団塊世代とビートルズ・5

団塊世代は、なぜ自分たちの醜さに気づかないのか、わかりますか。それは、団塊世代を批判する人たちが自分たちのほうがましだと思っているのと同じ精神構造だからです。
団塊世代を批判する人たちも、けっきょくは社会正義みたいなものを振りかざしてくる。やめてくれよ。て感じです。おめえらだっておんなじ豚じゃねえか、と思ってしまいます。
それはともかくとして、団塊世代が均質化していったことのわけは、いろいろあるだろうと思えます。
一学級に60人以上も詰め込まれれば、均質化しないとまとまりがつかない。
いつも同じ年代の仲間の、話題も行動様式も身体能力も似ている者どうしとばかり遊んでいた。
敗戦の記憶を引きずり、それを忘れようとしていた親たちの意識が均質化していたから。
そうやって歴史を清算した社会だったから、誰もがいつも同じように新しい「ネクスト・ワン」に興味を寄せていった。
長い歴史とともに生きる社会であれば、歴史の長さのぶんだけ多様な意識が生まれてくるが、そういう歴史を喪失すれば、人々はどんどん均質化してゆく。
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人は、個性を持って生まれてくるのではない。その社会が持っている歴史によって、個性が生まれ育ってゆくのだ。
生まれたときは、みんなただのサルです。われわれは、個性を持つ能力を持って生まれてくるが、個性を持って生まれてくるのではない。
だから、むやみに、遺伝子遺伝子といわないほうがいい。
団塊世代が均質化しているのは、戦後社会がそういう構造になっていたからであり、どいつもこいつも個性ありげに振舞うようなかたちで均質化してゆく社会の構造だったのです。
同じ年代の仲間どうしで遊んでいれば、話題も行動様式も身体能力もまあ似たようなものだから、みんなが個性ありげに振舞っても、そう集団が混乱することもない。というか、そうやって振舞っても集団が混乱しないような遊び方が、天才的にうまかった。なにしろ、小学校に入りたてのころからすでに、自分たちだけで野球という複雑なルールのゲームをちゃんと進行させてゆく能力があったのです。三角ベースじゃないですよ。九人対九人のちゃんとしたゲームです。それはつまり、彼らの一人一人がたいした個性などなく、均質化していたからです。今の子供たちがそんなことをやろうとしても、たちまち混乱して収拾がつかなくなってしまうだけです。
団塊世代は、個性を持っているのではない、個性ありげに振舞う習性を身につけているだけなのだ。
また、「団塊ひとりぼっち」の著者が言うような、戦争を生き残った人たちの強い生命力の遺伝子を引き継いだ、ということもさらにない。親から引き継いだものなど、ほとんどない。
目の前に人参をぶら下げられた馬のように、誰もが、つねに、親よりも、社会から生まれてくる新しいネクスト・ワンを追いかけて生きてきたのです。誰もが同じように、ネクスト・ワンという個性を追いかけていたのです。彼らじしんが、個性を持っていたのではない。
戦後社会は、個性を生み育てるような社会ではなかった。個性ありげに振舞うようなやつばかりを均質化して生み出す社会だったのだ。
戦前に生まれた人たちはいいですよ。それぞれが、戦前までの長い歴史の上に立った固有の幼児体験を持っている。しかしわれわれ戦後生まれの子供たちは、そういう固有の幼児体験をする機会を奪われたままその時期を通過していったのです。
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六十年代は、ヨーロッパに代わってアメリカの資本主義が、コカコーラとともに世界への進出を加速していった時代であった。コカコーラを売るためには、世界を均質化してみんながコカコーラを飲みたくなるように仕向けなければならない。そしてビートルズもまた、当時のもっともセンセーショナルで資本主義的な商品としてそのような均質化してゆく世界に舞い降りてゆき、熱狂的に受け入れられていったのだ。
大センセーションは、世界が均質化したときに起こる。しかしロックとは、はたしてそういうものだろうか。すくなくとも現在のロックミュージックに夢中になっている若者たちには、大センセーションを起こす気なんかないでしょう。世の大人たちに違和感を覚える彼らにとって世界は均質なものではないし、全共闘運動に夢中になっていた団塊世代の若者たちのように、この社会を奪って自分たちの望む通りに均質化してしまおうとする意志もない。
「戦争のない世界を想像してごらん」といえば聞こえはいいが、それは、そういう思想で人間を均質化してしまおうとする支配欲でもあるのだ。戦争がいやだろうと、戦争をしたがろうと、世の中、人さまざまだ。戦争をしたいと思う心が生まれてくるような状況があれば、どうしようもなくそういう衝動が生まれてきてしまうのだ。悪い心が戦争をしたがるのではない。そういう衝動を生み出す「状況」があるのだ。そんなことは、状況しだいで、誰だって考えてしまうのだ。戦争や人殺しは否定しても、戦争や人殺しをしたがる心を否定する権利は誰にもないのだ。さあ、どうする・・・。
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現在の、ニートや引きこもりやストリートにたむろするなどの若者たちは、この社会の均質化の恩恵に浴する能力もないし、浴したいという願いもない。彼らは、社会から均質化されてしまうことを拒みながら、彼らなりに、みずからの身体が存在できる空間(スペース)をけんめいに探している。彼らは、60年代の日本の若者たちのように、社会が提出する新しいものにかんたんにいかれてしまって、平凡パンチだのビートルズだの全共闘運動だのとたやすく均質化されてゆくようなお人よしでも欲張りでもない。みずからの身体が存在できる空間(スペース)が欲しいだけなのだ。
あれもこれも欲しがるのは、個性がないからであり、個性とは、欲望が限定されてゆくことなのだ。
ちょっと話がややこしくなってきたので、やめます。