「まれびと」は、正義の使者か

ロックの歌詞(のようなもの)をつくってみました。
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我慢して働けってか?
大きなお世話だ。
毎日満員電車に揺られながら会社勤めして女房子供に給料持ってくることが正義なのか?
そりゃあ大変だろうけど、そんなことでえらそうな顔されたらたまったものじゃない。
あんたは立派な人間で、俺たちは人間のくずか?
そうじゃない、あんたの人生だって、くずみたいなものさ。
いいかげん、気がつけよ。
くずが集まってこの世の中をつくっているだけじゃないか。
大統領や総理大臣やローマ法王やダライ・ラマやその他もろもろの教祖様やイチローベッカムや幸田来未やキムタクだって、みんなくずさ。
くずじゃないのは、生まれてこなかった人間だけだ。
死んでしまった人間だけだ。
我慢して、むやみに物を欲しがるな、てか?
ほっといてくれ。
それが際限なく欲望を煽り立ててくる高度資本主義に抵抗する力だなんて、あんた、資本主義を甘く見ているよ。言うことが、おセンチすぎるよ。
千円のものを我慢して五百円のものを買え、洋服買うのを我慢して映画を見ろ、化粧品にあれこれ手を出す前にエステに通え、サプリメントを飲め。そうやって今、やつらは「我慢」という欲望を煽り立ててきているんだぜ。
我慢なんかしなくていいんだ。
我慢しなきゃならないような欲望を山ほど抱えているくせに、えらそうな顔するなよ。
自分は正しいなんて、思うなよ。
我慢なんて、くずのすることさ。
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グローバル化した現在の高度資本主義は、地球の隅々までしゃぶり尽くそうとしている。
それにともなって、われわれの意識も際限なく広がってゆく。
そうして、地球の環境汚染がどうのと騒ぎ立てている。
地球なんてどうでもいいのだ。地球はほんとうに丸いのか。僕は宇宙飛行士になったことがないから、そんなことはわからない。
アマゾンの森林が砂漠化しているといったって、アマゾンに行ったことがないから、ほんとうにそんな場所があるのかどうか、いまいちぴんとこない。ほんとうにあるのですか。あるに決まっているじゃないか、あると思え、というのは暴力です。
行ったこともないアマゾンのことを憂える能力は僕にはないし、したがってアマゾンが森林でなければならないと主張する意欲もない。人類が滅亡するかどうかということはちょっぴり気になるが、滅亡してはならないと思う能力も意欲もない。
僕は、ほんの少しの人間しか知らない。人類という単位でこの地球上にどれだけの人間が住んでいるかということは、よくわからないのだ。
人間はどのように生きねばならないかと考えるような「欲望」は、持ちたくもないし、持つ能力もない。どのように生きるのだろうか、とときどき考えているだけだ。
知りもしない地球やアマゾンのことを本気で憂えるなんて、途方もないことだし、病気だと思わないでもない。そういう流儀の思考の果てに、鬱病になったり認知症になったりするのかもしれない。われわれを追いつめているのは、権力者や資本主義の商人だけではない、われわれじしんがわれわれを追いつめている。
我慢することは資本主義に抵抗する力だなんて、何をくだらないこといってやがる。我慢しているあいだは、まだまだやつらの思うツボさ。
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真夜中に、ひとりで部屋の中にじっとしていると、部屋の外が昼間見た街と同じであるのかどうかわからなくなるときがある。砂漠かもしれない。海かもしれない。ニューヨークかもしれない。墓場かもしれない。
いや、何もないかもしれない。
たぶん、何もない、と思うのが、いちばん健康な感性なのでしょうね。
そして、昼間と同じ町があるに決まっていると信じて疑わないのは、ほとんど病気かもしれない。フッサール先生は、これこそ「超越論的主観性」だとおっしゃるのだけれど。
体調にもよる。
体のうっとうしさが何もなく、空っぽのように感じられれば、すっきりと見えないものは何もないのだ、と思うことができる。
こういうのを、原始的な感性というのだろうか。
それにたいして現代人は、ないものまであると思い込んで、勝手な妄想を膨らませたり、強迫観念を募らせたりしている。だから、体のことが気になってばかりいるのだ。
体のことを気にするようにして、地球のことを気にしている。
南極のオゾン層に穴があいたと不安がるようにして、道端の吸殻に顔をゆがめている。
欲望とは、ないものまで「ある」と思い込んでしまうことだ。行ったことがない場所まで、行ったことがあるように思い込んでしまうことだ。だから、行かないと気がすまなくなる。それは、「未知」に対する好奇心でもなんでもない。病的な「既視感(デジャビュ)」にすぎない。
歴史に「原因」などない、「結果」があるだけだ(スピノザ)。われわれは、すでに見てしまったものしか見ることができない。
見えないものは、「ない」のだ。
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氷河期が空けて大陸から切り離された日本列島に立った縄文人は、たぶん、海の向こうは「なにもない」と思っていた。
それが、原始的な心性でしょう。
