折口信夫の「まれびと論」について考える・1

僕は、「まれびと」の文化のことを、現代の問題として考えている。けっして文学趣味でも歴史懐古趣味からでもない。
しかし、やっぱり、折口信夫という原典を素通りしてしまうわけにもいかない。
その歴史的なテキストである「国文学の発生・まれびとの意義」という論稿について考えてみます。
もちろん、その解釈をちゃんとしておかないといけないとか、そういう動機ではない。そんなことができるほどの教養もない。ただ、折口信夫とは少々違う主張をするからには、自分なりにちゃんと対決しておくのが仁義かな、と思ったからです。そういうつもりで、しばらく検討していってみようと思います。
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この論稿はまず、「まれびと」という言葉の解釈からはじまります。
読みやすいように、適当に漢字をかなに直したりして引用していきます。
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わが国の古代、「まれ」の用語例には、「稀」または「RARE」のごとく、半否定は含まれてはいなかった。・・・(中略)・・・「まれ」は数・量・度数において、さらに少ないことを示す同義語である。たんに少ないばかりでなく、唯一・孤独などの義が第一のものであるまいか。「あだなりと名にこそたてれ 桜花 年にまれなる人も待ちけり(古今集)」などいう表現は、平安初期の創意ではあるまい。
「まれびと」の内容の弛んでいた時代にかかわらず、この「まれ」には「唯一」と「尊重」との意義が見えている。「年に」という語があるためにこの「まれ」はつきつめた範囲に狭められて、一回きりの意になるのである。この「年にまれなり」という句は、文章上の慣用句と見てさしつかえはないようである。
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僕は、古代の「まれ」という言葉を、「数・量・度数」を示す言葉とは解釈しない。半否定の「ちょっと」だろうと、全否定の「唯一」だろうと、どちらでもいいのだ。
いったいいつごろ生まれた言葉か知らないが、その語源的な構造を考えてみます。
「まれ」の「ま」は、「間」でもある。「まったく」とか「まさに」とか「まっすぐ」とかの「ま」は、ある「納得した気分」で発声される。ア行の発音は、体に力を入れるでも抜くでもない、その「間(ま)」の状態においてなされる。古代人にとってそういう状態こそ、この生をいちばんたしかに納得できる状態だった。そういう確かさの感慨から、「ま」と発声される。
「ま」は「真」でもある。体がぴったりとこの世界にはめ込まれてある状態、そういう「真=間」がイメージされてもいる。
そして「まるい」というように、「ま」は、世界が完結しているさまに対する感慨も含まれている。
やまとことばにおいて、「ま」は、もっとも深く「間」を納得する気分を表現している。だから「間」がイメージされたとき、「ま」という声が自然に出てくる。
「山」の稜線は、山間地で暮らす人々にとっては、周囲の視界でもっとも遠い眺めである。奈良盆地に立って周囲を見回す体験を思い浮かべればいい。そういう視界のもっとも遠いところを、この世とあの世の「間(ま)」、すなわちそこで世界は完結している、と古代人は納得した。そして「山」の「や」は、「やあやあ」とか「ヤッホー」とか、はるかに遠いものに対する憧れや呼びかける気分です。そうやって憧れて納得している感慨から「やま」と発語される。
「ま」は、「間」として深く納得する気分のこと。体ががこの世界の「間」におさまって、ゆったりと落ち着いている気分。
そうして「まれ」の「れ」は、「あれ」「これ」「だれ」「生まれ」「なかれ」「けれ」というように、ある方向を探索する気分がこめられている。「あれ」と「これ」の「間」に「まれ」がある。
出会いの瞬間に「だれ?」と探索し、「あれ?」と驚き納得する。「あれ」の「あ」は、かすかな納得です。そのかすかな納得を探索するのが、「れ」です。エ行は、「あいうえお」の中で、息を持続するのが一番苦しい発声です。だから、どうしても探索したり不安になったりする気分の表現になる。
であれば、「まれ」という言葉は、「れ」というかたちで他者や世界を探索し、「ま」と発声して「間」を納得する気分を表現している。その「ま」は、あの世とこの世の「間」である遠いものや変なもの(魔)がイメージされ、不安とともに探索し納得する気分になっている。そういう「まれ」であって、「数・数量・度数」のことではない、と僕は考える。
「まれ」とは、この世(これ)とあの世(あれ)の「間(ま)」を探索する感慨のこと。
すなわち「まれびと」とは、こちらがわでもあちらがわでもない「間」に存在する人、ということになる。女が自分の中にペニスを迎え入れているとき、彼女にとって男は、まさにこの身体の内でも外でもない「間」に存在する「まれびと」です。
「年にまれなり」という表現が慣用句だとすれば、「めったに見かけない」というような意味でしょう。めったに見かけない人も、このときばかりは待ちかねたようにこの有名な桜の花を見に来る。めったに見かけない人だから、土地の人ではない。しかしここに来ているかぎりにおいては、いまやよその人でもない。訪れびとは、こちらとあちらの「間」の存在です。そういう「まれ」でしょう。この場合の「まれ」は、「唯一」という全否定ではない。「まれなる」という言葉そのものに「訪れ来たる」の意味が含まれている。含まれていなければ、「まれなる」という言葉は成り立たない。そして含まれているということは、その「まれ」は「唯一」というほど強い全否定ではなく、「めったに」というたんなる気分だということのほうがしっくりくる。いや「一回きり」でもいいんですけどね。そうやってとにもかくにも「出会った」ということの感慨を汲みとらなければ、この歌の味わいはどこかに行ってしまう。「ああ、あの人もこの桜が咲くのを待っていたんだなあ」という出会いの感慨。
桜は、人の心に「現在」を意識させる。過去と未来の「間」に、鮮やかに出現する。そのとき、過去も未来も消失して、意識が「現在」だけに憑依している。そういう「間」に抱きすくめられる心の動きのことを「まれ」というのだ。この歌の「まれなる」という言葉には、そのような感慨が含まれている。「年にまれなる人」も、桜とともにそういう現在という「間」にあらわれたのだ。
人と人は、「まれ」なる場所において出会う。そしてたがいに相手を「まれ」なる人と認識する。そういう出会いの場やそのときの感慨のことを「まれ」という。それはいわば関係概念であり、「出会いのときめき」という感慨の表現であって、「唯一」でなければならない語源的な根拠は何もない。