下品でエッチな「まれびと」の文化

「客」を迎え入れるとは、無意識的には、女性器の中に男性器を迎え入れることをなぞる行為だと思っています。つまり、そういう「痕跡」をもった行為である、と。
「訪れる」、という行為も、同じように男性器のがわから入ってゆくことでしょう。
生き物は、個体としてみずからの生を完結できない。「行為」ということの根源は、そんなところにあるのではないかと思えます。
息を吸うことは、個体としてみずからの生を完結できなくて、空気という「世界」との関係においてこの生を成り立たせてゆく行為です。
息苦しい、とは、意識が身体との関係に閉じ込められること。息を吸えば、その鬱陶しい身体をさっぱりと忘れることができる。それは、空気という「世界」と出会いながら、身体との「関係」を解体してゆく行為です。そして空気を吸ってしまえば、もう吸う必要がなくなり、世界との関係も解体されるかといえば、そうはいかない。吸った空気は、吐き出さなければ、落ち着かない。そうやってまた身体との関係を解体してゆかなければならない。
われわれの生存の願わしいかたちは、息を吸うことと吐くことの「間(ま)」にある。どんなに深く息を吸っても、息をとめた瞬間から苦しくなる。とすれば、そんな「間」があるのかどうかわからなくなってしまう。あるといえばあるし、ないといえばない。
われわれは、たえず身体との「関係」を解体し、世界と出会いながら生きている。
他者の身体を抱きしめているとき、意識は、他者の身体ばかり感じて、みずからの身体のことは忘れている。
そのときみずからの身体は、空っぽの空間になっている。
この生が完結するとは、身体の充実を感じることではなく、空っぽの空間になってしまうことだ。そうして、意識は、他者の身体に憑依している。
他者の身体を感じることが、この生を完結させることなのだ。そしてそれがもっともヴィヴィッドに体験されるのが、セックスであるらしい。
生きものはべつに「種族維持の本能」とやらにしたがってセックスしているわけではない。意識を身体から引き剥がすことが生きるいとなみだからだ。腹が減れば胃に憑依した意識を、小便がしたくなれば膀胱に憑依した意識を引き剥がそうとする。それと同じことだ。意識はつねに身体との関係を解体して、世界(他者)に憑依してゆく。
この生は、身体との関係に閉じ込められることと、世界との関係に閉じ込められることとの「間(間)」にある。「間」としての出会いの体験、それが、おたがいの「間」に性器をあてがい合うというセックスの体験ではないだろうか。
つまり、そういういとなみとして、われわれは「客」を迎え入れるという行為をしているのではないだろうか。
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世界(他者)に憑依するとは、世界(他者)を祝福することです。
それは、意識がまず身体との関係につながれることの不快として発生するからでしょう。息苦しいとか痛いとか痒いとか暑いとか寒いとか、そういうネガティブなかたちで意識は身体の存在を知れされ、そこから離脱して世界(他者)に憑依してゆく。
意識は、身体の不快から解き放たれる喜びとして、世界(他者)を祝福してゆく。
意識と身体は別のものだといっても、意識は身体との関係のうえではたらいている。そして「関係」に閉じ込められることの不快を先験的に知ってしまっている。だから、いかなる「関係」も解体しようとする。「関係」を解体することが生きるいとなみなのだ。
たとえば、他者の身体に憑依するときは祝福しているが、相手の気持がわかってくると、だんだん鬱陶しくなってくる。相手の気持がわかってくるとは、関係に閉じ込められてゆく、ということです。
他者の身体に憑依することが「出会い」で、気持がわかってくることが「関係」だとすれば、「出会い」は関係と非関係の「間(ま)」の体験です。
セックスは、関係を解体して「間=出会い」の場に立つ体験です。喧嘩していた恋人どうしがセックスして仲直りする、ということはよくある。セックスして、「相手の気持がわかる」という関係を解体したのです。そのとき女の性器の中に入ってきた男の性器は、女の体の内と外の「間」に存在している。関係と非関係の「間」において来訪している。そうやって彼らは、あらためて「出会い」の場に立っている。
そして「まれびと」の文化における「客」は、身内(関係)とよそ者(非関係)の「間」の存在として迎え入れられる。
客と主人が深く深くお辞儀をして挨拶するとき、両者はともに「相手の気持がわかる」ことを断念している。つまり「関係」を持とうとする欲望を捨てている。
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挿入する感覚と挿入される感覚、セックスよりももっと根源的なことを考えれば、人が生まれてくることは身体がこの世界に挿入されることだ、といえるはずです。われわれは、体ごとの挿入感覚で存在している。われわれは、この世界の「客」であって、この世界の「主人」として存在しているのではない。身体が動くということは、身体はこの世界の一部ではない、ということです。床の間の壺になって、はじめて世界の一部だといえる。べつにうまれたときの記憶などなくても、われわれの気持のどこかしらで、自分はこの世界にやってきた「客」だという自覚が疼いている。