われわれの意識の底にある海に対する根源的な感情は、たぶん「畏れ」であって、「憧れ」や「親しみ」ではない。海の底が怖いから、竜宮城の物語をつくったのだ。沖まで泳いでいったときに襲われる根源的な恐怖のことは、海水浴場でちゃぷちゃぷやっている人にはわかるまい。それは、ベテランの漁師だって体験する感情なのです。漁船の海難事故で、どうしてプロの漁師ががああもかんたんに沈んでしまうのだろうと思わされることがときどきあるが、それはそうした根源的な恐怖に襲われて体が動かなくなってしまうかららしい。
人は、失恋すると海を眺めにくる。それは、水平線の向こうには「何もない」というその絶望によって、未練を断ち切ろうとする心が癒されるからでしょう。これは、キルケゴールだっていっていることです。人は、ある大きな絶望を持つと、ほかのたいていの絶望に耐えられるようになる、と。
「死んだ気になってやってみろ」というのと同じです。
絶望とは、「ない」という認識にとらわれてしまうこと。海は、その「ない」という認識と和解させてくれる。
失恋することは、死と和解すること。だから、失恋の体験は貴重です。
海の向こうは「なにもない」、と認識することは、死と和解すること。縄文人は、決定的な絶望を抱えて存在していた。彼らは死と和解していた。縄文人の平均寿命はたった30数年で、しかも8千年間ほとんど伸びていない。これは、驚くべきことです。つまり、それほどにすでに死と和解した生き方をしていた、ということです。
現代人のように怖がりまくっていれば、生活レベルは少しづつでも向上していったはずなのだから、寿命もいくぶんかは伸びていってもいいはずです。8千年ものあいだ、彼らは、寿命が延びるような工夫をしなかった。すでに死という絶望と和解していた。
こういう言い方をすると話が飛躍しすぎていると思われそうだけど、縄文人はたぶん、肉体としての身体ではなく、空っぽの空間としての身体を生きていた、ということです。世界や他者との出会いのときめきに生きていたから、自分の肉体としての身体のことは忘れてしまっていた。身体において、すでに「ない」という認識を獲得していた。とても身体的だったからこそ、身体のことなんかどうでもよかった。
とにかく彼らは、「もっと生きていたい」という欲望を持つことができなった。
彼らは、身のまわりで起きることに全身で反応して生きていた。それ以外のものは、すべて「ない」と思い定めていた。すなわち「まれびと」との出会いが、彼らの生を覆っていた。
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現代人は、人類史上もっとも死を恐れている人たちです。
地球やアマゾンのことは知らない、という絶望と和解していないからです。死のことなどわからない、という絶望と和解していないからです。そうして、未来だろうとさいころの目の裏側だろうと地球の裏側だろうと、なんでも知ったつもりになって、「ない」ということと和解できなくなってしまっている。
この生の向こうがわは「何もない」と思わなければ、そりゃあ死なんか怖くないでしょう。しかしそれは、とりあえずそういうことにしているだけです。いつかはその「何もない」ということと向き合わねばならなくなる。
弥生時代以降の古代人が、「死んだらわけのわからない黄泉(よみ)の国にいく」と考えていたということは、縄文人はもっとヴィヴィッドにそう感じていたことを意味します。死の世界には「なにもない」と認識することは、身が縮むほど怖いことです。縄文人だって怖がっていなかったのではない。怖いことと和解していただけです。「もののあはれを知る」とは、怖いことと和解してゆく心の動きのことです。そういう伝統を、われわれは生きてきたのです。
現代人の「怖くない」と思っているその身振りこそが問題なのです。「ない」ということを見ていない。だから、とりあえず死のことを忘れて生きていられる。死のことより、地球を救うことのほうが大事になっている。
しかし人類はもう、この生の向こうがわは「なにもない」とすでに認識してしまったのです。とくに日本列島では、そういう認識を深く抱いて歴史を歩んできたのです。
もしも現代社会に、最後の最後で死と和解できずに鬱病認知症になってしまうという問題があるのなら、地球やアマゾンが「ある」などと考えないほうがいい。
おまえは地球が滅亡してしまっていいのか、といわれても、地球なんかあるのかどうかわからないのだから、滅亡もくそもないじゃないですか。
僕は間違っていますよ。地球を救え、とおっしゃるみなさんの方が正しい。
しかしねえ、地球を救いたいという自分の欲望だけは野放しにして、アマゾンの木を切りたいという欲望は我慢しろというわけですか。われわれは正しい、といったって、正しいと思いたい欲望じゃないですか。満員電車に揺られていたら、正しいと思う権利があるのですか。
我慢したいんでしょう?それは、我慢したいという欲望じゃないですか。
アマゾンの木を切っている人たちだって、自分の立場上地球を救いたいという欲望を我慢しているんだ、というかもしれないですよ。
我慢と欲望のいたちごっこなんか、僕はごめんです。生きたいように生き、言いたいように言えれば、と願っている。我慢なんか、したくない。大人たちの我慢が、この社会を歪ませている。歪んでもいいけど、「正しい社会」などというものもまた存在しないのだ。我慢と引き換えに「自分は正しく生きている」と思いたがるような、そんな意地汚い身振りは持ちたくない。