縄文時代から始まっている。縄文人の「ツマドイ」は、門付け芸の原点です。
強姦しない芸、家の中にずかずか入っていかない芸。
戸は、時代とともに頑丈で大げさになってきた。最初は細い竹で編んだようなものだったが、それが板戸になり、そこから門をつくるようになって、しまいには長屋門などという、門そのものが家でもあるようなものまで現れてきた。
「門(かど)」とは、かっちりして頑丈な戸のこと。
やまとことばの「か」は、もっとも強く明確な発声です。だから、「かみ(神)」というし、「かっ」と目を見開くともいう。
着物の帯が時代とともに大げさになってきたのと同じように、日本列島では、戸という「間(ま)」にもこだわりがつよかった。家のつくりよりも「門構え」でその家の格を表した。
人びとは、門があろうとなかろうと、正月には門松を立てる。家の者にとって、「門(かど)」すなわち「家の入り口」が祝福されることは大きなよろこびだった。
そういう使命を帯びて、奈良時代に「ほかいびと」が登場してきた。
山から下りてきて、村の家々を「ほかいうた」という祝い歌を謡って門付けしてゆく旅する芸人のことです。
家の者は、礼として食い物を提供する。
縄文時代は家の中に入れてもらうための祝福芸だったが、ここにきて「門=戸」そのものを祝福する芸として独立した。
日本列島の住民が、いかに内と外の「間」という場(位相)にこだわっているかということを示す習俗だと思います。
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折口氏は、門付け芸の発生を、次のように説明しています。
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晦日、・節分・小正月立春などに、農村の家々を訪れたさまざまの「まれびと」は、昔、蓑笠姿を原則としていた。夜の暗闇紛れに来て、家の門からじきに引き返す者が、この服装を略することになり、ようやく神としての資格を忘れるようになったのである。近世においては、春・冬の交代に当たっておとづれる者を、神だとは知らなくなってしもうた。ある地方では一種の妖怪と感じ、またある地方では祝言をとなえる人間としてしか考えなくなった。そこにも二通りあって、一つは若い衆でなければ、子供仲間の年中行事と見た。他は、専門の祝言職に任せるという形をとるにいたった。そうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位すると考えられてから、乞食者なる階級を生じるにいたった。
おとづれ人――祝言職――乞食者
だからこういう風に変化推移した痕が見られるのである。門におとづれてさらに屋内に入り込む者、門前から還る者、そしてその形態仕事が雑多に分化してしもうたが、けっきょく、門前での儀が重大な意義を持っていたことだけはうかがわれる。このように各戸訪問が、門前でその目的を達する風に考えられたものもあり、また、家の内部深く入り込まねばならぬものとせられたのである。古代には家の内に入るものが多く、近世にもその形が残っているが、門口から引き返す者ほど、卑しく見られていたようである。つまりは、たんに形式を学ぶだけだというところから出るのであろう。
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「ほかいびと」は蓑笠姿であったからまだ「神人」であったが、祝言職のものがそれを略するようになり、やがて祝言もしない「乞食者なる階級を生じることになった」、ということらしい。そしてそれは、妖怪と同じように「神が零落した」姿なのだという。
「神人として最下級」だろうと、神は神でしょう。「乞食者」だって、門口を「祝福する人」だったのです。なぜならそれは、家人にとって、物がもらえるくらい幸せで心やさしい人たちの家だと値踏みされた証拠だからです。だから昔は、貧しい庶民であればあるほど、わりとよろこんで食い物や小銭を与えてやっていたのです。
日本人は、毎朝玄関や門の前を掃除する。それほどに「門口=戸」にこだわっているのであり、祝福されたがっているのです。
折口氏は、「乞食者」は「祝言職」の零落した姿だというのだが、そうじゃないと思う。祝言職には祝言職のプライドがあり、乞食には乞食のプライドがある。中世から近世において乞食者は、もはや「芸」によってではなく、存在そのものにおいて「門口=戸」を祝福するものとして登場してきたのです。それは、古代の乞食姿の来訪神である「武塔(むとう)の神」の再来でもあったのだ。
そして折口氏は、家の中に入らないで「門口から引き返す者」は祝福を「形式」だけにしてしまっているというが、そうじゃない。門口だけで祝福を完結させることこそ「祝福」の神髄である時代になってきた、というだけのことだ。
家の中に入り込むことは、「深入りする」といって、ときにそれこそが卑しい行為だったのです。門口で祝福し、家の中には入り込まない、ということが生活文化としてはっきりとしたかたちになっていったのだ。
時代が下って、少しずつ都市化してきた、ということでしょうか。
京都の人に「上がってぶぶ漬けでも食べていってください」と言われて真に受けると嫌われる、とよくいうが、そんなようなことです。
「門口=戸」の文化、すなわち「まれびと」の文化が洗練してきた、というだけのことでしょう。べつに「神」が来なくなったわけではない。
「乞食者」だって、「神」だったのだ。いや「乞食者」こそ、もっともピュアに神を体現した存在であったのだ。
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「まれびと」の文化が「戸」に対するこだわりから生まれてきたのだとすれば、その意識はけっして「常世の国に神が住んでいる」という世界観に重なっていかない。
神は、この世とあの世の「戸=間」に住んでいる。
神はこの視界の果てのあの山に住んでいるし、「ほかいびと」もあの山からやって来た。だから、「ほかいびと」は神(もしくは神の使い)なのだ。
折口氏だって、この国ではかんたんに人が神になってしまうと言っているが、そういう国で「常世の神」が神概念の背骨になることはありえないのです。人がかんたんに神になってしまうこの国では、神は何度でもやってくるのです。この国で一年を通して行われるさまざまな祭りや行事における神は、「常世の国」からやってくるのではなく、この視界の果てのあの山あの川あの雲からやって来るのです。というか、あの山あの川あの雲それじたいが「神」だったのだ。
何が「常世の神」か。何が「唯一」か。この国の人間の心の底に、そんな神のイメージや概念があるものか。
この国のものたちにとっては、「常世の神」よりも、森の池に棲む神の方がずっとリアリティがあるのだ。なぜならそこが、この世界の「門口=戸」だからです。