たぶんそういう感覚は、原始人ほどたしかに持っている。現代人は「共同体」の中に置かれているから、「客」という意識が薄くなっている。この世界に「すでに存在している」ような気分で、そして「これからもずっと存在しつづけている」ような気分になってしまっている。
しかしそんな気分になっても、誰もがどうせそのうち消えてなくなってしまうのです。いっときこの世界に挿入されてあるだけだ。だしをとるための鰹節みたいなものです。いずれ、廃棄処分される。原始人には、そういう自覚があったし、現代人は薄い。もしもその横着な気分が「共同体」の確かさによってもたらされているのであるとすれば、現在、世界でいちばん死と和解していない国民はアメリカ人なのだろうと思えます。強くて正義の国家だからこそ、国民は死と和解できないで精神安定剤をがぶ飲みして生きていかないといけない。
たぶん、縄文人には、自分がこの世界の「客」であるという思いが切実にあったし、われわれ現代人は、はんぶんこの身体が世界の一部であるかのような気分で、「そのうち消えてなくなる」ことを忘れて生きている。忘れてしまえ、そうすれば幸せにしてやる、という共同体からの要請がある。
共同体を持たず、寿命も短かった縄文人は、そのぶん現代人よりもずっと実存的だったのだ。
原始人の行動なんてナイーブな神への信仰の上に成り立っていたのだという考えはおかしい。現代人のほうがずっと安直な信仰心で生きているのだ。「スピリチュアル」のブームのことを考えてみれば、よくわかるじゃないですか。もともと日本列島の原始人に、「海の向こうの他界の神」などという概念はなかった。この世界の森羅万象が神だった。それは、それほどに世界(他者)との出会いに驚きときめいて生きていたということを意味するはずです。そういう実存感覚を「神」といっていただけのことでしょう。
原始人はナイーブに神を信じていたから死が怖くなかったのではない。すでに死と和解したところで自由に神のイメージを紡いでいただけだ。死んだらわけのわからない「黄泉(よみ)の国」にいくだけだという実存感覚と、死んでも生まれ変わることができるという「スピリチュアル」ブームの安直な信仰と、どちらが迷妄であるのか。
チベットの山奥の住民が「死んでも生まれ変わることができる」と思っているのと、現代の日本人がそう思うのとは違う。前者は死と和解した上で、和解したことの証しとしてそう思っているが、後者は、和解していないからそう思いたいだけのことだ。ほんとにそう思っているなら、チベット人のように自分の死体を禿げ鷹に食わせてやってくれといってみろ。
「まれびと」の文化は、原始的な神への信仰として始まったのではない。もっと実存的な、生きてあることにたいする切実な自覚から生まれてきた文化なのだ。
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歩き出すことは、身体がこの世界にはめ込まれてあることから解き放たれる行為であり、たどり着くことは、この身体を世界にはめこんでゆく行為になる。「出会う」ということは、歩き出すことであると同時に、たどり着くことでもある。みずからの現在を解体することであると同時に、新しい現在にたどり着くことでもある。セックスにおいて、挿入するがわもされるがわも、ようするにそのようにして「出会う」という体験をしている。
家のものは客を迎えることによって家にはめ込まれてあることから解き放たれ、客は、そこにはめ込まれてゆく。われわれは、この身体を世界にちゃんとはめ込みたいという願いと、はめ込まれてあることから解き放たれたいという願いとの狭間で生きている。
この身体は、先験的に世界との関係として存在している。身体が世界に閉じ込められることは、身体の鬱陶しさをつよく意識させられることであり、世界との関係を喪失すれば、さらにまた身体の鬱陶しさを意識しなければならない。「出会い」は、その「間」において体験される。
「出会い」は、この身体を世界にはめ込んでゆく過程であり、世界から解放されてゆく過程でもある。はめこんでいっては引き返し、引き返してはまたはめこんでゆく。それが、生きてあるいとなみであるのかもしれない。ますますセックスの挿入行為に似ている。
関係を解体してゆくことと、関係に入ってゆくこと、関係と非関係の「間」において、この生が成り立っている。生きることは「過程(=行為)」の中にあるのであって、獲得するべきどんなよろこばしい「状態」もない。われわれは、関係を持つことも捨て去ることも許されていない。願いが叶うことも不幸だし、願いを持たないでいられるわけでもない。幸せになりたいといっても、幸せの中で生きられるわけでもない。幸せを願わずにいられない不幸の中に身を置きつづけること、そしてセックスは、つながりあいたいと願わずにいられないもどかしさの中に身を置きつづけること。
そういう「間(ま)」のことを、どうやら縄文人は知っていたらしい。ただ知っていたのではない。深く身にしみて了解していた。
「まれびと」の文化は「客」をもてなす文化であり、「出会い」の場に立ちつづける文化です。そういう暮らしの中の実存の文化だったのであり、男と女のセックスの「痕跡」を持った文化だった。もともと神なんか関係なかったのだ。
神が「まれびと」であったのではなく、「まれびと」が神になったのだ、折口先生。