「まれびと」と「スピリチュアル」の関係

「死後の世界がある」なんて、ずいぶん前近代的な考え方だと思うのだけれど、「スピリチュアル」のブームとして、現代人の多くがそれを信じているらしい。
とすれば、それはむしろ、とても現代的な観念であるのかもしれない。
古代人は、死んだらわけのわからない「黄泉の国」に行くと思っていたくらいで、そんなものは信じていなかった。
ネアンデルタールだって、死者を天国に送るために埋葬していたのではなく、おそらく、死んでしまった子供を抱きしめて離さない女のヒステリーを宥めるために、ひとまず子供を女から引き離し、しかも子供を傍に置いておける措置としてやっていただけなのだろうと思えます。だから、自分たちの住処である洞窟の土の下に埋めた。死者の霊を悼むためとか天国に送るためなら、外でもよかったのです。いや、外のほうがよかったのです。そんなところに埋められたら、いつも人々の足の裏で踏み固められて、天国に行けるわけがない。
かつての日本の民俗社会でも、間引きした赤ん坊を土間の土の下に埋めるという習俗があった。それは、足で踏み固めて化けてでてこないようにするためだったのだとか。外に埋めたら、極楽浄土ではなく、わけのわからない「黄泉の国」にいってしまい、いつでも化けて出てほとんどこの世にいるのと同じになってしまう、と考えたからでしょう。
日本人は、伝統的に「死後の世界」など信じていないところがある。
日本人は、死者とともに暮らしている。
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日本人は、死後の世界とこの生の世界との「間(ま)」の世界を信じている。
「間=魔」である妖怪も、間引きされた赤ん坊も、そこに住んでいる。ご先祖様だって、死後の世界ではなく、そこにいるのだ。
死後の世界を信じていないから、そういう「間」の世界がイメージされていったのかもしれない。
日本人にとっては、神は「間」の世界に住んでいた。死の世界ではない。死の世界など「ない」のだ。神は、生と死の「間」に存在する。
死は、「何もない」世界。そういう「ない」とこの世の「ある」の「間」に、神が存在している。
「私という身体」が「ある」、これがこの「生」です。そして「何もない」のが「死」の世界です。であれば、「私という身体」の外のこの「世界」は、生と死の「間」に存在していることになる。
これが、日本人の世界観であり、「他者」という存在に対する視線なのだろうと思えます。
「私の身体」の外の森羅万象は、すべて神である、と古代人は思っていた。したがって「他者」もまた神である、ということになる。日本列島では、かんたんに人が神になってしまう。というか、人(他者)は神だったのだ。
人(他者)が神になってしまう社会では、「私」は、「神ではない」存在として否定されてしまう。
だから「粗末なものですが」と言って贈り物を差し出す。
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「異人論」(小松和彦・著)では、「まれびと」について次のような説明がなされています。
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 ところで柳田国男折口信夫も、ともに日本人の思考様式や行動様式を背後から支えているであろう日本人の神観念を明らかにしようとしていた。柳田はそれを「先祖」もしくは「祖霊」というかたちで取り出した。つまり、日本人の神とはかつて家の成員であったものが、子孫たちによる死後の儀礼を経て「神」となって祀られたものと考えたのである。折口の考えた日本人の神は、これとは異なっていた。彼は日本人の神の本質を、他界に住む神がときを定めて人間を富ませるために来訪することに見出したのである。この来訪神がいわゆる「まれびと」である。
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どうでもいいけど、「人間を富ませるために来訪する」なんて、ずいぶん下品なものの考え方だと思う。村人は、そんな利益のためだけでそうした神を迎える行事をしていたのではない。海に閉じ込められた日本列島の住民にとって、「来訪する」ということそれじたいが祝福する行為だったからだ。
だから、ほとんどの神は、蓑笠をつけた乞食姿としてやってくる。蓑笠は、そうした祭りのユニホームだったのであり、それでもその来訪を喜び受け入れてゆくところに「まれびと」信仰の本質がある。そんな「富」などあてにしないで受け入れていったものだけにそれが与えられる。まれびと神は、「富」を与えるためにやってくるのではない。「祝福する」心性を交歓するためにやってくるのだ。
それはともかく、「死後の世界」は、仏教伝来とともに輸入された概念です。そこで、ご先祖様をうやまうという信仰は、「死後の世界はない」という伝統とのかねあいで「間」の世界においてイメージされていった。したがって、「祖霊信仰」は、「日本人の思考様式や行動様式を背後から支えているであろう日本人の神観念」ではおそらくないのです。
