「まれびと」の文化と自殺の現代

ついでに、もうひとつ現代社会の関心事を。
近ごろ、中高年の自殺が多い、という。
お金と健康の問題が、二大原因なのだとか。
しかしそんなことは、昔からあった問題でしょう。今にはじまったことじゃない。
借金なんか自己破産すればいいだけだろうし、僕の母親など何十年も寝たり起きたりしながら、あそこが痛いここが苦しいといつも洩らしながら、とにもかくにも80まで生きて死んでいった。
一万円の借金で自殺する人もいれば、一億借りてにっちもさっちも行かなくなってもまだ頑張っている人もいる。世界の飢餓地帯の人たちは、お金と健康の両方で身動きできなくなっているのに、この国より鬱病や自殺が多いという話は聞かない。
まあ僕の母親くらいのふてぶてしさがあれば、誰も病気を苦にして自殺することもないだろうという気はします。失礼かもしれないけど。
彼女はいつもさまざまなことを嘆いていたし、ヒステリーもよく起こしたけど、心を病む、ということは一度もなかった。
お金と健康の問題に追いつめられたら、人はかならず自殺するのか。
たいていの場合、「自分だったら死にはしないのに」という声が、あとになってまわりから聞こえてくる。
たまたま入ったコンビニの店員の態度が悪かったからそれがきっかけで自殺した、という人もいる。そういう人は、(病気や借金や失恋や離婚などが)つらかったからというよりも、「死にたかったから」自殺したのでしょう。それまで生きていたということは、そうしたもろもろのつらさには耐えていたし、そうしたつらさは自殺するきっかけにならなかった、ということを意味するのではないだろうか。彼(女)は、つらさには耐えられても、「死にたい」という誘惑には勝てなかった、ということかもしれない。
言い換えれば、どんなにつらくても「生きていたい」と思う人はいくらでもいる。人間がいかにつらいことに耐えられる生き物であるかということは、感動的なほどです。耐えられなくなるのは、耐えられないほどつらいことだと認識する思想を持っているからでしょう。たんなる生き方や思考のセンスの問題だ。そういう制度的な思考とは無縁の人は、信じられないくらい、どんなつらいことにも耐えてしまう。
お金や健康が原因だ、というような甘ったれた分析はするべきではない。われわれは、お金や健康が自殺の原因になってしまうような社会に生きている、そういう社会の構造こそ問われるべきでしょう。
死に引き寄せられてしまう心の病(やまい)というのがある。本質的な問題は、そちらのほうにあるのではないか、と思えます。
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富裕層と貧困層の二極化が進んでいる。誰もが「勝ち組」でありたいと気をもんでいる。そんなことを分析して、それで何かがわかったような何かを示したような気になってもらっては困る。そんなことは、あほな僕だって知っている。僕が知りたいのは、そういうふうに思ってしまうセンスや社会の構造の問題なのだ。
「私は負け組でございます」というような顔をしながら、「自分はこれでいい」とか「自分は正しく生きている」と思っていやがる。同じ穴のムジナじゃないか。それは、「勝ち組」だと自覚しているのと同じなのだ。もうワンランクしたたかであつかましい「勝ち組み」意識。むしろ、そういう思考によって、そうした社会の構造が強化されていっているのではないだろうか。
彼(女)は、どうして「死にたい」と思ったのか。
「死ぬ」ということがわかった(つもりになった)からでしょう。僕は、よくわからない。
「死ねば天国にいける」とか「死ねば楽になれる」とか「死ねば保険が下りて家族が助かる」とか「死ねばあいつに仕返しができる」とか「死ねばみんなが自分に注目してくれる」とか、まあいろいろあるでしょう。
とにかく、死んだあとのことをあれこれ想像する。
しかし、自分が死んだあとの世界は「存在しない」のですよね。自分はそれをぜったい体験できない(知ることができない)のだから、そんなことは「ない」も同じなのだ。
なのに、そんなことがさも知ることができるかのように錯覚してしまう。
天国はないかもしれないし、死ねば「楽になる」という気分すら味わうことができない。明日保険会社が倒産して、保険なんか下りないかもしれない。どんなにあいつへの恨みつらみの遺書を綴っても、みんなはあいつに同情するばかりかもしれない。死んでもみんなは何の反応もしてくれないかもしれない。
死んだあとの、天国のことも自分こともみんなのことも、わかることなど何もない。しかしそれでも、わかるような気がする。わかったつもりになれる。もうぜったいそうだと確信する。そこまでいって自殺するのでしょう。
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「明日サッカーの試合がある」、「明日デートをする」、「明日までの締め切りの仕事がある」、現代人は、そういう「明日」が必ずくるものと信じて疑わない。たぶん、そんな思考が積み重なっていって、自分が死んだあとのことをリアルにイメージしてしまう。まるで、死んだあとも生きているかのように。
現代社会は、「スケジュール」のうえに成り立っている。
「スケジュール」として、死んでゆくことをイメージする。死んだあとのことが、ちゃんと「スケジュール」として確信されている。
現代人の観念は、すでに「未来」に存在している。
「未来」を計画することは正義だし、賢いことだと思っている。そういう社会的な合意が出来上がっている。
大人たちは、子供に「夢を持て」と脅迫する。
