まれびと論・11 現代ファッションの「間(ま)」

ファッションとしての衣装は、80年代からバブル景気終焉のころまではたっぷりしたシルエットの「ルーズ・フィット」が主流だったが、このところまた70年代のような体にぴったりした細く小さめのかたちに変わってきている。
そして去年にいたっては、へそだしルックやヒップボーンのショートパンツなど、限りなく身体そのものに近づこうとする勢いだった。数年前に、キャミソールというほんらい下着であったものが堂々と上着として登場してきたのは、まあそういう傾向の前兆だったのかもしれない。
衣装は、身体とこの世界の「間(ま)」である。
われわれは、衣装によって、鬱陶しい「この身体」からいっとき解放されている。言い換えれば、「この身体」は、この世界の「間」に挿入されることによって落ち着く、ということだろうか。
衣装は、身体からの解放であると同時、身体そのものの表象でもある。
つまり、このごろ、身体とこの世界との「間」がいっそう身体そのものの輪郭に近づいてイメージされるようになってきた、ということです。
いろんな意味があると思います。
「ルーズフィット」の時代はそれほど身体のことが忘れられていたが、このごろはもう、身体のことが気になって仕方がないようになってきた。
「ルーズフィット」の時代であった高度成長やバブルのころは、人々の意識がお金や物に憑依してしまって、身体のことなどたいして気にもならなかった。しかし現在では、身体との関係をやりくりしていかないと心が落ち着かなくなってきた。
「ルーズフィット」の時代であった80年代から90年代のはじめは、お金や物に恵まれている「大人たち」の時代であった。そのころ団塊世代は30代40代の働きざかりで、そういう大人たちがのさばっている時代であった。
「ルーズフィット」は、体形が崩れてきた大人たちには、それが隠せてとても具合がいい衣装です。値段が高い高級な衣装を着ていれば、それだけで見映えがする時代だった。
しかし現在のように誰もが体の線に近い衣装を着るようになってくると、大人と若者の違いは、歴然と出てしまう。大人があまりかっこいい存在でいられない時代になってきた。
バブルのころの大人たちはシャネルやディオールの衣装を買うことができたが、今はそうもいかなくなってきたし、若者のようなへそ出しルックやショートパンツを穿くことも、破れたジーンズを穿くこともようしない。
お金や物を持っていることがアイデンティティである大人に取っては、破れたジーンズを穿くことは、みずからのアイデンティティを否定してしまうことです。だから、穿きたくても穿けない。それは、若者たちの無意識の「反乱」なのだ。彼らは心の隅のどこかしらで、「ざまあみやがれ」と思っている。
「ルーズフィット」の時代は若者が大人を追いかけていたが、現在では大人など追いかけていない。純粋に若者であることのアイデンティティを持とうとしている。バブルのころの若者はアルマーニのスーツを着ている大人をうらやましがったが、いまや、そんなもの関係ないと思っている。つまり、アルマーニのスーツを着ている大人にガールフレンド持っていかれる時代であったが、今やそんな心配もない。「ちょいわるおやじ」を気取ってみても、若者たちの美意識やセックスアピールのイメージのあいだに割って入ってゆくことはもうできない。
今やもう、誰もが身体との関係をやりくりしていかないと生きてゆけない時代になってきたし、お金や物ではなく、身体の実存において他者との関係が模索される時代になってきている。
すなわち、今やもう「出会いのときめき」は、折口信夫のいうような「貴人や神の来訪の光栄に浴すること」ではなく、他者と出会うということそれじたいの「身体の実存」の問題になってきている、ということです。
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現在のファッションを、太った人や体型の崩れた人たちが着こなすのは大変です。だぶついた腹の肉をさらけ出して「へそ出しルック」を装っても、ちっともさまにならないし、恥ずかしくみじめなばかりです。
若者が身体を晒して見せることは、大人たちに対する「デモンストレーション」でもある。無意識の内で、大人たちに対して、「あなたたちは醜い」と言っているのだ。そういうことを、大人たちもちっとは自覚してもいい。
「へそ出しルック」や「ショートパンツ」の身体は、痩せていても太っていてもいけない。その中間にあって、「セクシー」でなくてはいけない。「セクシー」は、「わいせつ」と「色気がない」ことの「間」にあるイメージ=概念です。
「間」のイメージは、「凡庸」のイメージと重なりやすい。しかし「セクシー」は、「凡庸ではない。凡庸であって凡庸ではない、わいせつであってわいせつではない、それが「セクシー」です。
今の若い女の子は、みんな同じような化粧をして同じような顔をしている、といわれる。彼女らは、同じであることを自覚しつつ、同じであることを嫌っている。だから、「セクシー」という「間」にずれて入り込んでゆこうとする。誰もがたいして「違わない」存在であると自覚していると同時に、「同じではない」存在であるとも自覚している。それが「セクシー」にへそを出しり太腿をさらけ出して見せることです。
そこでさらけ出された身体の一部は、身体であって身体ではないところの、身体の「戸」なのだ。彼らは、身体のぎりぎりのところに「戸」を置いている。大人たちのように、身体から離れてお金や物を「戸」の表象とするようなことはしない。お金や物の表象であるような衣装は着ない。誰もが所有している身体において、「同じであって同じではない間」が模索されている。
みんな同じような顔をして同じような体型をしていたら、出会いのインパクトがない。しかしへそや太腿がさらけ出されていれば、そこに「インパクト=ときめき」が生まれる。彼女らはそうやって「出会いのときめき」をプロデュースしている。そこに「出会いのときめき」を切望する心性が表現されている。
自我などというものが確立されていないたいして「違いはない」ものどうしだからこそ、そこに「同じではない」という「出会いのときめき」が切望されるのだ。
近ごろの若者は自我を確立していない、などという大人たちや低脳な心理学者より、じつは自我の希薄な若者たちの方がずっと人間として本質的で実存的なのだと思えます。現在の若者たちは自我を確立していないから、かつての全共闘世代のように声高に反抗することはしない。へそ出しルックで、ひそかに「ざまあみやがれ」とつぶやいているだけです。