また、折口信夫が「まれびと」のことを「他界に住む神」と考えていたとすれば、これもまた仏教伝来以降にやりくりされていったイメージに過ぎないはずです。
「日本人の思考様式や行動様式を背後から支えているであろう神観念」に死後の世界としての「他界」というイメージはないのです。
「ご先祖様」にしろ「まれびと神」にしろ、日本人は、「やおよろずの神」として、いつも一緒に暮らしているのです。「ご先祖様」は仏壇の中にいる、と思っていたのです。山に入っていったときも畑にいるときも、ご先祖様の声を聞いたり、ご先祖様がいつも守っていてくれると思っていたのです。そして「まれびと神」はかんたんに遊行の僧や旅芸人や乞食にだって変わってしまうのです。「ご先祖様」も「まれびと神」も、死後の世界の住人ではなく、この世と死後の世界の「間」にいるのです。
われわれがクリスマスだろうと初詣だろうと除夜の鐘や葬式だろうとなんでも受け入れてしまうのは、死んだらわけのわからない「黄泉の国」に行くだけだといって「他界」をイメージしない神道の観念に背後から支えられているからでしょう。「死後の世界の神」など信じていないから、そうした神の行事を全部平等に受け入れることができる。そんなものは、ぜんぶただの行事だ、と思っている。どれひとつとして、本気で「神の行事」だなんて思っていない。日本人の「神」は、死後の世界とこの世界の「間(ま)」に住んでいるのだ。
日本人に「死後の世界」のイメージなどなかった。したがって「ご先祖様」を祀る習慣も、「ご先祖様」が守ってくれるという気分もなかった。
たとえば「古事記」のイザナギは、最愛の妻であるイザナミの死を祀ったか。黄泉の国の入り口で、蛆虫がわいている死体になってしまったのを見て、驚き逃げ帰ってきただけです。そしてイザナミは、「ご先祖様」としてイザナギを守ってくれたか。そうじゃない。おまえの国の人間をどんどん死なせてやる、と捨てぜりふを吐いただけです。これが、古代人の「死者」に対するイメージだったのです。こんなところから「祖霊信仰」が生まれてくるはずがない。
古代の日本人にとって、死者は、「穢れ」をもたらすものであって「ご先祖様」であったのではない。
「祖霊信仰」を「背後から支えている」のは、仏教伝来なのだ。
同様に、「まれびと」が他界に住む神であるというイメージも、日本人の伝統的な死生観や神観念から生まれてきたものであるはずがない。
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古代の日本人に「死後の世界」というイメージはなかった。それでもそういうイメージにしたがった神観念をなぜつくっていったかといえば、来訪する「まれびと」を無条件で祝福して受け入れてしまうメンタリティを持っていたからでしょう。
彼らにとって仏教は、「まれびと」だったのだ。
「まれびと」の文化を持っている日本人は、かんたんに外来文化を受け入れてしまう。
「死後の世界」のイメージはもともと日本列島にはなかった外来のものなのに、現代のこの国で「スピリチュアル」のブームになっているのも、それが外来のものであるというそのことによって起きているのだろうと思えます。われわれの体の中には、そうやって外来のものにやすやすととびついてしまう「まれびと」の文化がしみついている。
そして「粗末なものですが」贈り物を差し出すその気分で、「まれびと」の文化が忘れ去られようとしている。
「スピリチュアル」なんて、日本人の体にしみ付いたものではないから、ブームになるのだ。だから、いかれたOLが「あなたの前世はロシアの美しいバレリーナだった」なんて空々しいつくり話を与えられて、かんたんに信じてしまう。そういう噂を聞くたびに、日本人の「まれびと」を祝福してしまう文化がいかに根深いところに定着しているかということを、あらためて思い知らされるばかりだ。まあ、それはそれで、主人も客もたがいに祝福しあっている。
この世の中には、そんなつくり話をでっち上げることを職業にしている人がたくさんいるらしい。で、ご当人たちは、安心と夢を与えているのだ、といばっていやがる。
そんな職業があっていいのかどうかということは、僕にはよくわからないが、それが現代の日本人に体ごとの安心や夢を与えているとは思わない。
われわれは、体の奥底で、そういう話になじみきれない生理を持っている。
ともあれ、今の日本人は、安心や夢を欲しがっている。そして日本人が安心や夢を得るには、体にフィットしないものの方がいいらしい。「まれびと」の文化を持っているから、そういうものの方が安心して祝福できるのだ。
日本人の体(伝統)にフィットした感情は、「死後の世界」などない、と嘆くことですからね。それは、人間の根源的普遍的な感情のはずだが、われわれは今、そういう感情で生きてゆける社会にはいない。
問題は、とてもねじくれてややこしいのだ。
安心や夢を欲しがるというそのことが不健康なのだ、と僕などは思ってしまうのだけど、現代社会は安心や夢を与えることこそ正義で金儲けになるようにできている。