夢なんか持とうと持つまいと勝手じゃないですか。僕は、未来の夢に生きている若者より、いま目の前にあるものに全身で反応しながら生きている若者のほうが美しいと思う。
未来の夢を語る若者なんか、ちっとも素敵だと思わない。むしろ、気味が悪い。
未来の夢を語って自分が正しく存在しているつもりの若者より、仕事や学校をサボって彼女とエッチしまくっているだめな若者のほうが好きだ。
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正しく生きていると、鬱病になりやすい。仕事や健康が順調なあいだはいいが、そこにかげりが起きてくると、もともと未来のスケジュールを住処として生きてきた意識が、今度はそこに住み着くことができなくて、未来に浮遊してしまった状態になる。つまり「現在」に反応できないとか、「現在」と関わることを怖がるとか、そういうさまざまな退行現象が起きてくる。
「正しく」生きてきたことのツケがまわってくる。みんなにちやほやされたり尊敬されたりしながら自分は「正しく存在している」というアイデンティティで生きてきたが、それが維持できなくなったとき、世界は暗転する。
ときにはみずから進んでふさぎこみ、みんなにかまってもらおうとすることもある。
つまり、「関係」の中にいたいのですね。したがって、「関係」が解体された「出会い」の場に立つことを畏れている。
彼らは、「正しい人間」や「美しい人間」が祝福されるものと思っている。自分自身もそういう人間しか祝福してこなかった。しかしいまや彼は、そうやって祝福されるべき資格を失いつつある。あるいはすでに失ったしまった。
彼らは、「出会う」ということそれじたいによって人と人は祝福しあうものだ、という体験をほとんどしたことがない。自分の「正しさ」や「美しさ」や「身分」をぜんぶ脱ぎ捨てて他者と「出会う」という体験をしたことがないのだ。そういう目で、人を見たことも見られたこともないのだ。
だから、どんどん人と会うことが怖くなってゆく。
彼らは、出会いの瞬間の、存在そのものにおいて祝福する、ということができないし、されたこともないのだ。いつも「正しさ」や「美しさ」や「身分」を祝福し祝福されてきたから、裸の人間としての、「現在」における人との「出会い」のときめきを知らない。「現在」に反応するという身振りや感受性を持っていない。
たとえば、「自分もあんなふうになりたい」と思うことは、現在から未来に向かって他者を眺めることです。彼らは、そんなふうに眺めあうことが人と人の関係だと思っている。「うらやましい」といわれたがっているし、そう言ってこちらからお世辞をつかいもする。
結論を急げば、彼らは、「現在」を喪失している。つねに「未来」が価値を所有している。そうやってわかるはずもない「死後の世界」や「地球の裏側」のことまでわかったつもりになってしまう「近代合理主義」とかいういやらしい思考に、骨の髄まで浸されてしまっている。
だから、かんたんに「死」を了解してしまう。死という未来に引き寄せられてしまう。
自殺する人が、というより、現代の中高年一般がそういう傾向を持っている。彼らが、そういう社会をつくってきた。
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「正しい人間」なんてくそくらえだ。誰もがそんな人間になりたがり、そんな人間になれと迫ってくる世の中がおかしいのだ。
自分の「正しさ」に執着して生きてきたから、そんな目にあうのだ。
僕は、中高年の鬱病なんかに同情しない。自分もなるかもしれないけど。
鬱病を克服した人も、「つらかった」なんて、自分をまさぐるような言い方はするなよ。自業自得だったのだから。
誰にだって、人間としての欠落した部分はあるのだ。自分は真面目すぎたからなんて、そんな言い訳するなよ。生きてある「現在」に対して、横着で怠惰だっただけじゃないか。ほんとの意味で真面目で誠実だったら、鬱病になんかならないって。いっぱしの苦労人のような顔をするなよ。もっともっとつらい状況で精神を病むことなく生きている人はいくらでもいるのだ。
真面目すぎたんじゃない。それなりに不健康な思想や身振りで生きてきたからだ。そういうことをちゃんと告白できるくらい、ものを考えてみろよ。
大切なことは、鬱病を克服することじゃなく、鬱病にならないような思想と身振りをもてるか、ということだ。
僕がもし鬱病になったら、人間のくずでございます(すでにくずだけど)、と懺悔する。ほんとにしんそこ、この世の鬱病の人はすべてよくなって欲しいと願っているのだけれど、僕がもし鬱病になったら、そのまま死んじまえばいいと思う。どうせ、なおらなければならないような立派な生き方をしてきたわけでもないのだから。
だからいいたいのだけれど、
なおってまで、いいこちゃんぶるなよ。僕は、あなたなんか、人生の達人だとは認めない。
ただね、若者の鬱病の場合はまた別ですよ。育てた親の問題もあるし、追いつめていった社会の問題もあるし、またそうなるほどの純粋で傷つきやすい精神というのもあるのだろうし。
そして中高年の場合だって、きっといろんなケースがあるのでしょう。
ただ、鬱病になったことを恥じてもいないし、なおったらなおったで正義づらして人生の謎を解いてみせるような言い方をする、そういう一部の知識人やマスコミ関係者に対しては、やっぱりうんざりしてしまうのです。
そんな連中より、現在、出会いのときめきを止揚する「まれびと」の文化を身にまとった若者がそこここに現れてきていることこそ、僕に希望を与えてくれる。